番外編6.ロスト・メモリー1
物干し竿に、洗ったばかりのマフラーを干した後。
夕方だから、乾くのには時間がかかるだろうか? と、わたしは揺れるマフラーをじっと見上げていた。
顔は少し熱い。その火照りを、両手をぺたぺた上げながら、どうにか下げようと四苦八苦していた。
ついさきほど、ナルミくん……じゃなくて、シュウと、お互いに下の名前で呼び合うことに決めた。
男の子を下の名前で呼んだことなんて、今まで一度もない。とにかく緊張してしまって、しどろもどろになってしまった。
でも、シュウもわたしと同じように赤い顔をしていたから……少しだけ、わたしはそのことにほっとしていた。
「フカタニは」
わたしは振り向く。
シュウはちらっとわたしの顔を見遣り、耳の後ろあたりに触れながら、
「……嫌だったらいいんだけど。ナガレにとって、フカタニはどういう人だったんだ?」
俺はよく知らないからさ、とシュウが付け足す。
わたしはその言葉に、考える。リンのことを。このマフラーの、持ち主だった彼女のことを。
それは随分と久しぶりのことのように思えた。
最近は思いだそうとしても、フラッシュバックみたいに、その最期の瞬間――わたしが斬ってしまったリンの、苦しげなその表情や言葉しか思い出していなかったのだ。
だけどシュウの問いを受けて、頭の中で思い浮かべてみる。
リンとの楽しい記憶。
それは、もともと、手の平から零れだしてしまうくらいにいっぱいあった。
2人で笑い合って、夕方になるまで遊んで、手を振り合ったこと。
修学旅行でも同じ班だった。リンは修学旅行の実行委員会にも参加していて、京都のことに詳しかった。
先生にバレないように枕投げしようとか、恋愛話は絶対にしようとか、必ずおだんごの食べ歩きをしようとか、いろんな話をして……でも最も印象的だったのは、こんな会話だった。
「金閣寺って、誰が撮ってもきれいなんだって。わたしもきれいに撮れるかな?」
「ナガレなら、絶対ぴかぴかに撮れるよ。でも、誰と一緒に見たかでもっときれいになると思わない? つまり私と、ってことだけどね!」
近所の図書館も、公園も、プールも、文化会館も、遊園地も、学校の中だって全部、リンと一緒にいた思い出ばっかりだ。
……どうして、わたしは、そんな大事なことを忘れていたんだろう?
胸の中に浮かんだ二つの言葉を、見失わない前に口にする。
「リンは……リンは、優しくて……それでとても、格好良かった」
「格好良かった?」
シュウが不思議そうに瞬きする。確かに、中学生の女の子を形容するにはあまり相応しくない言葉だろう。
でもわたしは、ずっとリンのことを格好良いと思っていた。
「うん。誰かが嫌がることを、自分はすすんでやったり……。悲しい顔をしてる人がいたら、すぐに近くに行って、話を聞いてた」
人によってはもしかしたら、それをお節介と呼ぶのかもしれないけど。
少なくとも。小学生の頃から、深谷凛はわたしの憧れだった。
わたしは、その頃よく周りの人にからかわれていた。
無口で、無愛想なのが大きな原因だったのだと思う。それに目つきの悪い子どもだったのだ(今もそうだけど)。
なぜか靴がなくなっていて、家に帰ることができなくて、ひとりで泣いていた。
先週、母が買ってくれたばかりのピンクのスニーカーだ。かわいくてお気に入りだった。それが靴箱からなくなっていたのだ。
すれ違う生徒はいたけれど、声を出さずに泣くわたしに声を掛ける人はいなかった。たぶん気味悪く思われていたんだろう。
「ねえ、どうしたの?」
そんなとき、たった1人だけ立ち止まってくれた人が居た。
それが深谷凛だった。
パーマがかった髪の毛を肩のあたりでふわふわ揺らして、にこにこと、表裏のない笑顔を浮かべていた。
いま思い返せば、わたしが泣いていたから、きっと凛は努めて明るく振る舞っていた。
わたしと同じ小学2年生だったのに、そうとは思えないくらい、その頃から大人びた気遣いをする子だったのだ。
「水谷内さん、だよね? 同じクラスの」
「……うん」
距離感を探るように、一歩、控えめに近づいてくる。
わたしは泣いていたところをクラスメイトに見られたのが恥ずかしくて、居たたまれなくて、目もうまく見られなかった。
凛はそれでも、臆せず話しかけてくれた。
「何か、嫌なことがあった?」
ううん、と首を振ろうと思った。
でも、気がついたら頷いていた。
「……うん。靴、が」
わたしのその言葉だけで、凛は大体のことを察したらしい。
小さな声で呟いた。
「それなら、手伝うのは私だけの方がいいよね」
「え?」
「ランドセル教室に置いてこよう。大丈夫! 2人で探せばすぐだよ」
またにこっと、音が出るくらい笑って凛がわたしの手を取った。
そのあとすぐに、スニーカーは凛が見つけてくれた。
わたしはなくなったはずのスニーカーが目の前に現れたのに驚いて、嬉しくて、ひたすら「ありがとう」としか言えなかった。
今になってよくよく考えてみれば、やっぱり靴は誰かに隠されていたんだろう。たぶんゴミ箱とか、そういう場所におかれていたのだ。
でも喜ぶわたしに、凛は「どういたしまして」とおどけて笑うくらいで、それがどこで見つかったかなんて一言も言わなかった。
理由は考えずとも分かる。それを知ったら、わたしが傷つくと承知して――凛はそのことに触れなかった。今に至るまで、ずっと。
「私、ずっと話してみたかったんだ」
「え?」
「水谷内さんと。とっても美人さんだから」
はしゃいでいたわたしに、玄関口まで一緒に戻ってきた凛がそう言った。
それから、わたしと凛は友だちになった。ずっと一緒で、過ごしてきた。
それでも一度だけ、どうしても分からなくて、中学に上がった頃に訊いてみたことがある。
「凛は、どうしてわたしなんかと仲良くしてくれるの?」
わたしと違って、凛は人気者だった。
男女とも分け隔てなく接するし、言葉は素直で、でも細やかな気配りがあった。
そんな人が、どうしてわたしと一緒に居てくれるのか? わたしには、その理由が何度考えてもわからず、不思議でしょうがなかった。
でもそう訊いたとき、初めて凛が怒った顔をした。
「……流。そんな言い方しないで」
やさしい彼女が怒った風な顔をしたのは本当に初めてのことで、わたしはかなりオロオロしていた。
凛はわたしの肩に手を置いて、諭すように言った。
「流は私にとって自慢の、たった1人の親友だよ。「なんか」なんて、言わないでほしい」
たった1人。
……どれほどその言葉がうれしかったか分からない。目の前の靄が急に晴れたような心持ちで、わたしは感動していた。
友だちの多い凛が、わたしを、たった1人だと言ってくれたこと。
嘘を嫌う凛の言葉だ。きっと本音だった。だとしたらそれは、何て、何て――うれしいことだろう?
踊り出したいくらい、幸せだった。気持ちが溢れ出して微笑むわたしの頬を、凛は「何で笑うの~!?」と困った風に、笑いながらつついてきた……。
「……そんなことがあったんだ」
シュウが呟く。
言葉にしてみたら、今まで忘れていた――ううん、記憶の底に眠っていた思い出が、次から次へと甦ってくるみたいだった。
たくさんの経験を、感情を共有してきた。小学生の頃から、中学3年生になっても、ずっと。
恐ろしくなるほど遠く感じる日々だ。わたしはもう二度と、リンの笑顔を見ることはできない。
「2人は中学でも、ずっとクラス一緒だったんだよね?」
わたしは頷く。
何かの力が働いてるのか、小学校の3、4年生ではクラスは別れてしまったが、それ以外はすべて同じクラスだったのだ。
「シュウと同じクラスになったのは、3年生になってから、だね」
「うん。ナガレのことは前から知ってたけど」
「えっ」
な、何で?
わたしは急に不安になってしまった。何か、他のクラスにも知れ渡るほどの問題を起こしていたとか?
慌てるわたしに、「違う違う」とシュウが両手ごと首を振る。
「よく陸上部の大会で入賞して、全校集会で表彰されてただろ? それで知ってたんだ」
「あー……」
なるほど。
納得がいって、こくこく首を上下に振る。
中学に入って、半ば無理やり勧誘を受けた形で入ったのが陸上部だった。
走るのは得意でも苦手でもないと思っていたけれど、3年生の先輩が「フォームがキレイ。君は伸びる!」と褒め称えてくれて、それでやはりだいぶ無理やり、入部届を出すことになったのだった。
ちなみにそのセリフは、体験入部にやって来た1年生全員に言っていたらしい。でも放課後、毎日走ってる内に運動が好きになって、1年生の夏には短距離走の選手に選ばれたのだ。
走るのは、楽しい。
走ってる間は、ほとんど何も考えないで済むからだ。余計なことは何も。
前にそんなことを話したら、凛は「ちょっと分かるかも」と真剣な顔で頷いていた。
凛は吹奏楽部に入部したが、同じように、演奏している頃は空っぽでいられるのだと言っていた。
――それから中学3年生に進級して。
わたしたちは、1人の生徒を取り巻く現実を目の当たりにすることになる。




