160.決別
顔の半分を失ったその男は、匍匐前進をして、文字通り這いつくばっていた。
筆舌に尽くしがたいほど、グロテスクな有り様である。
坊主頭から、顎に至るまでが焼けただれ、赤黒い肉片に彩られた白い骨が随所に覗いている。
火傷で盛り上がった皮膚と筋肉に圧迫された左眼は、開くことさえ叶わなかった。
一言でいえばそれは、人間の頭の断面図だった。
しかしそんな姿になっても、男は――イシジマは、進んでいる。
遅々とした亀のような歩みには違いない。それでも、立ち止まることはなかった。
――シュウ、シュウ、シュウ、シュウ、シュウ。
既に半分になってしまった頭の中には、同じ単語だけが、ずっと、ずっと、繰り返し響いていた。
もはやその単語の、三文字の意味を、イシジマがまともに理解していたかは定かではない。
とにかくそれだけだった。常軌を逸する執着にだけしがみついて、それだけがイシジマの手足を動かしていたのだ。
視界がほとんど正常に機能せず、おまけに感覚器官の大半はぶっ壊れているような状態だ。
だが、生きてはいる。皮膚の下では心臓も動いている。その限り、シュウ――とかいう、なにかを、誰かを、殺すことができる。
千切れた唇を、舌なめずりして、そうしてイシジマはどこかに向かおうとしていた。
だが、その無防備な首を、ゴス、と重い音を立てて刃物が貫いた。
「んぐ」
それが最期の言葉となった。
その刃物が引き抜かれる頃には、イシジマは完全に絶命していた。呆気ない終わりだった。
トドメを刺した張本人は、たった今イシジマの命を奪ったばかりの短剣をくるくると指先で弄ぶ。
つまらない尻ぬぐいだ、という気持ちでいっぱいだった。無論、罪悪感やら後悔やらとは縁遠い場所に、その男は居る。
「こっちのアイツは、爪が甘いんだな」
肩ほどまである、ボサボサの黒い髪を、男は掻き回して、ハァと適当な溜息を吐いた。
ホレイ・アルスターだった。そして彼はまた、何事もなかったように夜の闇に姿を消した。
+ + +
頬に、温かな感触が跳ねた。
その正体が何なのか。
しばらく考えてみても分からず、でも何となく分からないままにはしたくなくて、うろうろと、シュウは目を開いた。
視界はぼやけている。ただ、その中心で、見知った少女が両手に顔を埋めていた。
ああ、泣いているのか、とすぐに気がつく。先ほど、頬に触れたのは、彼女の涙だったのだ。
そう気づけば、このままぼんやり黙っているなんてできるはずもない。
なるべく俺は、その子に笑っていてほしいのだ。
「ナガレ……」
「!」
掠れた声音で呼びかけたものの、その耳元まで俺の声は届いたらしい。
ナガレがぱっと顔を上げた。弾みにまた涙が散ったのだが、目が合った瞬間、潤んだ瞳には再び涙の気配が迫り上がっていた。
「良かった、シュウ。良かった……」
ぽろぽろと、ナガレの白い頬を涙が零れ落ちていく。
その内の数粒が、真下の俺の顔へと流れた。そう、俺はどうやら寝台に寝ているらしかったのだ。
俺は呆然と、視線を動かす。すると涙するナガレの背景に、見覚えのある天井が浮かんでいた。
「ここは……」
「エルフの国。あの後、戻ってきたの」
ナガレはそう言ってから再度、しゃくり上げながらも順序立てて説明してくれた。
「朝になっても、帰ってこないから、見に行ったの。そしたらシュウが、岩山の近くで倒れてて……ネムノキくんと一緒に陣営まで運んだ。その後、リセイナさんが戻ってきて、エルフの国に帰ろうって話になって」
そういうことだったのか。
どうりで、よくよく見た覚えのある内装なわけだ、と思う。ここはフィランノさんの家だ。しばらくナガレやホガミと共に厄介になっていたので、忘れるはずもない。
俺は再び、部屋の様子から、傍らのナガレに視線を戻す。
その頃には、ナガレは涙を必死に抑え込んでいたから、新たな雫が痩せた頬を流れることはなかったけれど。
「もしかして……ずっと起きて、待っててくれてたの?」
「え?」
俺はそぅっと、控えめに手を伸ばした。
ナガレが嫌がる素振りを見せれば、すぐに引っ込めるつもりだった。
しかしナガレはそれどころか、どちらかといえば俺の接触を待つように、寝台の横に中腰になって、黙って俺を見つめている。
俺はどぎまぎしつつ、ちょんと、軽く人差し指でナガレの頬を撫でた。
ぱちぱち、とナガレが軽く瞬きをする。睫毛に縁取られた大きな瞳は驚くほど聡明なひかりを宿している。いつもそうやって、彼女は他人を見るとき、真剣に食い入るように、見つめるようにするのだ。
「目の下に、ちょっとクマができてる」
「ほんと?」
ナガレは恥ずかしそうに目元を擦った。
きっと、俺がイシジマと戦っているときから――俺を見つけて、そしてエルフの国に戻ってきてからも、ずっとナガレは俺を心配して起きたままでいたのだろう。
急に不安になって、俺は訊いた。
「どれくらい経った?」
ナガレが頷く。
「大丈夫。まだ、シュウを見つけてから5時間くらい」
……良かった。ドラゴンの戦いから、一日が明けたところだったようだ。
金髪の女神さまが「ハルバニア城の真の扉を開く」というようなことを宣言したので不安だったが、最低でもそれに乗り遅れるということはなさそうだ。
安堵の吐息をつくと同時、もう一つ、気になっていたことを問うてみる。
「イシジマは?」
「……わたしたちが駆けつけたときには、居なかった。引きずったみたいな血の跡があったけど、とにかく、シュウを運ぶのが優先だったから」
「そっか……」
イシジマと戦ったとき。
俺はそれなりの、重傷を負った。でもそれが今は、多少の怠さは身体に残っているものの――たぶん、跡形もなく消えている。
そんな芸当をこなすことができるのは、俺の知る中でも限られた人数だけだ。
そして何となく予感がした。この傷を治したのは、おそらくは――
「ユキノ、は?」
その名前を口にした途端だった。
ナガレは困ったように眉を下げる。それからふるふる、と首を横に振った。
「ユキノさんは、どこにも居なくて。テントで寝てると思ってたけど、そこにもタオルが敷き詰められてたから……。入れ違いになるといけないから、って、リセイナさんがスプーの近くに残ってくれてる」
どうやらユキノは、内密にナガレたちの前から姿を消していたらしい。
しかし俺は、その後の彼女の足取りを、途中までとはいえ掴んでいた。というのも、記憶の一部が甦ったのだ。
イシジマとの死闘の末――何とか勝利した俺は、そのままその場に倒れ込んだ。
自力で起き上がる気力がなかったのだ。幸いというべきか、俺よりひどい怪我を負ったイシジマに追撃されることもなく、そのまま浅い呼吸をしてしばらくグッタリしていた。
だけど、気がつけば、顔面を中心に広がっていた痛みが如実に引いていたのだ。
俺は意識を彷徨わせながらも、中途半端に目を開いた。そこには、そうだ、紛れもなく――ユキノが居たのだ。
かざした手の平から、黄金色の光の粒が散って、夜の暗闇を驚くほど明るく照らし出していた。
地面に投げ出していたはずの後頭部は、柔らかい感触に包まれていた。たぶんユキノが膝枕してくれていたのだろう。
俺は何となく、ぽつりと、動くようになった唇でこう喋っていた。
「……前にも、こんなことがあったなぁ」
ユキノは一瞬、驚いたのか肩を竦ませたが、
「……カワムラと戦ったときのことですね」
そう、当たり前のように言葉を返してくれた。俺はそれがうれしかった。
あの頃は、まだ、こんなことになるなんて思いもしてなかったけど。
でも、ユキノと共に起き上がって、それでハルバニア城の周りに広がる湖畔を、一緒に見た。
奇跡みたいに綺麗な光景だった。今でも目を瞑れば、すぐに思い出せるくらいには。
「兄さまはいつも、無茶ばかりするから。あのときも本当は、私、怒りたかったのです」
だからユキノがそう呟いたとき、俺は苦笑した。いつも俺は、妹に心配をかけてばかりなのだ。
「でも、今回は違う。……兄さまが」
「うん?」
「兄さまが、自分のために、戦って、勝ち取ったことが――誇らしくて、うれしかったのです。私は」
どうやら本当に、彼女はそのとき大事なことを口にしているようだった。
あまりに真剣な声音と表情だったから、俺はそれが分かったけれど、でもうまく何かを言うことはできなかった。
というのも、回復による安心か、それとも溜まった疲労によるものなのか、急激な眠気に襲われていたからだ。
「…………ごめんなさい、もう行かなくては」
ユキノは、地面にタオルのようなものを敷くと、そこに俺の頭をそっと横たえた。
それきり立ち上がって、どこかに去って行こうとする。俺は夢心地のまま、その手を確かに掴んだ。
「っ!」
ユキノがびっくりして固まる。そのまま、俺をゆっくりと振り向いた。
「…………兄さまっ?」
語尾がかわいらしく跳ねていた。ユキノは冷静な女の子だけれど、想定外のことが起こると、人よりも動揺することが多かった。
行かないでくれ、と俺は言った。行くな、と。言ったつもりだけれど、それらを本当に口で伝えられたかは分からない。あまりに眠くて、意識が微睡んでいたから、正確なところは分からない。
しかし今――エルフの国にやって来たという俺から見える範囲に、ユキノの姿はない。
あの光景が……ユキノの姿が幻でないのなら、やはり彼女は俺を回復して、そしてどこかへと姿を消したのだ。
そう認識したとき、ゾッと、背筋を寒気が這い上がった。
――ユキノは、もう二度と、帰ってこないんじゃないか?
途端に怖ろしくなる。遠ざかっていく小さな背中が、脳裏に映る。
どうしたって俺は、手を離すべきじゃなかった。ユキノの柔らかい手を、あのまま握っていなくちゃいけなかったのだ。
それなのに、引き留められなかった。今さら後悔しても遅いのに。
黙り込む俺の顔を、ナガレが心配そうに見つめている。だがそんなことを説明する余裕もなかった。
そのとき、コンコンと、軽くドアが叩かれた。
「あ……」
振り向いたナガレが、言い淀む。「どうぞ」と言おうとしたところで、ここが以前俺に貸し与えられた部屋だったと思い出したのかもしれない。
そのため答える声はなかったのだが、ノックの主はまったく気にすることなく部屋に入ってきた。
予想通り、それはアサクラと、後ろについてきたネムノキだった。
俺はナガレの手を借りて、上半身だけを寝台から起こした。
「ようナルミ、もう起きて大丈夫か? なんか外で爆睡してたって聞いたけど」
アサクラがにこやかに笑っている。俺がイシジマに呼び出された事実は聞いているだろうに、こうやって軽めに茶化すのはアサクラのクセのようなものなんだろう。
少なからず、俺もその明るさに救われている。俺は苦笑して肩を竦めた。
アサクラはまだ何か言おうとしたのだが、そんな彼を押しのけ、ずずいっと目の前に整った顔が飛び出してきた。
「改めて――久しぶりぃ、シュウちゃん」
ネムノキだ。
「2年もシュウちゃんに会えなくて、寂しくて寂しくて仕方なかったよ」
「だったらフィアトム城に一緒に来れば良かっただろ」
ジト目でそう言ってやると、「ふふっ」とネムノキは笑みを落とした。
「それが出来なかったんだって、わかってるくせにぃ。イジワル言うね」
何が嬉しいのか、ネムノキはにやにや笑っている。
俺は何から文句をつけてやろうか、と頭の中で算段を始めた。コイツには本当に、言いたいことが多すぎるのだ。
しかしネムノキはそんな俺の心情を察したのか、手の平をぴしりと向けてくると、唐突に言い放った。
「じゃあシュウちゃん、と他のひと。せっかくだからボクの過去でも覗く? そうしたらまぁ大体、説明するより早いしね」
「過去でも、って……」
軽く言ってのけるネムノキに俺は問いかける。
「どういうことだ? 俺が……エクストラスキルを使って、みんなにおまえの過去を視せればいいのか?」
でも、スキルを手に入れたことも含め……そのあたりの説明はまだネムノキにはしていないはずだ。
しかしネムノキは首を振る。
「ううん。まだそれは、シュウちゃんにはキツいと思うから。エクストラスキルの元の持ち主にやってもらおう」
元の持ち主? ……アルのことか?
ウエーシア霊山で、確かに、俺はその声に呼びかけられてスキルの一部を貸し与えられた。
しかしそのことを、どうしてネムノキが知っているんだろう。疑問に頭を捻る合間に、ネムノキが「ちゅうもーく」と声を上げた。
胸元のポケットのあたりに手をやってから、なんだか水を掬うような形を作って、その両手を差し出してくる。
「はい、ボクの手の平の上。分かる?」
俺は思わず呆気にとられて、ネムノキの顔と、その白い両手を交互に見比べてしまった。
分かるも何も、ネムノキの手の上はがら空きだ。どんなにまじまじと見つめたって、何もない空間に何かが新しく生まれることはない。
俺は傍らのナガレを振り返り、次いでアサクラの方も見遣ったが、やはり2人ともネムノキを見て不思議そうに首を傾げるだけだ。
とりあえず言っておいた。
「…………お前が何を言ってるのか分からない」
だがネムノキは怯まない。口元に浮かぶ笑みが、得意げでさえある。
「そうだろうね。でも、シュウちゃんなら視えるよ。だって――"至高視界"は、視えないものこそ、視えるようになるスキルなんだから」
それは――。
……知る由もないことだ、ネムノキには。
でも知っている以上、決して彼も、無関係ではないということなのだろう。
「ネムノキ、お前……」
「ネムノキじゃない。ソラだよぉ」
お馴染みの文句を聞いている最中。
そして俺は、何度も目を凝らし――ついに、信じられないものを目にした。
先ほどまで、虚空ばかりが浮かんでいたネムノキの手の上に、それは、ちょこんと正座して座っていた。
最初からずっとそこに居た、とでも言い張るように。
まさしく、親指姫みたいなサイズの――
「お久しぶりです、兄さん」
――小さなユキノが、そうして、いつもみたいに優雅に微笑んだのだった。
第六章「兄妹の決別編」完結です。
少しでも面白いと感じて頂けたら、ブクマやポイント評価などいただけたらとってもうれしいです。引き続きがんばります。




