159.もう耳鳴りはきこえない
それは、実際は刹那にも満たない思考であった。
「――《破砕》ッッッ!!!」
やってやった、と思った。ほくそ笑む。
確信があった。見事に出し抜いた。これで、フィニッシュだ。次はない。
振りかざした拳を前に、シュウは驚愕のあまりか目を見開いたまま、固まっている。
そう。リミテッドスキルは必ず自動で発動する。例外はないのだ。
イシジマが《破砕》を使うなら、スキル"爆絶破壊"も併せて発動する。拳が触れた何もかもを木っ端微塵に破壊する、超攻撃型のスキルが。
ざまあみろ、とイシジマは胸中で失笑する。オレが口約束なんか律儀に守るわけねぇだろ。本当はそう、声に出して笑ってやりたい。
だがそれはこの一撃が、その顔を爆発させ、醜く凹ませた後だ。体感ではほんの、0.3秒後には、その瞬間は訪れるだろう。
騙されてそのまま死ね! 歯を剥き出しにして笑いながら、イシジマは拳をそのまま、振り下ろす。
そうだ。殺すことさえできれば、オレが――オレの方がコイツより上なんだと、はっきりと、証明できるはずだ。
ようやくだ。
ようやく、オレはコイツに、シュウに――――――
…………いや、でも。
よくよく考えれば、何かが腑に落ちない。
シュウは確かに、間抜けな男ではあった。
しかし決して馬鹿ではない。利口というわけでもなかったが。そのせいで、こんな何の価値もないような男が今までイシジマを手こずらせてきたのだ。
中学生活の3年間、じっくりと時間をかけ、イシジマはシュウをいたぶってきた。
残忍さも、冷酷さも、もしかしたらイシジマ以上に、シュウはイシジマのことを知っているはずだ。
それなのに――挑発したのは、どうしてだ?
いざとなればイシジマが約束なぞ破ってスキルを使うことを、予想しなかったのか?
その威力なら、昼間の戦いで思い知ったはずだ。そんな状況下で、オレを前に、無策でコイツが立つなんてこと
――そんなこと、考える必要はない!!
イシジマは雁字搦めになりそうな思考を無理やり断ち切った。
そして必死に自分に言い聞かせた。落ち着け、とも。
ここでイシジマが攻撃を止めたら、ますますシュウの思う壺だ。反撃の隙も与えない、圧倒的な攻撃力で潰してしまえばいいのだ。
そうだ。そうに決まっている……
それなのに……何故オレはこんなにも……慌てているんだ?
拳がヒットする直前、シュウの唇が、何かわなないたように見えた。
気のせいか? いや、違う。短く何かを叫んだのだ。でも、一体なにを――。
1秒にも満たない思考が、また、一瞬にして途切れる。
世界が爆発した。
馬鹿らしいが、何だかイシジマには本当に、そのように思えたのだ。
「…………っ?」
ボン! と。
冗談みたいな炸裂音が、すぐ近くで鳴った。
そのとき急に、家でポップコーンを作ったときのことを思い出していた。
油を熱したフライパンの上に、黄色い豆を投入して、フライパンを適当に振るのだ。豆はすぐ弾けて大きくなるから、本当はすぐに蓋をしなきゃいけなかった。でもイシジマはそうしなかったから、確か――
弾けて、飛び散ったのだ。
強すぎる熱で膨らみ、皮膚を突き破って、飛び出す。
「が、が、あ…………ッ?!」
バター代わりの血液がぶしゃり、と汚らしい音を立てて噴き出る。
あとは――何だ? 見えない。よく見えない。目が……うまく開いていないのか。
どうなっているか分からず、右往左往して、結局彷徨った両手が確かめるように顔を触る。その輪郭を、調べようとする。
「ふ、が――ッ?」
口端から、奇妙な声が洩れた。
――顔! 顔顔顔顔!!! これが顔か!? 本当に!? イシジマは愕然とする。
そのぶよぶよと得体の知れない、何か! ぺりぺり、音がするところも、ある。何が剥がれている!? 今オレはどうなっている!? 分からない。
分からない……ふらつきながら、とても立っていられず倒れ込んだ。多分倒れたのだ。顔中が痛いのだ。熱い、痛い。熱い! 何で? 何で……?
そうか。
爆発したのは、世界なんかじゃない――オレの顔面、だったのか?
「……悪い。加減ができなかった」
その場にひっくり返るようにして倒れたイシジマに、俺はそう呼びかけた。
最も、俺の声がまともに届いていたのかは定かではない。
というのも、イシジマの――顔の半分が、きれいに消し飛んでいたからだ。
目を、耳を、鼻の穴を、唇を、半分失ってしまったイシジマは、しかしそれには気づいていないのか、残った半分の顔を恐る恐ると撫でつけては「あ、あ、あ?」と意味をなさない呻き声のようなものを洩らしている。
「おま、え」
そんなイシジマが、ぎこちない響きではあったが、うろうろ口を動かし何かを喋り始める。
「…………何を、しや……がった、ん、だ?」
見るに堪えない姿ではあった。
しかし俺はその惨状を見下ろし、淡々と答える。
「反射だよ」
「は…………んしゃ?」
イシジマの攻撃が当たる直前、俺はその魔法名『反射』を叫んでいた。
それは、唯一といってもいい、俺が攻撃に応用できるリミテッドスキル――"報復一撃"によって強化された魔法である。
元々そのスキルは、タカヤマのものだった。
フィアトムに向かう客船の中で襲われた際に、タカヤマから奪ったものだ。使ったのは初めてだが、その効果は身に染みて実感できた。
その名の通り、その魔法は相手の攻撃をそのまま、反射する。襲いかかる全ての運動エネルギーを、相手に押し返すことができるのだ。
かなり強力なスキルだが、タカヤマが使いこなせなかったのは単純に、自分から俺に攻撃するばかりだったからだろう。
それに使い道も実際に、限られたものではある。どうやら自分の肉体に相手の攻撃がヒットする直前に魔法を唱えないと、効果を発揮しないらしいのだ。イシジマの拳くらいならともかく、効果範囲の広い攻撃魔法が相手となれば、タイミングを合わせるのは困難だった。
そしてもちろん、今回完璧にタイミングが合ったのは、そうなるように仕組んだからだった。
「ここだって場面で、お前にスキルを使わせたかったんだ。チャンスは一度きりだったから」
イシジマは無言で俺の言葉を聞いている。
「あのとき、おまえに再会した直後に殴りかかられたとき……別に大したスピードでもなかったし、避けることもできた。だけど敢えて、殴られておいた」
「………………は……」
「頬の傷を回復魔法で治してもらうこともできたけど、そうしなかった。お前は、簡単に俺を殴れる立場にある。その認識を絶えずずっと、抱いていてほしかったからだ」
それによく、イシジマは俺に怪我をさせた後、同じ場所を完治する前に殴りつけ、悪化させて楽しんでいた。
だから、顔を怪我すれば、そこを執拗に狙ってくるだろうと思ったのだ。そのおかげでタイミングは合わせやすかった。
「じゃあ、おぁえっ、は」
半分しかない口が、喚くように蠢く。うまく呂律が回らないのだろう、かなり聞き取りづらい声だった。
焼けただれた顔から覗いた真っ赤な肉が、躍動している。
「オレがこうして、けんかぁ、売って、スキルを使わにゃいというルーりゅを破ることまで、ンあア、想定してして……そうしてたって、言うのかよ?」
「うん。そうなる」
無論、俺が決めたルールをイシジマが守るはずがない。
分かっていたからこそ、彼がルールを破ると同時、俺も自分が定めたそれを破ることができたのだ。
「そうだ。さっきの話の続きなんだけど」
俺は仰向けに倒れたままのイシジマに向かって、声を掛けた。
反応らしい反応は返ってこない。それでも構わなかった。イシジマに何か言って欲しいわけでも、反省してほしいわけでもないのだから。
「あの頃、抵抗しようなんて一度も、考えたことがなかったんだよ。本当に。だってどうでも良かったんだ。イシジマのことなんて、ほとんど気にしたこともなかった。
母さんの言う「周りの人間」には、俺以外の全員が――地球上の全員が、含まれてたから。自分を殴る人も、いたぶる人も、俺は大切にして生きてきた。それが当たり前って、ずっと思ってた」
父親も。
義母も。
義妹も。
野良猫も。
教師も。
近所に住む人間も。
クラスメイトも。
取るに足らない中学生にとっての、小さな小さな世界の、その住人たち全員を。
自分よりもずっと、大切にしてきた。大切にしなくてはならないものだと言い聞かせてきた。
「今も別に、だから、イシジマのことは嫌いじゃないんだ。好きでもないんだけどさ。……でもこの世界に来て、たくさんの人に会った」
目を閉じてみれば、それだけで、薄闇の中に何人もの顔が思い浮かぶ。
何でもないように、今までずっと俺を助けてくれたレツさん。
楽しく店を切り盛りする、ダルにアンナさんに、息子のダグ。
冒険者ギルドを運営するエンビさんやオトくん。たくさんの個性的な執事たち。
行き場のない俺とユキノの面倒を見てくれたメリアさんに、陽気なトーマ。
父を失っても懸命に前を向こうとするエリィ。
人間を嫌いながらも面倒を見てくれた、リセイナさんを始めとするエルフの人々。
それに何よりも、ずっと一緒に冒険してきた、コナツとハルトラ。
同じ教室内にいただけの、記号みたいな存在だったクラスメイトたちだって、もうそれだけじゃない。
いろんな人にお世話になってきた。いろんな人と関わって、助け合って、生きてきた。
気がつけば、俺は少しだけ、楽しくなっていた。
生きるのが、楽しかった。彼らと共に、生きていくなら、きっとこれからだって。だから――
「優先順位ができたんだよ。そうすると、イシジマの順位はわりと、低い方になるって気づいた。新発見だった」
イシジマはしばらく黙っていた。
だが、やがて、先ほどよりは些か平静を取り戻した声音でこう言った。
「気持ち悪いんだ」
俺は無造作に転がる、彼の姿をじっと眺める。
「気持ち悪いんだ。だからお前は、お前は……狂ってて、ずっといちばん、気持ち悪いんだ」
「……うん。そうかもしれない」
たぶんそれは、とても正常な感覚なんだろうと思う。
俺はイシジマに背を向けた。
もうこれ以上、話すべきことは何もない。いい加減、だいぶ傷も痛んでいるし、そろそろ限界だった。
「待て、トドメを……刺せ。そういう、ルールだ」
歩き出した俺の気配に気がついたのか、イシジマが振り絞るようにして言い放つ。
しかし俺は振り返って、きっぱりと言葉を返した。
「断る」
「ふざけ」
ふざけるな、とイシジマは言いたかったらしかった。
だが、その瞬間、噴水みたいにその鼻や口から、血が噴き出した。
……ぴく、ぴく、と痙攣するみたいにイシジマの投げ出した四肢が震えている。
このまま放っておけば、いずれそのときが訪れるのは間違いないように思われた。
「勘違いするなよ、別に情けをかけたってわけじゃない。お前は俺が提示したルールを破ったから、俺もお返しにお前の決めたそれを破るってだけだ」
俺はそうとだけ言い残して、また背を向けて歩き出した。
イシジマの命を背負ってやる義理はなかった。そのリミテッドスキルだって、必要ない。欲しいとも思わない。
やはり俺は、ほんの少しは、イシジマのことが嫌いだったのかもしれない。最後にそう思った。
「殺してやる。殺してやる…………殺してやる……」
イシジマの怨嗟に満ちた呟きに送り出されて、俺はゆっくりと歩く。
時折、身体がふらついた。思っていた以上にダメージが大きいのかもしれない。天幕まで無事に辿り着けるだろうか?
足は止めないまま、夜空を見上げる。雲に隠れた月が時折、覗いて、その美しい黄金色のひかりが、俺の姿を照らし出した。
――ああ。
俺はその場に倒れた。
受け身も取れず、ばたんっと、ただ倒れる。
既にひどい怪我をした顔がとにかく痛くて、俯せから仰向けになる。
回復魔法みたいな効果を持つわけじゃないけど、月光を浴びていると少しだけ、痛みがマシになる気がした。それは都合の良い錯覚だった。
そしてそのとき、たぶん、物心ついてから初めてのことが起こった。
――やさしい人になりなさい。
ずっと、ずっと、何をしていても。
頭の中で鳴り響いていた、あの母の声が初めて――きこえなくなっていた。
俺は安心して目を閉じた。
泣き出したいような気持ちだった。




