158.最も怖ろしいモノ
俺を事も無げに組み伏せ、のし掛かってきたイシジマは、すぐに拳を振りかざした。
――ヤバい。
まともに食らったら無事では済まない。
そう認識したばかりだというのに。
せめて防御の姿勢は取らなければ。
でも駄目だ。四肢がまだ震えていて、持ち上げることも……
「ッオラ!」
「――!」
無防備に投げ出された俺の顔を、イシジマが力任せに殴りつけた。
一発。
二発。
三発、四発。
ガツッ! ガツン! と、夜空に武骨な破砕音が響く。
殴られるたびに目の前に星が散り、ついでに赤い血がどこからか飛び出て、視界が染まる。
右に、左に。反動で俺の顔と身体が弾かれて向きを変えるたび、イシジマはその逆の頬を容赦なく殴りつける。
素手で殴りつけられていたときとは比べものにならない。連続した痛みの渦に突き落とされて、這い上がることもできない。
イシジマは笑っていた。無邪気なまでの笑みだった。その腕が纏った鉄製のナックルが肌に当たるたび、肉が抉られるような感触がした。
「ハハッ! ハハハハッ!」
「うぐッ……ウ、ご、」
歯が折れたのか、口の中に血と唾液が溢れて窒息しそうになる。
ゴボ、と俺は夢中で血の塊を噴き出した。その血に、イシジマのナックルと服が染まっていく。
するとようやく、イシジマは一旦動きを止めた。
殴り疲れたのか、肩で息をしている。それから自分の服と、俺の顔とを見返し、嘲るように笑った。
「……っハ、悪いな。左の頬だけじゃなくて、右もひどい有り様になっちまったか」
……そうだろうな、と思う。あれだけ殴ればそりゃあ、そうだろう。
ちかちか、視界が明滅するようになって、近くのイシジマの顔はぼやけて見えた。それよりもはっきりと、背景の夜空の方がよく見える。
星が散らばっている。その中にふと、空の端から零れていく白い流れ星を見たような気がした。
流れ星。"一等流星"。
――ナガレ。
ここに来る直前にばったり会った少女の顔を思い出す。
イシジマに呼び出されたことを告げると、ナガレは心配そうな顔をして、一緒に行くと言ってくれた。でも俺は断った。
イシジマは相手が女子であろうと容赦はしない。ナガレを巻き込みたくはなかった。でも結局は、こうして殴られる弱い自分を、彼女には見られたくなかったのかもしれない。
――そう。俺は、弱い。
そんなことは分かりきっている。元の世界でも、この世界に召喚されてからも同じことだ。
「…………イシジマ」
「ア?」
話しかけると、途端にイシジマが鋭く睨んでくる。
俺は問いかけた。
「満足したか?」
しばらく、沈黙が流れた。
耳が痛くなるほどの、静寂だった。虫の鳴く声すらない。荒野を吹き抜ける風の音さえも。
それほどここは静かな場所なのだ、とようやく、思い出すように感じる。
しかしそんな静かな時間は、一瞬で過ぎ去った。
イシジマが再び、俺を殴りつけたからだ。
「がッ……」
「――だから昔ッから、オレは、お前が、嫌いなんだよッ!!」
語尾が弾む、その合間合間に、イシジマの拳が何度も顔を穿つ。
どうにか腕で防ごうとした。しかしその腕ごと殴りつけられ、剥ぎ取られ、額やら鼻やら顎やらめちゃくちゃに殴りつけられる。
先ほどまでとは違った。鬱陶しいほどリズミカルだった暴力が、そんな余裕を失って、ただ無造作に振り下ろされ、焦るような、慌てたようなパンチが続く。
俺の言葉が、問いかけに含まれた何かが、イシジマの余裕を、未だつけていた仮面を剥ぎ取ったのだろうか?
「一度も泣かない! 謝らない! 許しを乞わない! そんなヤツは今まででお前だけだ。お前がッ!」
「…………っ」
ぐい、と勢いよく髪の毛を引っ張られる。
無理やりその場に立たされた俺の顔をまた、イシジマがブン殴った。後ろに吹っ飛ばされる。
不様に地面に転がる俺の腹を、太い足が蹴り上げた。口から泡混じりの血を吐く。全身の筋肉が引き攣っている。苦しい。
「シュウ、お前だけが――オレを、苛立たせるッッ!!」
でも何とか顔を上げて見てみると、必死だった。
イシジマは何故か、ひどく、必死な形相をしていた。
血塗れの拳をぶるぶると震わせて突っ立っている。その身体さえも、どうやら小刻みに震えているらしい。
まるで、自分が殴られているような顔だった。俺はそれが不思議で、理不尽なようにも思えたが、イシジマの言葉を考慮するなら、その理由にも説明のつく気がした。
イシジマは今までずっと、俺に暴力を振るってきたけど。
それはただ、弱者をいたぶる強者の地位を楽しんでいたわけではないのかもしれない――と。
俺はのろのろと、時間はかかったが、どうにか身体を起こしてその場に立った。
ぐい、と乱暴に、口元の血を服の袖で拭う。
唇も切れているのか、ちょっと口を開いてみるだけで痛むどころの騒ぎではなかったが、そもそも顔面が腫れ上がっているので喋ろうが喋らなかろうが同じことだろう。
割り切って、喋ることにした。
「好きじゃないんだ」
イシジマは呆然としている。なんだか幽霊を見るような顔つきだった。
「おまえみたいなヤツが、俺は、あんまり好きじゃないんだ。だから……」
「おい、だから、おかしいんだよお前」
どうにか説明を続けてみようとしたが、イシジマは言葉を遮り近づいてくる。
胸をドンッと強く突き飛ばされ、俺はふらついた。でも転びはしない。また馬乗りになられて殴られるのはごめんだった。
イシジマはどこかぼんやりとした眼つきで囃し立てるように言う。
「気持ち悪ぃんだよ。おい、シュウ、お前――自覚がないんだろ? なぁ?」
「…………」
「好きじゃない、って何だ? その甘っちょろいクソみてぇな言葉は何だ? 自分を痛めつけて、侮辱する人間に対して、吐くような言葉か? ええ? このイカれ野郎」
言葉の意味も、定義づけだって、個人によって厳密には異なっている。
誰も彼もが、頭の中に辞書を作っていたとして、その一つ一つの言葉を索引してみたら、ぜんぜん違う意味合いがきっと書かれているはずだ。
それできっと、その解説に使われる言葉の意味だってまた、異なってくる。だったら言葉なんてほとんど無意味なんじゃないか、って気もしてくる。
でも――だからこそ、どんなにイシジマに詰られようと、俺は俺なりに辞書を引いてみることにする。
イシジマがそれに、理解を示そうが嫌悪を覚えようがこの際、関係がない。ただ、今まで胸の奥底にしまっていたものを、初めて形にしてみようと躍起になっていた。
イシジマのためじゃない。きっと、俺自身の――そして、俺を大切に思ってくれる人たちのためにだ。
「……誰かを、嫌いだなんて思ったことがないんだよ」
「あ……?」
イシジマはぽかんと口を開く。随分と間抜けな顔だった。
「思えないんだ。そういう風に育てられてから、ずっと。……周りの人間を大切にする人間になれって、教えられたから」
「…………大好きなママにか?」
「うん。そう」
「だはハはは!」
俺が素直に頷くと、イシジマがげらげらとけたたましく声を上げて笑った。
だがその3秒後、急に笑い声がピタリと止んだときには、イシジマはすっかり真顔になっていた。
「――――――――やっぱお前ブッ殺すわ」
その眼を、今までに一度だけ見たことがある。
鼻の骨を折られて、校舎から落とされたときと同じ眼だ。
感情が極限までに削ぎ落とされて。ただ目の前のゴミを処理せんとする、機械のような眼差し。
イシジマの身体の周囲に、どす黒い、オーラのようなものが生まれ始めていた。
悪意を――可視化できたのは、俺がウエーシア霊山で貸し与えられたスキル……人の過去と現在を視ることができる力……"至高視界"が、勝手に発動しているからだろう。
イシジマの過去が――俺に抱く憎悪にまみれた感情の渦が、目の前にちらつく。
今まで、散々、親の権力を盾に、気に食わない子どもを見つけては虐めてきたこと。
中一になって、新たな標的を見つけようと画策したこと。目立つ外見の妹と裏腹に、顔の似ていない兄を見つけたこと。
その友人らしい少年をも仲間に引き入れ、小柄なソイツを叩きのめして遊んだこと。
しかしソレは、何度殴られようと蹴られようと、ちっとも泣かないし、叫んだりもしない。
ただ淡々として、淡白でさえあった。痛みなんかまるで、感じていないように振る舞ってみせるのだ。
今までそんなヤツは居なかった。誰も彼もが痛いとギャアギャア泣き、必死に抵抗し、許してくださいとむせび泣き、情けなく喚き散らした。
だがイシジマが手を止めないとわかれば、憎たらしげに、殺してやると言わんばかりに激しく睨みつけてくる。その顔をまた、踏みつけて嗤ってやるのだ! 最高! 惨めな弱者どものそんな姿は、いつもイシジマを興奮させ、恍惚とさせた。
だからこそ……イシジマはだんだんとムキになり始める。泣いて鼻水まみれの顔で許しを請うソレを、そしていずれは恐怖と憎悪に歪むだろうソレを、見たくなってくる。
可愛がっていた野良猫を殺して、死体を机の上に投げつけてやった。
鼻っ柱を下り、三人がかりで校舎の3階から落っことしてやった。
プールに突き飛ばして、もがく頭ごと水の中に飽きるまで沈めてやった。
放課後になるたび呼び出し、辺りが暗くなるまで延々と痛めつけて放り捨てた。
だが、ただの一度として……ソレは、鳴海周は、泣かなかった。
しかもイシジマは気づいてしまった。そいつは、シュウは、イシジマを見るときと、他の無害なクラスメイトを見るときの顔が、まったく一緒だったのだ。
そんなことが有り得るだろうか? イシジマは何度も考える。答えは出ない。
次第に、イシジマは恐ろしくなり始める。こいつは、何だ? この生き物は……何を考えて、どうやって呼吸している? 生まれて初めて出会った、根本的に理解が及ばない相手を前に、混乱が生まれる。
いや、自分が弱者に恐怖するなんてことは有り得ない。そんなことがあってはならない! しかし、しかし……
……オレが踏みつけて遊んでいたのは、本当に人間だったのか?
「――《破砕》ッッッ!!!」
その絶叫を境に、イメージが掻き消える。
俺の顔面目掛けて、赤黒い拳が迫っていた。
俺はその光景を、ただ、目を見開いて見つめていた。




