155.クイズの答え
短剣に空中で衝突し、根本からぼきりと折れた矢が、そのまま勢いよく墜落していく。
しかしアサクラはそれを予想していたのか、ただ凛とした目をして同じ体勢のまま二本目の矢を素早く番えた。
見事な集中力だった。思わず感心してしまうほどには。
ひゅっ……と風を涼やかに裂き、次こそはとワイバーンに向かった矢だったが――次はそれを、ホレイさんは一瞬振り仰いだだけで撃ち落とそうとはしなかった。
その理由はすぐに分かった。
既に、距離が開きすぎている。
狙いは完璧だったが、それでも……矢はワイバーンに届く前に失速し、放物線を描くようにして、そのまま地面の砂へと突き立った。
「あー、くっそ……」
アサクラが悔しそうに歯噛みする。
もう、どんな攻撃も簡単には届かないだろう上空に、その巨体が舞い上がっている。
あるいはレツさんの攻撃魔法であれば、有り得るかもしれない。しかし強力な魔法を使うには長い詠唱が必要だ。その内にワイバーンが逃げてしまうのは明白だった。
改めて確認すれば、どうやらワイバーンの背にはホレイさんしか乗っていないようだ。
ハラや、あの黒髪のバケモノなんかの姿はない。どこか別の場所に待機しているのか。
ホレイさんは右手を掴んだままだったカンロジを即座に引き揚げると、何か苦い顔で言ったようだった。未だ大量の血を流し続ける腕の負傷の件で、小言でも言ったのだろうか。
だがカンロジは全く気にしない素振りで、ワイバーンの上から身を乗り出してきた。
「あ、おい!」
次は大きく、焦ったようなホレイさんの声が聞こえる。
カンロジはそして、地上に残された俺に向かって、血塗れの手をスピーカーのように口元に当てると叫ぶように問うた。
「そうそう、ナルミくん! 2年越しになりますが――クイズの答えは、分かりましたか?」
「……ああ、分かった」
俺が頷くと、カンロジはほんの一瞬、蜂蜜色の瞳を見開き、にやりと笑うようにそれを細めた。
「それならば、答え合わせの時間と行きましょう!」
冷たい笑みだった。
見る者すべての心を凍りつかせるような冷笑だ。
見上げる、その額のあたりから、冷気が広がっていくような感覚があった。
長く話すことも、向かい合うことも恐ろしいのに。それでも俺はきっと、逃げられない。
「ではでは楽しいクイズのお時間に参ります。さてさて一体全体、わたくしは誰なのでしょうか? それでは元気よく、お答えをどうぞ!」
「……君は――」
どく、どく、どく、と全身の鼓動がうるさく鳴る。
顔の上から、すーっと、血の気が引いていく気がする。
それを口にするのは、俺にとって、それくらい奇妙で、奇天烈なことだったから。
だけど、言わなければ前には進めないのなら。
俺は歯を食い縛って、カンロジの顔を見上げる。
その作り物のように綺麗な顔! 何物にも囚われない、自由で、どこかが致命的に狂った……
「君は――――――――――――、鳴海周だ」
全部の音が、なくなったみたいな。
静寂がそのとき、耳の周りから足先までもを駆け抜けて、身体のバランスを失いそうになった。
何人かが、息を呑んだ気配が伝わってくる。
その中でユキノだけは、何かを堪えるようにして唇を引き結び、じっと俺のことを見つめていた。
それでも、俺が最も気になったのはカンロジ本人の反応だったのは言うまでもない。
遠く、風に色素の薄い長髪を舞い上がらせながら――朱を引いた唇は、笑みを深くしたようだった。
「どうして、分かったんだ?」
声は軽やかな少女のままだったが……吐き出された口調は、俺のそれとよく似ていた。
イエスとは言わなかった。でも、それは間違いなく肯定だった。
俺は答える。
「最初に気づいたのは俺じゃない。……ユキノだ」
カンロジが興味の薄い目でユキノを見下ろす。
今やそのユキノは顔を深く俯けて、消え入りそうに小さく佇んでいる。カンロジの目線に気づいているかどうかも分からなかった。
「あのフィアトム城で、黒髪のバケモノから身を隠してたとき……ユキノが、俺の手を握った」
「は?」
興ざめみたいな顔でカンロジが首を傾げる。
でも別に、惚気ってわけじゃない。そこから先が重要だった。
「ユキノはいつも、必要以上に俺に触りたがらないから、俺は変だって思った。何か理由があるんじゃないか、とも。
……それで、ユキノがそうしていたように、黒髪のバケモノを観察した。その手を、じっと見つめた」
顔のないバケモノ。その、黒い髪の毛の塊。
長い長い髪からは、何がどうなっているのか、人間の肩から手指までと、膝から爪先までがうぞうぞと生えていた。
まるで不格好にブリッジしてみせた人間のようだった。そうして四肢を動かす生き物を、俺はユキノに倣って、何度も見つめていた。
その、手を。
「――同じだった」
その、白い手を。
「同じ、だったんだ」
何度も、何度も、何度も、交互に見て。
「ユキノの手は、そのバケモノの手と、まったく同じだった。肌の色も、指の細さも、爪の形も、右手の人差し指の付け根にある黒子の位置も、同じだ」
俯いたユキノの肩が、ぴくりと弱く震える。
カンロジは眉を顰めると、
「……それじゃ納得できない。あの気味悪いバケモノの正体を看破したって、僕には繋がらないだろ?」
そう、言った。しかし俺はその言葉に首を振る。
「俺は、ユキノといつも一緒にいるから」
「はぁ……?」
次こそ、その整った顔が盛大に崩壊した。くしゃくしゃに歪む。
「あの生き物がユキノなら、それと一緒に居るのは俺だ。だから君は、鳴海周なんだ」
確信に満ちた俺の答えを聞いて。
カンロジは、それが演技でないのなら、かなり唖然としたようだった。
口を半開きにしたままながら、後ろのホレイさんを後ろ手で指す。
「……それならこの男は? こっちも候補になるんじゃないか?」
その問いには間髪入れず答える。
「俺は妹を口説かない。だから、それは絶対に無い」
ぷ、と誰かが噴き出した。ホレイさんだった。
彼の背中が、上下に揺れている。カンロジはその背を肘で殴ったようだ。低い笑い声はそれでも止まない。
「でも確信を抱いたのは、その後だ」
エルフの国のことは、カンロジには話さないほうがいいだろう。
咄嗟に判断して、説明を続ける。
「俺は成長してないのに、周りの人間は成長したりとか。そういうのを間近で見て、それで、時間の流れがずれる、っていうのが有り得るなら……同じ人間が、同じ時空に存在することだって、有り得るのかもしれないと思った」
「……ふーん、なるほど。そういう推理でしたか」
既に口調は、元のそれに戻っている。
カンロジは艶っぽく唇を舌で舐めると、
「わりと穴だらけな解答で、ちょっと驚いてしまいましたわ。まぁでも……」
にこっと笑ってみせた。
何だかあまりに無機質に、それこそ人形みたいに。
「――大正解、ですわね。それで――」
カンロジはまだ何か言おうとしたようだった。
しかしホレイさんがそれより先に、ワイバーンの尻をパシンと音が出るほど打った。
しばらく大人しく旋回していたワイバーンが、「グオオッ」と吠える。
一瞬、ホレイさんはカンロジ越しに振り返り、ユキノと、レツさんの顔を見遣ったようだった。
しかし彼は何も言わなかった。そのまま、2人を乗せたワイバーンは、東の空に向けて消えていってしまったのだった。
+ + +
――ワイバーンの飛行スピードは恐ろしく速く、すぐにその姿は目では追えなくなった。
エルフの国で世話になったユニコーンならともかく、騎士団の使う馬たちではとても、追い続けることはできなかっただろう。
「……ああ、クソ。オレのミスだな、すまん」
レツさんががしがしと頭を掻き、ハァと大きな溜息を吐く。
彼が一番に喋り出したのは、裏切った団長の姿を直接目にした、勿論そのこともあっただろうが……多分に、俺への気遣いもあってのことだったのだろう。
もしレツさんが口火を切らなければ、誰も、喋り出すことはなかった。そういう空気だった。もしかしたらずっと、そうなっていたかもしれないのだ。
「お前らの話を聞いてすぐ、フィアトムに早馬を走らせたんだが間に合わなかった。あのクソ団長、平然と竜舎から、自分のワイバーンを連れてきやがったんだ」
レツさんの呻くような声音を聞くのは初めてだった。
ホレイさんがカンロジに味方していたことを彼に話したのは、つい昨日のことだ。
それまでレツさんはきっと、姿を消したホレイさんの帰りを当然のように守り、そのワイバーンだってきっと世話していたに違いない。
レツさんは言葉にしなかったが、自ずとそういうことなんだろうと思えた。
だから、レツさんを……それに戻ってきたホレイさんを笑顔で迎えただろう騎士たちを、責めることなんかできるはずもない。
「それに、カンロジが兵士に変装して紛れ込んでたのもそうだ。これもオレの所為だな」
俺は無言で首を左右に振る。
俺たちの中途半端な変装とは異なり、カンロジのそれは、リミテッドスキルによる変身――いわゆる変化のようなものだ。
姿形どころか、声も体格も服装も、どうやら自由自在に変更できるという代物らしい。そんなものを見抜く手段など、まともに存在するとは思えない。
結局、俺たちが何も言えずにいると、レツさんは独り言のように最後に呟いた。
「団長。アンタ一体、何を考えてる?」




