154.セルフカット
その声を、特徴的な笑い声を、よく知っている。
今となっては分かりきっていたことだ。俺はそれを覚悟した上で、ここまで来たのだから。
でも、それでも――信じたくは、ないことだった。
誰だってきっと、そうだろう?
何の力もなかった自分を引っ張り上げてくれた、その人を――疑うことなんて、したくはないだろう?
「…………女神さま」
俺はそう呼んだ。自分でも驚くほど掠れていて、たぶん周りの誰もが、そんな声を聞き取ることはできなかっただろう。
しかし俺たちを今も休まず監視しているのであろう人物は、造作もなく応じる。
『にはは、よう、久しぶりだなナルミ・シュウ。壮健そうで何よりだ、とでも言っておこうか』
笑うべきだったのかもしれないが、表情筋がぎこちなく引き攣っただけでまともな顔にはならなかった。
アサクラと、それにナガレがそっと目を向けてくる。背後のユキノはわからない。
最初に思い至ったのは、もう随分と前に思える――でもまだ1ヶ月も前ですらない、フィアトム城で一夜を過ごしたときのことだ。
ワラシナの持っていたリミテッドスキル"天命転回"が、対血蝶病者用に特化したものだと気づいたとき。
つまり、マエノやトザカたちを始めとする……あの十五人が血蝶病に罹ることは確定していたのではないかと、確信に近い結論に至ったとき。
元の世界で事故に巻き込まれて死んだ俺たちが、異世界で生き残るために強力な力を与える。
そう、あの小柄で口の悪い金髪の女神さまはそんなことを言っていた。それは能力に覚醒する前から、宿るものなのだ、とも。
……つまり、血蝶病者――今はもう動かなくなってしまったホガミの証言を借りるなら――狼役の選定に、この「女神さま」という謎めいた存在が、関わっていないわけがないのだ。
でなければ、ワラシナのスキルには説明がつかない。ワラシナの能力は、血蝶病者に対抗する立場の人間が有利を取るための、調整的な役割を担っていたのか……あるいは、明らかに情報が不足している羊役の生徒に推理をさせるための、一種ヒントのようなものだったんじゃないか。
それにエルフの国、その宮殿内にある謁見の間で、ホガミはこうも言っていた。
クラスの半数近くが集められた礼拝堂で、全員の身体に血蝶病への感染を意味する痣が現れたとき、天井から降ってくる声がこう言ったのだ、と。
――『下馬評では、ナルミシュウの人気が圧倒的に高い。何故かってーと、あらゆるリミテッドスキルを奪い尽くせるなんていう、万能スキルを持ってるからな』
生き残るために、と嘯いて与えられた力で、実際は何人もの人間を殺した。
馬鹿らしい話だ。俺は緩く頭を振った。デスゲームの円滑な進行に、きっと俺は一役買ってしまったのだろう。
「…………」
俺はそれきり黙ったまま、その人に何か言おうとは思わなかった。無意味な言葉ばかりが出てきそうだったし、意味のある言葉だったとしても、それがこの人に響くとはとても考えられない。
そうしている内に、声の主はアナウンスの締め括りに入ったようだった。
『そういうわけで、お知らせの時間はおしまいにゃ。数少ない……というには些か多い生き残り諸君、それぞれ存分に隣人に向けて刃を振るってくれたまえ。ではではな』
ふざけた口調で一方的に告げ、それきりだった。
通信はそれで、終了になったらしい。俺は知らず肺に溜め込んでいた空気を吐き出した。
「シュウちゃん、大丈夫?」
隣のネムノキが訊いてきた。
どう答えたものか分からず無言のまま首を振ると、ネムノキはまた何か言おうとしたが、それは別の人間に遮られた。
「何だよ、今の」
苛立った顔で、イシジマが地面を無造作に蹴り上げる。砂埃が僅かに立った。
それが晴れる前に、ぽつりとカンロジが呟く。
「……今回は随分と手ぬるいのですね」
「今回?」
アサクラは訝しげに問い返した。
しかしカンロジはそれには答えず、自分の喉元に右から突きつけられた長大な槍をちらと見下ろし、今さらその存在に気がついたように目を細めた。
「――わたくし、ただの民間人なのですけれど。こんないたいけな少女に凶器を向けるなんて、誇り高き騎士様のやることなのでしょうか?」
カンロジにとっては左横。
カンロジの正面に立つ俺からは右の位置に立つレツさんが、槍の先端を1mmもずらさないまま言い放つ。
「善良なる《来訪者》の証言では、そんないたいけな民間人が血蝶病者を先導して国中を荒らしてるらしいんでな。さすがに放っておけない」
「まあ、ひどい。そんなの冤罪ですわ、まったく身に覚えがありませんもの」
かわいらしく、カンロジが頬をぷうと膨らませる。
風船みたいに盛り上がったそのほっぺが、場違いに愛らしくて、それが、あまりに奇妙で恐ろしかった。
ふつう、喉に刃物を突きつけられて、少し身動ぎすれば命に関わる傷を免れない状況で、そんな風な……まるで恋人と戯れる少女のような仕草ができる人間なんて、滅多にいないだろう。
レツさんもほんの一瞬、目を瞠るようにしたが……そこは百戦錬磨の近衛騎士団副団長と言うべきか、それで槍の角度を緩めるなんてことはしなかった。
だが、カンロジは尚も上手だったと言うべきか。
「……でも」
不意に、だった。
「こんなものが脅しになると思っているのなら、舐められたものですわ」
カンロジが自ら、喉元に当てられた――鋭く煌めく槍の先を、伸ばした左手で掴んでいた。
「な――」
レツさんが今度こそ、驚愕に目を見開く。
カンロジの赤ん坊のように小さく無垢な白い手が、一瞬のうちに真っ赤に染まっていた。
力いっぱい、ぎゅう……っと、槍を握っていたからだ。
「わあ、とっても痛い。手の平を深く裂かれていくのって、こういう痛みなのですね」
痛いと口にしながら、強がりにも思えないほど自然な微笑みを浮かべてカンロジが言う。
ぼたたっ、と凄まじい勢いで赤い血液が散り、地面に大きな雨粒のように広がっていく。
尋常じゃなかった。カンロジの後ろのアサクラはともかく、右に立つナガレの顔が見る見るうちに蒼白になっていく。
もしかしたら、血を流し続ける少女を前に思い出してしまったのかもしれない。自らが殺してしまった親友のことを。
声を掛けたかったが、この状況下ではそれもできない。もどかしい気持ちで、それでも、俺はナガレの顔からカンロジに視線を戻した。とにかく、狙いは分からないが――カンロジから目を離すのは、危険だと思えたのだ。
「お前……」
眉間に皺を刻むレツさんを流し目で見遣り、カンロジがくすっとおかしそうに笑う。
あざ笑っているようだった。これが最後のチャンスだったのに、とでもいった風に。
何故ならば。
気がつけば俺を含む全員が、あまりにも、その衝撃的な光景に気を取られていた。呆気にとられていたと言ってもいい。
カンロジ・ユユという少女の、得体の知れなさ。その底の知れなさに見入るようにして、注目してしまっていたのだ。
その中で、一番反応がはやかったのはユキノだった。
「兄さま、上です!」
たぶん、俺の後ろに居た彼女には、カンロジの行為が中途半端にしか見えなかったはずだ。
そしてユキノは、そんな呆れた自傷を身を乗り出して見物するような趣味の悪い子ではない。だから、ユキノがいち早く気づいたのだ。
それは、空から来襲した。
ちょうど、太陽を背負う形で降下してきたそれを、俺はまともに捉えることもできなかった。
だがカンロジは、レツさんの槍を横に押し出すようにして引き倒し(その瞬間、再びどっと手の平から血が噴き出した)――もう片方、傷ついていない右手をすっと、挙手でもするように大空に向かって伸ばしていた。
その手が、次の瞬間には頭上に引き揚げられていた。
カンロジの身体ごと宙に浮き上がっていく。
「あれは……!?」
目を剥く。大きな生き物だった。マエノたちが成り果てたドラゴンほどではないにせよ、かなりのでかさだ。
立派な翼を持った、妙に胴体の太いその生き物。レツさんが、
「飛竜だ!」
と短く叫んだ。
名前だけなら単純に、小説やゲームの中で目にしたことがある。
灰色の、ゴツゴツとした岩肌の塊みたいな魔物だ。現実の生き物でいうと、サイに少し近いだろうか。
重そうな外見にもかかわらず、そいつはそのまま、空の彼方にでも飛び去ろうとしているように見えた。
だがそれに、アサクラが反応した。
そもそも、カンロジが立っていたのは至近距離だったし、周りを取り囲むようにして味方が居たわけだから、アサクラは牽制のつもりで弓矢を構えていただけなのだろう。
しかしそれでも、アサクラの動き出しは迅速だった。斜め後ろに深く背を逸らせるようにして、弓をきりりと音の鳴るほど強く、空に向かって引き絞ると――壮絶なスピードで、矢を放ったのだ。
俺の目には仕留めるか、と思えた。
狙いは正確で、速度だって全く申し分ない。
だが、真っ直ぐに流星の如く飛んでいった矢は、ワイバーンの胴体を貫く直前……その背に乗った一人に、弾かれていた。
ホレイ・アルスター。
ハルバニア王国近衛騎士団団長である彼が、アサクラの渾身の一撃を、短剣を投げて相殺したのだ。




