136.名前で呼んで
エルフの村は小さな村だ。
端から端まで、たぶん徒歩で30分もかからないくらいだろう。
だから本当は走る必要なんてなかったのだ。急ぎの用事でもないんだから。
――なんてことを、目的の場所に辿り着いてから俺は、考えていた。
「はぁ、はぁ……」
全力で走ったせいで息まで上がっている。
涼しい気候のおかげで汗はほとんど掻いていなかった。
まず、目の前の家の玄関に上がろうとしたが、そこで裏庭から物音がするのに気がついた。
裏手に回ってみると、予想したとおり、そこには見知った少女の後ろ姿があった。
背中を向けて膝立ちになっている。
それにバケツいっぱいに溜めた水で、何かを洗っているようだ。
もう少し近づこうとしたところで、足元で靴と小石が当たってじゃり、と音が鳴った。
すると俊敏な動作で振り向く。俺の姿を見止めて、その子はぱちぱちと瞬きを何度か繰り返した。
「……ナルミくん?」
「うん」
何と答えたものか分からず、とりあえず返事をしてみる。
ミズヤウチは気掛かりそうな顔つきで、
「どうしたの?」
とそっと問うてきた。
先ほどまで顔を合わせていた相手が息を切らせて駆けつけたとなれば、何かあったのかと不安にもなるだろう。
なんだか急に気恥ずかしくなる。焦燥感のままにフィランノさんの家まで走ってきてしまったが、別にそんな慌てる必要はなかったはずなのに。
「特に、何かあるってわけじゃないんだけどさ」
「……そう」
ミズヤウチはそれ以上、何か訊こうとはしなかった。もともと無口な子なのだ。
おそらくは精神的ショックで以前は失語症に陥っていたミズヤウチが、こうして控えめでも話してくれるようになっただけ、大きな変化である。
俺は再びバケツに向かい合う彼女に、少しだけ近づく。驚かせないよう小声でゆっくりと話しかけた。
「ミズヤウチは、何してるんだ?」
「おせんたく」
返事は小さかったが、確かに「洗濯」と聞こえた。
もう一度、手元をよく見てみると、ミズヤウチが洗っているのはいつも彼女が身につけている白いマフラーだった。
そういえば、と今さら気がつく。フィアトム城で再会してから、ミズヤウチがマフラーを外しているのを目にするのは初めてだ。
そのせいかミズヤウチ本人も、どことなく心細そうにしている。
「血が、うまく取れなくて」
ああ、と思う。よくよく見るとマフラーに染みが残っているのを、既に俺は知っている。
そのマフラーは元々、ミズヤウチの親友――フカタニが着けていたものだ。
それを死の間際に、ミズヤウチに渡した。それから彼女はずっと、親友の形見を肌身離さず大事に扱っている。
いわゆるライナスの毛布のようなものなのだろうか。俺はそう思っていたが、
「でも、このままでいいのかなって。……思うこともあって」
難しいね、とミズヤウチが困ったように言う。
その呟きに、それだけじゃないことを悟る。
ミズヤウチはきっと、それがある限り、フカタニを殺してしまったことを永遠に忘れられない。
今も、いつだって、フカタニのことを考えている。傷つけた瞬間の生々しい感触だって、その手には残っているのかもしれない。
……だとしても、マフラーを捨てろなんて言えるわけがない。
これからも毎日毎時間、毎秒思い出して、苦しみ続けるのだとしても――やさしくて生真面目な少女は、きっとそれを外せない。
ミズヤウチは布地に浸透した水を絞っている。
それから物干し竿に背伸びをしてマフラーを掛ける背中を、俺はしばらく眺めていた。
何かを言えたら、と思うし、何も言わないのが正解のようにも思う。そんなことを考えること自体が、ミズヤウチに対して失礼に当たるようにも感じる。
だからただ、その場に突っ立っていることしかできない。
そんな俺に、ミズヤウチが静かに言葉を向けた。
「明日」
「え?」
「明日、ナルミくんはあっちの世界に戻るんだよね」
あっちの世界。
つまり、扉を渡った先にある――キ・ルメラのことだ。
「そのつもりだけど……ミズヤウチは、どうする?」
俺も彼女の意志を確認したかった。それでここまで来たのだ。
エルフの村にやって来てからというものの、いつもミズヤウチは迷わず頷いてくれた。
ユキノを助けにウエーシア霊山に向かったときもそうだ。誰かに協力するのに迷う素振りを見せることは一度もなかった。
だが、このときは違った。
「…………ナルミくんは、どうしたらいいと思う?」
消え入りそうなくらい掠れた、弱々しい響きだった。
細い肩が落ち込んで、裏庭に射し込みつつある夕陽に溶けている。
背中を向けたまま、ぽつりぽつりと、寡黙な少女は話してくれた。
「わたし、いつも、重要なことは……リンが決めてくれてた。リンが、迷うわたしの手を引っ張ってくれて……だから今まで、やって来られた。けど」
もうリンは居ないから。
どうしたらいいかわからない、と言う。
俺はしばらく黙り込んでいた。
生半可な気持ちで言葉を返してはいけないと思った。今のミズヤウチにはきっと、他人が発する言葉はどんなものであれ、刃のように心臓まで届いてしまう。
だからといって、取り繕ってはそれこそ意味がない。
ミズヤウチが今後、どうしたらいいか。俺は俺なりに真剣に考えて、返答した。
「ミズヤウチは――、ここに残るべきだと思う」
「……っそれは」
ミズヤウチが振り返る。くしゃり、と表情が歪む。
明らかに俺の言葉にショックを受けている。突き放されたように感じたのかもしれない。
「わたしが、殺せないから?」
苦しそうな瞳だった。ともすれば泣き出してしまうのではないかと思うほどに。
俺はなるべく、高圧的な態度にならないよう注意して、言い聞かせるようその理由を口にした。
「扉を渡るってことは、マエノたちと戦うってことだ。いずれはきっと、カンロジやハラとも。だから……それを考えればミズヤウチは、あっちに戻るべきじゃないと、思う」
「……、……」
深くミズヤウチが俯く。
長い前髪に隠れて、表情もほとんど見えなくなる。
「……でも、俺個人としては」
「……?」
まだ続きがあるとは思っていなかったのだろう。
ミズヤウチが顔を上げる。
不思議そうな、純真な双眸が俺を見つめる。
「ああ、いや、えっと」
それで急に焦り出してしまった。
「ミズヤウチは、俺なんかより充分強いから……何言ってんだって思われるかもしれないけど、その」
頭の中でまとまっていたはずの言葉が散らばって、それがちゃんと整列する前に、ぽろっと零れ落ちてしまう。
「守――りたいなって、思ったんだ。手を握ったときに」
「手を、握ったとき?」
言葉尻を反芻して、それからミズヤウチが首を傾ぐ。
「ウエーシア霊山で、わたしを助けてくれたときのこと?」
そう、と俺はぎこちなく頷く。
あのとき、分かったことがあった。
親友を斬ってしまって、壊れるみたいに泣き続けるミズヤウチの姿を見続けて。
それは過去の彼女なのだから、傍に寄って行って慰めることも、ハンカチを差し出すことも、できるわけがないんだけど、でも。
俺はこの子に、泣いていてほしくない。
できれば、笑っていてほしい。滅多に笑わない子だけど、可能な限り、ずっと。
「離したくないって、あのとき強く感じた。だからえっと、結局、あー……」
……待て。いったい何を言ってるんだろう俺は。
言いかける最中に、ふと我に返る。
なんか今、どうしようもなく、恥ずかしいことを言ってないか?
守りたいとか、離したくないとか、突拍子なく言ってなかったか?
気味悪がられてたらどうしようかと思いきや、改めて見つめたミズヤウチはいつになく真剣な顔をしている。
俺の言葉の続きを、瞬きも忘れて今か今かと待っている様子だ。
その顔を見たらとてもじゃないが今さら誤魔化せるはずもない。しかし羞恥心もものすごい。
ええいままよ!
「結局――だからさ! 俺は一緒に来てほしい、君に!」
「……!」
無理やりどうにか、言い切った。
が、それを聞いたミズヤウチはめちゃくちゃ驚いた顔をしていた。
うわー……穴があったら入りたい!
なんて思ったのは初めてのことだった。どうしよう、やっぱり言わない方が良かったかもしれない。
しかし俺の心配を払拭するように、とててと近づいてきたミズヤウチが、俺の顔を見上げて言う。
「わたし、一緒に行くよ」
真摯な眼差しだった。
その瞳と同じくらい、一所懸命に選び抜かれた言霊を、小さな唇が紡ぎ出す。
「役に立たないかもしれないけど。でも、一緒に。わたしも……ナルミくんを、守るから」
正直なところ、その言葉は素直にありがたい。
なんて考えてしまう時点でちょっと、いやかなり格好悪いのだが。
「ありがとう。ミズヤウチが居てくれるなら、助かる」
「うん。これからもよろしくね」
そう返すとうれしげに目を細めて、普段はマフラーの下に隠れている口元も笑みの形に綻んだ。
不意打ちの幼げな表情にどきりとする。しかしミズヤウチはすぐ笑みを引っ込めて、こう言った。
「長く、ない?」
「え?」
何が?
「苗字で呼ぶの、長いと思うから。下の名前で呼んで」
ああ、なるほど。名前のことか。
と合点はいったものの、だからといって了解です、と軽々しく請け負える話題でもない。
俺は悩んだ末にどうにか発音した。
「じゃあ……ナガレ、さん?」
「それだと文字数が同じ」
まぁそうだけど。意外と判定が厳しい。
俺は覚悟を決めて、その響きを口にした。
「――ナガレ」
口にした後、不安な気持ちを抱えながらそろそろと見遣る。
「うん。それで」
すると俺の予想に反して満足そうにミズヤウチが――ナガレが、仄かな笑みを浮かべて頷いていた。
ほっとした。そのはずだけど妙に心臓がうるさくて、変な顔をしていないか心配になった。
「わたしも。ナルミくんじゃなくて、……シュウくんでいい?」
あどけなく問うてくるナガレに、俺は頬を掻きながらぼそっと返した。
「……それだと文字数がさ」
「え?」
「文字数が、同じだと思うんだけど」
ナガレはぽかんとしている。やり返されたのにも、しばらく気づかなかったようだ。
それから、あー、とかうー、とか、意味を成さない言葉の欠片のいくつかを経て。
「…………シュウ?」
とようやく、ナガレが呼んだ。
だいぶ上擦っていて、ぎこちなかった。しかし俺も人のことは言えないのでおあいこだ。
「うん」
とりあえず頷いてみる。それもほとんどナガレの物真似なんだけど。
「シュウ」
「う、うん。何?」
「何でもない」
何でもないのかー。
俺が苦笑すると、ナガレは超スピードで自分の顔を覆ってしまった。
「えっ。ちょっ、ごめん。大丈夫?」
「ううん。違うの。えっと……」
しまった。からかい過ぎてしまったか。
嫌なら呼び名戻してくれていいから! と叫ぶ直前、ナガレがぽそぽそと囁いた。
「ごめんなさい。男の子を名前で呼ぶの、初めてで。ちょっと……照れてる」
両手で覆っているものの、そこから覗くナガレの顔は真っ赤っかだった。
髪の毛の隙間から見える耳までも赤い。それを目にしていたら俺まで――わけのわからないくらい、顔が熱くなってしまった。
「そ、そっか」
「すぐ、慣れると思う。がんばる」
ぱたぱたと両手でナガレが顔を仰いでいる。どうやら暑いらしい。
俺もつられて同じ動作をしてみる。やっぱり暑い。ぜんぜん熱が治まらない。木立から吹いてくる風は涼しいくらいなのに、まるで意味を成さなかった。
「そんな頑張るようなことでもないんじゃ」
「でも、これからいっぱい呼ぶんだから、慣れないと」
いっぱい呼ぶ。
その言葉は、何気ないものだったのかもしれないけど。
俺たちは夕陽よりもずっと赤い顔を見合わせた。
それからお互い、慌ててそっぽを向いたのだった。




