129.きみは愛されている
「それでも、信じられないならさ」
俺は左手の人差し指を立てて、
「いつか死んだときに、訊きに行こう」
「…………死んだ、とき?」
リセリマは、俺の言う意味がよくわからないようで首を傾げている。
俺はにやりと笑った。
「マナに生まれ変わって、直接訊きに行けばいいんだ。『おかーさんとおとーさんは、あたしのこと恨んでる?』って」
「…………!」
はっとリセリマが目を見開く。
リセイラさんが言っていたことだ。
亡くなったエルフは大地に還り、マナとなる。豊穣したマナはエルフを支え、一族の絆は循環する。
その道理からすれば、リセリマが息絶えたとき、彼女はきっとマナとなって――
「…………うん。そうだ。あたし、死んだらちゃんと……ふたりに会えるんだ」
ゆっくりと頷くリセリマの表情が、僅かに和らぐ。
もう大丈夫そうだ、と判断して、俺はリセリマの両肩に置いた手をそっと離そうとした。
しかしその手の動きを阻むようにして、リセリマの両腕が伸びてきた。
「――うわっ!?」
軽いといっても人ひとり分の体重だ。
支えきれず、俺は尻餅をつくような形でどすんとひっくり返った。
そんな俺に覆い被さるようにして、コナツが――リセリマが、抱きついてくる。
表情は見えない。でも、ぐすっ、と鼻を啜る音がきこえて、大体の想像はついた。
「……でもそれは、もっと先のことだ。今じゃないよ」
俺の胸に顔を埋めたまま、リセリマが首を首肯の形に動かす。
細くて、柔らかくて、力を入れたらすぐ壊れてしまいそうな気がする。
俺は伸ばした左手でそっとその背中を抱いて、もう片方の手で小さな頭をゆっくりと撫でた。
リセリマの身体の温もりが、全身を通して伝わってくる。懐かしい温度に、今も子ども体温のままなんだと、少し場違いなことを思う。
リセリマには、死後に確かめればいい、と言ったが、俺には既に、その両親の答えが明確に予想できていた。
いや、予想なんて曖昧なモノじゃない。ふたりの記憶の多くを見た俺だから、断言できる。
リセリマは――この子は、誰より愛されている。
この上なく。大切に、大事に想われて、死した今も尚、宝物のように守られている。
それが全てだ。それだけが全てだ。リセリマにも伝わればいいと願うけれど、俺の言葉だけでは彼女を説得することはできないのが歯痒かった。
俺にはそんな風に、親に愛された思い出がない。
母親は、愛情らしきものを注いでくれていたと思う。どんなに歪んでいたとしても、自己愛の曲がりくねった結果だとしても、それだってきっと、親が子を愛する意味で、理由のひとつなんだろう。
だから、曇りのない、まっすぐな愛情の欠片に触れて――俺はどこか――羨ましいとすら、感じてしまったんだ。
どうか誇ってほしかった。胸を張っていてほしかった。
口にはできない感情を込めて、泣き続けるリセリマの頭を撫でる。
それでも、やはり命を失う瞬間まで、傷つき続けたリセリマが両親の思いを実感できなかったなら……これからの彼女の人生を他の楽しい思い出で、埋めてあげたいと思う。
「おにーちゃん……あたし……」
震えながら、リセリマが囁くように言う。
その後頭部を、最後にぽん、とやさしく撫でた。
「うん、一緒に帰ろう。旅はまだ終わってないよ」
重なって倒れる俺たちに降り積もるようにして、徐々にマナの光が集まってくる。
ようやく顔を上げたリセリマが、真っ赤な目でそんな奇跡の光景を見上げた。
……きっともう大丈夫だ。
名前を取り戻した彼女のことを、マナたちは見捨てない。透明化の現象もこれで収まるはずだ。
そのひかりの中には、彼女を愛する両親の姿もあるのだろう。
リセリマはぽろぽろと涙を零した。俺たちの身体は段々と、過去の光景から抜け落ちていく。
世界が反転する前に、俺はふと考える。
――スティグマの亡霊。
ウエーシア霊山に出現するとされる、言い伝えの中の存在のことだ。
確かリセイナさんはこんな風に言っていた。
『ウエーシア霊山の頂上には、昔死んだ霊がいまも未練を残して彷徨っていて、生者を見かけると擦り寄ってくる。その透明な口から吐き出された言霊を聞いてしまった者には、死に至る呪いがかけられるのだ……』
今ならよく分かる。亡霊とは即ちそのまま、心半ばで死んだエルフのことを指しているのだ。
あの霊山に集まっていたマナたちには、その記憶には、ある共通点があった。そこから自ずと答えは出る。
スティグマ。屈辱の徴。
その名を冠して呼ばれるようになったのは、彼ら彼女らに、奴隷であるために刻まれた刻印があったからなんじゃないか――
溢れていくひかりの中で、仄かに、見知った面影がふたり分、悲しそうに微笑んだように見えた。
そして世界が弾けていく。"至高視界"によって生み出された仮想の空間が、解けていく…………
――――――
――――
――
「兄さま」
目を開けた俺を迎えたのは、聞き慣れた響きだった。
それでいて、ひどく、久しぶりな気がする。
いつの間にか寝台に頭を載せて、俺は寝ていたらしい。
身体を起こすと、横から覗き込んでいる少女と目が合った。
「……ユキノ」
俺が名を呼ぶと、「はい」とユキノは微笑んでみせた。
ミズヤウチに支えられながら、ユキノが寝台のすぐ横に立っている。あの後すぐに目覚めたのだろう。
2年間眠り続けていたという彼女は、アサクラやコナツとは異なり何一つとして変わっていない。少なくとも容姿に関してはそうだ。
でも、その微笑はどこか寂しそうだった。どうしてそう感じたのかは、わからなかったけれど。
ユキノはそれから、目線を寝台の上へと移す。
そこに横たわっているのはリセリマだ。俺とリセリマの手はしかと繋がっていた。
一瞬、ユキノはその手を見遣ったが何も言わず、まじまじとリセリマのことを見つめる。
「もしかしてあなたは……コナツ、でしょうか? しばらく見ない間に随分大きくなりましたね」
「…………ゆきのおねーちゃん」
どこか気の抜けたユキノの言葉に、再びリセリマが涙ぐむ。
俺にとっては数日ぶりでも、リセリマにとっては――666年越しになる再会なのだ。
そんなミズヤウチとユキノの後ろから、また誰かが謁見の間へと入ってきた。
厳格な足音から、見なくても分かる。リセイナさんだ。
まっすぐ近づいてきたリセイナさんは、何かを包み込んでいたその両手の中身を、そっとリセリマに向かって開いた。
「姫巫女様。どうか、これを」
「あ……」
その手に光る銀色の輝きは、俺にも見覚えがあった。
実際に実物を目にしたわけではない。コナツの記憶の中で垣間見たのだ。
リセイナさんはそっと目蓋を伏せ、静かに言う。
「リセイラ……私の姉が、奴隷商に奪われた扉のカギです」
そうだ。
リセイナさんは祭りの夜に話していた。
彼女の姉が人間界に旅立った後に親しい人の危機を伝える“マナの耳打ち”があった。
リセイナさんはそのすぐ後、遅れて人間界に向かっているのだ。
そしてコナツの記憶の中で、奴隷商はカギを高値で売り払った、と洩らしていた。
つまりそのときカギを買い取ったのは、リセイナさんだったのだろう。
どこか古びた、レトロチックなデザインの銀色のカギを、リセイラさんはリセリマに差し出す。
「これはあなたが持つのが最も相応しい。……私の姉も、そう思っているはずです」
「…………」
「受け取ってください」
リセリマはまだ躊躇っている様子だった。
「…………いいの?」
「はい」
だが、そんな迷いを拭うように、リセイナさんは口元に穏やかな笑みを浮かべた。
彼女がそんな風に微笑むのを見るのは初めてで、思わず見入ってしまう。すると思いきり睨まれたので慌てて目線を逸らした。俺への圧は相変わらずだ。
リセリマは横になったまま、そのカギを受け取った。
それから胸元に引き寄せると、弱々しく息を吐き、そっと目を閉じる。
「……ありがとう。リセイナ……えっと」
「おばさん、で構いませんよ。あなたが嫌でなければ」
「……りせいな、おばさん」
「はい」
なんだかリセイナさんは嬉しそうだった。その顔立ちは、娘を見つめる彼女の姉のものと本当によく似ている。
「ねえ、しゅうおにーちゃん」
「うん?」
ふと、リセリナが俺のことを呼んだので顔を向ける。
リセイナさんにつられたのか、リセリマは笑っていた。
あの頃のように天真爛漫なものではないが、心底安堵したような、見ているだけで誰かを幸せにするような、そんな笑顔だ。
「ゆきのおねーちゃん。それにみずやうちのおねーちゃんも」
次いでユキノとミズヤウチに目線を合わせてから、リセリマが辿々しく言葉を紡ぐ。
「ちゃんと、いえてなかったから……おかえりなさい。あたし、ずっと、まってたよ」
それきりゆっくりと、リセリマは目を閉じた。
その肌は、今はもう透けてはいない。呼吸も落ち着いている。それを確認して、ほっとする。疲れて眠ってしまったようだ。
俺たち三人は顔を見合わせた。
それから、眠り始めた女の子を起こさないよう小さな声でただいま、と声を合わせて囁いたのだった。
+ + +
「――用法用量を誤ったのやもしれません」
何かもかもを知って。
まず、感想といえば第一にそれだった。
「私としたことが……いえ、でも確かに計算は合っていたはず……」
初めての試みで、いろいろ失敗したのかしら?
いやいやいや、そんなわけないし。イメトレは何度もしていたし。
確かに私はドジだ。抜けている所があると自覚している。でもこんな大事な局面でミスするなんて、そんなことだけは断じてない有り得ない。……はずなんだけれど、うーん。
「なにブツブツ言ってんのぉ?」
考え込んでいたら、茶々が入った。
そこに居るのはアルビノの少年。
白髪に、宝石のように赤い瞳をした美少年だ。寝袋からのっそりと上半身を出して、欠伸をしている。
「すみません。起こしました?」
「それはいいけどぉ、別に。なに? 用法がどうとかって」
「ああ、えっとですね。前にも話したことですが」
自分が持つスキルを、ナルミシュウに貸し与えたこと。
それは、目の前の人物の記憶の一端を覗ける程度の、力を制限した状態での一部譲渡であったこと。
だというのに彼は、ほぼ完璧にその力を行使して、エルフの姫巫女を闇の中から救い出してみせたこと……を口早に説明してみる。
未だ寝惚け眼の少年は話を聞き終えると、欠伸と欠伸の合間に、
「ふぅん。さすがボクのシュウちゃんだねぇ」
しみじみとそんなことを言った。……はい?
よく分かってないでしょう、と頬を膨らますと、まあねぇ、と悪びれなく頷かれる。邪気がないだけに怒りづらい。
それから少年はまた、「さむぅい」と文句を言いつつ寝袋の中にのそのそと戻っていった。むっ、なんと怠惰な……!
「まぁよく分かんないけど、別にいいんじゃない? シュウちゃんがスキルを使いこなしてるのは、キミの目的からすれば万々歳でしょ?」
「……そうですけど。そうなんですけど」
でも、何となく不安じゃないか。
だってあのエクストラスキルは――私の願いが合わさって、歪んで、結実して完成した代物だ。
それを、私ほどではないにしても、ほぼ完璧に使いこなせるということは――
「……あ、会議の召集がかかりました」
「そう。いってらっしゃ~い」
相変わらず緊張感のない口調で送り出され、やれやれと思う。
本当は肩を竦めたいけれど、それを仕草として感情を表現できないのは、少し不便に感じることもある。
というのも、私には肉体がない。
だから目の前の少年は先ほどからずっと、虚空に向かって語りかけているのだ。
傍目から見れば完全に危ない人だろうが、ここは弱小モンスター蔓延るとあるダンジョンの岩山なので、誰かに見られる心配はない。
無論、監視されている可能性はあるのだが、その点、少年の挙動は上手い。一つ一つの行動は自然で、寝起きに弱い冒険者そのものだし、声はほとんど無声音だ。
私がそうしてほしいと要求したことだが、これならきっと、彼に注目する輩はそう簡単には現れない。そのお陰で今も私たちは、こうして隠れて2年間もやり過ごせている。
「――いよいよです、ネムノキ」
私は二度寝の姿勢に入った彼……ネムノキソラに、一方的に言葉を投げかける。
「彼が再びこの地に訪れる。そのときは……」
「大丈夫、わかってるよ」
答えはないものかと思っていたが、ネムノキは私に応えてくれた。
少女と見まごうほどの美貌に仄かな微笑を浮かべて言う。
「そのときまで、ちゃんと協力してあげる。約束したからねぇ」
……ありがとう、と私は言った。
頭を下げて感謝の意を伝えたかったけれど、もう分かっているとばかりに、ネムノキは目を閉じている。
だから私は頭上に広がる大空を睨んだ。灰色に染まった、世界の終わりみたいな光景を。
そしてもうすぐ会議が、始まる。
長かった代理戦争の終幕が、近づきつつあった。
ここまで読んでくださりありがとうございます。第五章「スティグマの亡霊編」完結です。
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第六章「兄妹の決別編」も、引き続きよろしくお願いいたします。




