125.母の残り香
生まれてすぐ、死にたいなって思ってたのに、あたしは今も生きている。
自分でも不思議に思う。
棒で叩かれたら痛いし、泣くとお腹が減る。
残飯をもらって跡形もなく食べたら、今度は少し眠くなる。泥のように眠ると朝が来るから、また必死に働いて、でもうまくいかないと叩かれて、その繰り返し。
《人間捕獲》という魔法をかけられて、胸に変な紫の痣みたいのが出来てしまった。
その魔法をかけられたときは、肌が焼け焦げるみたいに痛くて、熱くて、ぎゃあぎゃあ暴れて泣き叫んだけど、髪を掴まれて地面に擦りつけられていたから、逃げられなかった。
しばらくずっと魘された。何度も何度も、夢と現実の狭間を彷徨って、お腹の破けたおかーさんの死体と、痣をつけられる記憶だけが甦って、涙ばっかり出ていた。
そうして、「自死」と「反抗」と「許可のない魔法使用」を禁ずるという三つの制約が、掛けられた。
あたしは死ねなくなったのだ。気づいたときにはもう遅い。
死ねなくなったなら、とにかく、どうにかして生きていくしかない。
おかーさんの言っていた、助けが来るという言葉は信じていなかった。そんなに都合の良いことは起きないだろうし、それならおかーさんがあんなことになる前に、助けが来たって良かったんだから。
おかーさんは、ある貴族の家で奴隷として使役されていたが、その主人の反感を買い、あの日複数人にひどい暴行を加えられて命を落としたそうだ。
その死体を、あろうことかその主人は他の奴隷に運ばせて、おかーさんを売った奴隷商へと突き返した。もっと見目が良い、若い女を代わりに寄越せ、と要求するために。
そしてあたしは死んだおかーさんの穴埋めとして、その家でそのまま奴隷として使役されることになった。
おかーさんから引き離されたくなかったが、あたしが何度懇願しても聞き入れられるはずもない。
あたしを売り飛ばした男は老眼鏡をした、真っ白の髪をした老いた男だった。扉のカギを持つのはこの男だ、とすぐわかったのに、何にもできなかった。今はもう、どこにいるのかも分からない。
「若いのはまぁ、確かだが、こんなみすぼらしい子どもを寄越されるとは。オレの自慢のイチモツも、おっ勃ちゃしねぇよ……」
おかーさんを殺した貴族の男は、あたしを見て一言目に、そんな風に言って肩を竦めた。
屋敷の地下にある、狭くて臭い奴隷小屋にあたしは入れられた。そこがおかーさんの過ごしていた小屋だという。小屋はその隣にも、ずらりと並んでいて、ほとんどが使われていた。中には重なり合って倒れるみたいに、たくさんの奴隷が詰め込まれていた。
血か、なにかの染みがいっぱいあって、後退りたくなるほどの憎悪と怨嗟が、空間に溶けてるみたいな建物だった。
毎日、朝も昼も夜もない、この世の終わりみたいな地下室。
でも屋敷の主人がその気になったり気まぐれを起こしたりすると、そこは阿鼻叫喚の地獄に変わる。
鞭や、鉄球や、針や、剣。
それにきっと信じられないほど残虐な器具が、いくつも使われた。
鉄格子に阻まれて、ほとんど見えないけど。でも音で、わかった。
拷問の種類で、音が違う。悲鳴や絶叫は、似ているけれど。
そこでは毎日、たくさんの人が死んだ。だから入れ替わりが激しいのだ。前のひとの血が乾く前に、次の奴隷が仕入れられる。
そして孕む女も多く居た。そのほとんどは栄養が足りなくなって、子どもを抱えたまま死んでしまった。
「やめてえ。痛いよぉう」
「いやあああ、許してえ」
「助けて。ごめんなさい、ごめんなさい、もうしません……」
「家に帰して……家族に、一目でいい。お願いです……」
枯れ果てるみたいな声がいくつも聞こえて、そのたびに、嗤う声が響き渡る。
あたしは丸くなって耳を塞ぐしかなかった。そうするとぐわんぐわんと頭の中で、お腹の中に居た頃にきいたおかーさんの声までもが聞こえてきて、気が狂いそうになる。
やめて。助けて。死にたくない、死にたくない……おかーさんもこの小屋で、何度も叫んだのだ。
でもあたしがお腹を蹴って暴れたから、きっと必死に声を押し殺して、耐えていた。あたしを心配させたくなかったんだ。おかーさんのことを思うと涙がじわじわ出て止まらなかった。苦しむ奴隷たちのことを思うと、やっぱり自分が叩かれて、切り刻まれるみたいに痛くて、それでほとんど眠れなくなった。眠ろうとしても、ずっと誰かの悲鳴がきこえるようで、すぐに飛び起きてしまった。
でも。
単純に、あまりあたしに興味がなかったのか。
それともその男は、あたしを買ったこと自体を忘れていたのか。
あたしは、その躾と称した虐待の被害には、ほとんど遭わなかった。
それを幸運――と言っていいのかは、わからない。もしあたしが幸運だったなら、それは他の誰かを不運にして、得たものだろうから。
そんな生活は、そう長くは続かなかった。
というのも突然、貴族の男が病死したのだ。ごはんを食べて、急に様子がおかしくなってすぐに死んだそうだけど、真相はわからない。いろんなひとから恨みを買っていただろうから、どんな死に方をしたって自業自得だ。
あたしは、あたしを売った奴隷商の持つ、見せ物小屋の牢に入ることになった。
カギを持つ白髪の男は、またあたしの近くに現れたのだ。
+ + +
奴隷商は、王都には近づかないように気をつけながら、兵士の少ない地方を回って、奴隷を少しずつ売りさばいている。
奴隷商の白髪の男と、その小間使いや客たちの会話から、あたしは少しずつ知識を蓄えた。
難解な言葉を、片端から理解できるわけではないけれど、それでも日に日に、知っている言葉が増えていく。意味が分かる。
兵士の少ない地方は、即ち田舎が多いから、暇を持て余した下級貴族を中心に売り歩くことになる。
攻撃力の高い魔物なんかは、冒険に連れて行けば便利な盾にもなる。冒険者にも、積極的に売っていきたいが、奴らは世間体を気にすることが多いから、町外れに居城を構えるはぐれモノに優先して斡旋する……。
所狭しと牢を並べ、たくさんの奴隷や魔物を詰め込んだ大きな荷車は、からからと滑車を回して、いろんな地方を巡っていく。
そして鉄格子のついた窓からは、本当に些細なものだったけど、朝日が差し込むことがある。
それであたしはすぐピンときた。おかーさんがあたしによくお話してくれたのは、この牢の中でだ!
だってあの屋敷では、奴隷は朝日なんて感じることはできなかった。朝も昼も夜もない。おかーさんはこの見せ物小屋の中で、あたしとたくさんお話してくれた……。
屋敷の地下と比べて、そう待遇が良くなったわけじゃない。
服は汚くて、小屋は臭い。ごはんもほとんどもらえない。凶暴な魔物は鉄格子に噛み付いたりして、それも怖くて怯えてしまう。
でも下界の視線を引き離すために引かれた黒いカーテンのその隙間から、川に反射する日の光や、かわいらしい小鳥の姿がほんの僅かに見えると、あたしはそれだけで、その日は胸がいっぱいになった。
でも何も、それで喜んで満足していたわけじゃない。
そこであたしが毎日、少しずつチャンスを窺って行ったのは情報収集だった。
隣の牢屋に入れられているサディという男の子に、あたしは専らおかーさんのことを聞いていた。
「おまえ、魔物の子なんだろ? 奴隷売りたちが言ってたぞ。膨れてない腹を破って生まれてきた、怪物だって」
サディは褐色の肌をした痩せた男の子だ。あたしより年上だろうけど、お腹が凹むくらい痩せ細っていて、あたしよりも小さく見える。
最初、サディは話しかけるなとばかりに片手を振って、あたしを追い払う仕草をした。
でもあたしはそのたび、懸命に話しかけた。何とか会話を続けたかったのだ。
「ちがうよ。おかーさん、あたしのことずっとおなかにいれてたの。あたしをまもるためだよ」
「……ずっとって」サディは少し興味を惹かれたみたいだ。「どれくらい?」
今までちゃんと数えてなかった。あたしは鉄格子を掴んでいた両手を引っ込めて、いったん考える。
「あさとよるが、なんどもあったよ。えっとね、だいたい……」
ひーふーみー、って指折り数えてみるけど、数え切れない。
それから丸三日くらいかけて、ようやく数え終わったので、
「せんごひゃく、くらいだとおもうよ」
そう報告すると、膝を抱えていたサディは驚いて目を見開いた。
おかーさんの「おはよう」がない日もあったから、大体だけど、それくらいはあったと思う。あたしはその間、おかーさんとずっと一緒だったよ。
伝えてみると、サディは次第に、おかーさんのことを話してくれるようになった。
貴族の屋敷に連れてかれる前の、おかーさんの話だ。
「バカがつくほど優しかった。とにかく見た目が女神みたいにキレイで、整ってるからさ。コッソリ見張りが食べ物を差し入れたりしてて。
でもその食べ物、ほとんど自分で食べないでみーんな、おれたちに分けちゃうんだぜ。あんなにバカじゃ生き残れないよ、やっぱりすぐ死んじゃったし」
あたしは夢中になってその話を聞いた。
サディが話すおかーさんは、優しい人だった。それにあったかい。サディは憎まれ口で、よくおかーさんを貶すように喋るけど、そんなつもりがないことは、悲しそうな顔つきを見ていたら分かった。サディもきっと、おかーさんのことが好きだったんだね。
「いいなぁ。あたしもおかーさんに、あいたかったなぁ」
「…………」
サディは黙り込んでしまった。あたしは困って、そういえばと、訊きたいことを口にした。
「おかーさんのかみのいろって、どんなだった?」
おかーさんの死体を見たけれど、血と脂で汚れていて、髪の色は判別できなかったのだ。
エルフは輝くような金髪をしているの、とおかーさんは言っていたから、そうなんだろうと思った。でもサディの答えは違った。
「どんなって……フツーだよ。おまえと同じ、野ざらしの煉瓦みたいな赤茶けた色」
「あかちゃ……」
あたしは自分の髪を一房、掴んでみる。
生まれた頃は、そうじゃなかったけど、今は腰を覆うくらいに髪が長くなった。
その髪の色は、お月様ともお星様とも違う。サディの言うような赤茶色だ。おかーさんも、似たような長い髪を背中に垂らしていたという。
それにもこもこの髪に隠れている、あたしのほっぺの後ろについた耳は、決して尖っていない。
サディや他の奴隷たちと似た形だ。おかーさんの魔法がうまくいって、あたしを人間と同じ生き物にちゃんと変えてくれたのだろう。
そう思うと少しだけ安心する。エルフだっていうことが分かってはいけない、とおかーさんは言った。おかーさんとの約束なら、あたしはそれを守り続けなければならない。
奴隷商からカギを奪い返すのは、半ば諦めつつあった。
サディや、他の言葉を扱う奴隷に聞いてみても、芳しい答えがなかったからだ。
あたしたちの牢に使われたカギは、その奴隷商がまとめて持っているし、おまけにその男はいつも小間使いを一人か二人引き連れて、カーテンが敷かれた室内に姿を現す。隙はないし、失敗したら、もっとひどい目に遭わされてしまうだろう。
諦めたあたしは、ただ、待ち続けていた。
自分じゃ死ねなくても事故か、あるいはこのまま衰弱し続ければ、きっといつかそのときは訪れる。
だからそれまでの辛抱だって自分に言い聞かせる。おかーさんの故郷に行かなくたって、そうすればあたしはきっと、死んだおかーさんや、おとーさんにだって会える……。
そのすぐ後、サディは牢を出ることになった。誰かに売られて行ったのだ。
お別れは寂しくて、悲しくて、どうか彼に神さまの加護がありますように、とあたしは何度も祈りを捧げた。
三週間が経った頃、恐る恐る見張り番に、サディはどうしてますかと聞いた。
男はきょとんとした顔をして、あいつはビョウキだったから骨まで焼いて、地中深くに埋めたんだ、と言った。




