122.透明化
咄嗟に、リセイナさんが手を伸ばす。
颯爽と飛び出したのはもちろん、ハルトラだ。
「こらっ、待――」
リセイナさんが手を伸ばす。が、届かない。
先ほどまでの衰弱が嘘のように身軽にジャンプしたハルトラは、立ち尽くす俺とリセイナさんを悠々と飛び越え、そのまま姫巫女の宮殿へと突入していく。
時間にすればたった三秒ほどの出来事だっただろう。
消えていった小さなシルエットを見送って、ハァ……とリセイナさんが、深い溜息を吐いた。
「ペットは飼い主に似るというが……つまりはそういうことか?」
それからじっとりとした目つきで俺を眺める。
俺は「どうですかね」と思わず微笑む。ハルトラのおかげか先ほどまでの険悪な雰囲気が薄れて、若干だが俺も、落ち着いて思考する冷静さが戻ってきた。
「……生意気を言ってすみませんでした」
まず、俺はリセイナさんや、その後ろに控えるエルフの人々に向かって頭を下げた。
「でも、俺はどうしてもコナツの……姫巫女の顔が見たい。あの子が笑ってるかどうかを、ちゃんと確かめたいんです。その後ならどんな処罰でも甘んじて受けます、だから……ここを通してもらえませんか」
後半はリセイナさんに向けた言葉だ。
腕を組んだリセイナさんは、相変わらずの無愛想な顔つきで、
「……私に止める権利はない」
「え?」
「……宮殿の入口は如何なるときも開いているからな。侵入してきたお前を見て、姫巫女様が下される判断が全てだ」
そう言い切ると、ぷいとそっぽを向いてしまった。
その直後、人混みの中から見知った顔が近づいてきた。
「シュウ……」
フィリアだった。
フィランノさんの手を離れて、ふらふらと寄ってきた幼いフィリアは不安そうに、辿々しい口調で俺に問うた。
「姫巫女さま……大丈夫だよね? “マナの耳打ち”なんて、ただの迷信だよね……?」
俺はその場にしゃがみ、共に旅をしていた頃のコナツをさらに小さくしたような外見のフィリアの、小さな肩に手を置く。
「わからない。だから姫巫女の無事を、フィリアの分も俺たちが確認してくるよ。……いいかな?」
迷った末に、フィリアはこくり、と首を動かして頷いてくれた。
俺自身ももう、充分すぎるほど理解している。エルフの人々は、決して宮殿の外に突っ立って、今まで平気でいたわけではない。
きっと俺なんかよりずっと、彼らは姫巫女たるコナツの身を案じている。
その上で、姫巫女を信奉するが故に、彼女が唱えた決まり事を勝手に破ることもできないでいるのだ。
それは俺が責めていいようなことではない。中の様子が窺えない限り、“マナの耳打ち”という不透明な伝承を信じて行動するわけにはいかなかったのだろう。
立ち上がった俺は、後ろでおろおろしているミズヤウチを振り返った。
「ミズヤウチ、改めて頼む。ここで、ユキノのことを見ててもらえるか?」
「でも……」
「ユキノが目を覚ましたら、状況を伝えてやってほしいんだ」
そう伝えると、ミズヤウチは幾分かほっとした様子だった。
「……わかった。ナルミくんも、無理はしないで」
「ありがとう」
「よし、じゃあ行こうぜナルミ」
待ちくたびれた、と言わんばかりにアサクラが親指で宮殿を指差す。
その隣にはリセイナさんが立っている。守り手である二人には、永続的に宮殿に入る権利がある。
「ああ。道案内を任せられるか?」
「トーゼン」
道を開けてくれたエルフの人々に頭を下げつつ、俺たちは全速力で謁見の間へと向かう。
+ + +
前回入ったときもそうだったが、やはり謁見の間に至るまでの道のりはとにかく複雑だった。
どの道を通っても似たような道が続くので、特徴が極めて薄く、覚えにくい。
ちなみに「トーゼン」などと格好つけていたアサクラだが、途中で一度、左右を間違えるという失態を犯したりしている。
すぐにリセイナさんが「逆だ」とツッコんでくれたので、そのまま迷わず済んだのは不幸中の幸いだったが。
十分とかからず通路を踏破し、謁見の間に辿り着いたとき、中からほんの小さな、猫の鳴き声が聞こえた。
「ハルトラだ」
動物的カンが働いたのか、ハルトラは先んじて到着できていたらしい。
謁見の間は以前と同じく、天蓋付きの豪奢な寝台がポツンと置かれているっきりで、他には何も置かれていない。
しかし当初は閉められていたカーテンは、今は最初から僅かに開いている。そこから白い細腕が覗いていた。
「コナツ……!」
こうなっては迷っている時間はない。
俺は許可を求めるより先に、そのカーテンに手をかけ大きく開いていた。
その中にいたのは――
「ああ……ハルトラ。ハルトラ、だぁ……」
極上の糸で織られたかのように、麗しく気高い金色の髪。
まさに花のように可憐に灯る桜色の瞳は細められ、涙が柔く滲んでいる。
呼ばれたハルトラは喉を低く鳴らして、白磁の頬に擦り寄る。
その感触に、コナツはうれしそうに表情を緩めている。
「ごめんね、ずっと、迎えに行けなくて……無事で良かった……」
――でも。
すぐに分かった。コナツの様子は、おかしいのだと。
その両手には、俺がリセイナさんを通してプレゼントしたものだろう、星の形の飴細工が大切そうに埋まっていて。
その視線も、きょろきょろ動いて、懸命にハルトラに焦点を合わせようとするけれど。
身体が、僅かにも動いていない。
ハルトラを抱きしめない。飴細工は持っているのではなく、手の上に置かれているだけだ。
寝台の上にあまりにまっすぐ、冬の枝のように横たわっている。
それだけではない。極めつけに、その全身は透けていた。
まるでこの世のものではないようだった。背後に広がる白いシーツが肉眼で確認できるなんて、そんなのが有り得るわけはないのだ。
追いついたアサクラとリセイナさんも息を呑み込んでいる。
やはり俺の見間違いではないのだ。自分が今どんな顔をしているのか、想像することさえできない。
「おにーちゃん」
弱々しく、コナツは俺のことを呼ぶ。
思わずその場にしゃがみ込んだ。そうしないと、コナツは頭上の俺にはうまく目を合わせられないと思ったからだ。
「ゆきのおねーちゃんは……」
硬直する俺に、コナツは言う。
やはり目線だけを動かして、俺をじっと見つめながら。
声が震えないよう気を張ったが、そう上手くはいかなかったかもしれない。
「大丈夫だよ、ちゃんと助けた。まだ目覚めてはないんだけど……今はこの建物の外に居る。もう少しで目を覚ますはずだ」
「そっか……」
コナツが口元を綻ばせる。
俺も笑ってやりたかった。だけど表情筋が言うことを聞かない。
「エクストラスキルも、手に入れられたんだね」
「うん。ちゃんと」
「さすが、おにーちゃん……かんぺきだ……」
それからゆっくりと、コナツは目蓋を下ろしてしまった。
まさか、と思う。嘘だ、そんなの。
恐れのあまり声が裏返りかける。
「……コナツ? コナ――」
「眠っただけだ」
リセイナさんが後ろから淡々と言うが、信じ切れずに俺はコナツに手を伸ばした。鼓動を確かめようとしたのだ。
けれど、
「…………!」
俺の手は、コナツの身体を――すり抜けてしまった。
息を呑んで、咄嗟に手を引く。その柔らかそうな頬のあたりで丸くなっていたハルトラが、小さく目を開く。
ああ、と今さら、気づいてしまった。ハルトラはコナツと触れ合い、頬ずりをしていたわけではない。
ただ、すり抜けた頬は、ハルトラの毛の中に埋まっていたのだ。俺はそれを、二人が再会して体温を分かち合えたものと、勘違いしていた……。
「……何で、こんなことに……?」
「マナが乖離しているんだ」
応じたのはアサクラだった。
「以前から透明化の兆候はあった。だが、こんなに進行が進んでいたなんて……」
リセイナさんと目線を交わす彼の言葉の意味が、俺には全くわからない。
置いてけぼりにされているような不快感もあった。コナツの身に危機が訪れているのに、俺は何も知らずにいる。
「透明化って、どういうことだ? コナツに何が起こってる?」
俺は寝台に手をついて立ち上がり、姫巫女の守り手である二人を見つめた。
アサクラが厳しい顔つきのまま、リセイナさんに目を向ける。
「ウエーシア霊山で、エルフ族の話をしたのを覚えているか?」
俺は頷く。
ミズヤウチとアサクラが先に頂上に向かって、それをリセイナさんと二人で追っていたときのことだ。数時間前のことだし、忘れるわけもない。
「我らの身体は老いることも、朽ちることもないのだと。ただし精神はその限りではないと、私は説明しただろう」
「はい。エルフでも、心が摩耗してしまえば終わりは訪れると」
リセイナさんは「では」と短く言葉を継ぐ。
「心が摩耗して死ぬ、というのはどういう状態を指すと思う」
「え……それは……自殺、とか……?」
「人と異なり、我々には自死という概念がない。心が擦り切れたとして、そういった結果は現れない」
回らない頭を必死に動かそうとするが、答えは出ない。
戸惑う俺に、リセイナさんはやがてぽつりと言った。
「――マナだ」
「え?」
くっ、と喉奥で音を立てて、リセイナさんが笑う。
そんな風に屈折した笑い方をする彼女を見るのは、初めてだった。
薄いピンク色の唇が、毒を吐くような語調で言い放つ。
「マナが我々を生かす。そして同時に、死へと至らしめるのだ」




