120.選ばれし者
長く艶やかな黒髪に縁取られるように、小さな輪郭が浮かんでいる。
そうして、凍りついた棺の中で――ユキノは両手を組み、目蓋を閉じて眠っているようだった。
穏やかな寝顔だ。
ただ夜眠って、朝を待っているかのような。
同時に神聖な、作り物めいた美しさをも併せ持っている。その仮定を取り除くのは、胸が僅かに上下しているという事実だけだった。
「ユキノ」
名を呼ぶだけでは、ユキノは反応しない。
俺は棺の隣にしゃがみ込んだ。そして、そっと手を伸ばす。一度、しかと感触を確かめて、人間としての熱があることに安心したかった。
氷によって形作られた側面とは異なり、表面には何のコーティングもない。ゆっくりと伸ばした手が、ユキノの頬に触れかけたとき、
「――何だ、これは」
固い口調で、リセイナさんが呟いた。
手を止め、反射的に振り向く。棺の前に遅れて集まっていたアサクラとリセイナさんは、霊山内を見回して目を丸くしている。
どうしたんですか、と訊く直前に、俺もその言葉の指す意味に思い至った。
見上げた先、なにかがちかちかと点滅し、舞っている。
冬の雪のように見える。それにホタルの光にも似ている。先ほどから鉱山を照らしていた光る鉱石によく似通ったものだが、それよりもずっと明るくてまぶしい。
手の平を広げてみると、その手の上にも光る粒が舞い降りてくる。握ってみるが感触はなく、消えることもなかった。
気がつけば千や万という規模では足りないほど、視界いっぱいにその粒が溢れ出して、暗いダンジョンの中が照らし出されている。
「――霊山内のマナが急激に、この頂上に向かって集まりだしているようだ。だが、この気配はどこか……」
訝しげに何かを言いかけた、リセイナさんの声に重ねるようにして。
《……ナルミシュウ…………》
――誰かが俺を呼ぶ声が、頭上から響き渡った。
「! この声……」
「声?」
隣に佇んでいたミズヤウチが小首を傾げる。
彼女の両手の上には、覆い被さるようにしてマナの粒が大量に集まっている。頭の上やマフラーにもだ。
「今、どこかから、俺の名前を呼んでる声がしたんだ。ミズヤウチにはきこえない?」
「ううん。何も」
「リセイナさんとアサクラは?」
二人も訳がわからないという顔で首を振る。
リセイナさんの腕の中で、ハルトラだけは、クルルと喉を鳴らして、耳をまっすぐ立てている。
《ようやく、ここまで辿り着いてくれた……私は、あなたをずっと待っていました》
しかしそんな風に彼らと意思の疎通ができたのは、そこまでだった。
直後に、変化は起こった。
ミズヤウチは、俺の方を不安げに向いたまま。
リセイナさんは、眉を寄せてマナの粒を見上げる姿。
アサクラは、こんなときだというのにふわぁと欠伸する格好。
ハルトラは、鼻先に止まった小さなマナを、じっと見つめる仕草で。
そのまま、時間が止まっている。
「これは……」
前にも一度、ザウハク洞窟で同じような出来事があった。
あのときは、マエノの刀身の上に金髪の女神さまが姿を現し、マエノたちと同様、硬直した俺に助言を与えてくれた。
でも今は少し違う。降り続くマナはそのままで、俺も身体を問題なく動かせる。
崖下から僅かに聞こえる、風の吹き抜けるような音も変わらない。
そこから導き出せる結論は、つまり固まっているのは時間ではなく、俺以外の仲間たちのみということだ。
そしてそんなことを造作もなく行ってみせたのは、十中八九、この声の主なのだろう。たぶん俺と円滑に会話するために、ミズヤウチたちの時間を止めてみせたのだ。
「君は、誰だ?」
俺はまず、そう言った。
しばらくの沈黙を経て、声が返ってくる。
《名乗るための名前を、私は持ちません。ですので……便宜上、アルと名乗ります》
「アル?」
《あなたはクイズの答えに、自力で行き着いたようだから》
不思議な声だった。
音量も喋る速度も一定。男のものか、女のものかも分からない。
若いのか老いているのか、怒っているのか喜んでいるのか、そんな印象さえもまともに浮かばない。
鼓膜に響く瞬間に、その声音に込められた意味や意図が順繰りに分解されて、それについて考える頃には無機質な、音波の塊に変換されてしまっているような、そんな違和感がある。
眉を顰める俺に構わず、アルと名乗った声はどこかから続ける。
《だから、エルフの姫巫女やホガミアスカから必要な情報を得たら、私の正体も自ずと分かるでしょう。きっと、ネムノキソラの過去を知らなくても》
俺の知っている名前を、アルは当然のように口にする。
……いったいこの人物は、俺たちのことをどこまで知っているんだろう。
でもそれより先に、俺には優先して確かめるべきことがある。
「まず聞きたい。アルはユキノに何かしたのか?」
俺の声が伝わるまでタイムラグがあるのか。
やはり数秒の沈黙を挟んでからアルが答える。
《私の記憶のごく一部を、流し込みました。でも心配しないで、しばらくすれば目覚めるはず》
何者かも分からない、しかも姿を見せない相手の言うことだ。
本来ならそんなの、信用に足る言葉なんかじゃなかったはずだ。
それなのに何故か、疑う気はまるで起きない。この声の主が俺に対して嘘を吐くことがないと、俺は何の根拠もなく信じ始めている。
決して感情のないロボットのような声なのにそう感じるのは、俺自身、疑問ではあったが。
《それにこの2年をかけて私が記憶を流し込む間、ハルトラがずっと、傍について彼女を守っていましたから》
「2年……」
つまり、ユキノとハルトラはアサクラと同時期に、このエルフの国にやって来たということだろうか?
でもアサクラとは違って、ユキノはフィアトム城で別れるときから、何ら姿が変わっていないように見える。とても2年間もの年月を過ごしていたとは思えなかった。
《ずっと、私が創った棺の中で彼女は眠っていたから。この中では、時間は経過しないのです》
俺の心の内の疑問をきれいに読み取ったように、アルが言い放つ。
《彼女自身の記憶は、あなたと城で別れ、扉を渡った瞬間から停止しています》
「……君の記憶を流し込んだっていうのは、どういう意味だ?」
《そのままの意味です。彼女に一つの……いえ、二つの決断をさせるためにどうしても、そうする必要があった》
「二つの決断?」
《――私の口からはお話できません》
そこで初めて、アルは俺の質問に対し回答を拒否した。
《いずれ、あなたもそれを知る。あなたも決断しなければならない時が来る。……私に言えるのはそれだけです》
抽象的で、意味はよく分からない。
でも俺は「分かった」と頷いた。無闇に突いたところで、アルと名乗ったこの人物はそれ以上の情報を漏らさないだろう。そんな気がしたからだ。
《では、本題に入りましょう。あなたに、私の持つエクストラスキルを差し上げます》
「…………!」
俺は息を呑んだ。
ユキノを助けたいのなら、ウエーシア霊山に向かえ。
そしてその頂上で、エクストラスキルを獲得するように――と、そうコナツは言っていた。
てっきり頂上に着きさえすれば、授かるものなのかと想像してたけど。
「その、エクストラスキルっていうのは一体……」
《世界から、認められた証》
アルはあくまで淡々と、説明してくる。
《世界を繁栄に導いた者、あるいは導く者のみが獲得する、正真正銘の、世界を変えるに足る力》
いまいち、スケールが大きすぎてピンと来ない話だ。
腕を組んだ俺が首を捻っていると、
《このスキルがあれば、あなたは、目には視えないはずのもの――視えないものこそ、視えるようになる。過去と現実を、確かな形で手繰り寄せられる》
その言い回しには、少し閃いたことがあった。
「それは例えば……俺が体験していないはずの誰かの過去さえ、視えるようになるってことか?」
思い出していたのは、白い霧のことだった。俺たちに不可思議な現象をみせたあの霧だ。
氷の棺を創ったのがアルだというなら、あの棺から噴き出した白い霧だって、アルが生み出したものだと考えるのが妥当だ。
《……その通りです。あなたたちが自分の、直視できない過去を垣間見たのも。そしてあなたがミズヤウチナガレの過去を知ったのも。私がスキルの一部を、あなたたちに向けて使用したからです》
無機質に感じていた声質が、僅かに和らいだように聞こえたのは気のせいだろうか。
しかしすぐに、ちらついた感情の欠片は隠れてしまう。
《――でもこれは本来、人の身に宿していいモノではありません。流れ込む情報の量が大きすぎて、脳がパンクして破壊されたり、身体が砕けたり、精神が崩れ落ちる可能性が高いから》
急におそろしいことを言われてぎょっとする。
俺をびびらせたアルは、それからつけ加えるように、
《だから、今はほんの少し、力を貸し与えるだけにします。目の前に立つ相手の、意図した情報を知りたいと思ったときに、関連する事象を垣間見る程度のささやかな異能として。……どうでしょうか?》
それでも充分、ささやかな代物ではないように思えるけど……という感想は、言葉には出さない。
エクストラスキルというスキルの効力自体は、充分すぎるほどこの身で味わった。
だが、アルの言葉に嘘偽りがないとして、ここで「よろしく」などと頭を下げることはできなかった。
「……君は何で、そんな便利なものを俺に貸してくれるんだ?」
俺にはずっと、それが疑問だった。
あの過去の光景を、直視できない過去だとアルは言った。
俺はそれを、その人物が「忘れたい記憶」ではないかと分析した。その意味するところはほとんど同じだろう。
だとしてもどうして、それを俺たちに視せる必要があったのか。
こうやって時間を止めてまで、俺に語りかけてくるのもそうだ。ユキノに自分の記憶の一部を流し込んだというが、それが目的であったなら、アルにはわざわざ俺に話しかける必要もなかったはずなのだから。
拾った財布を、交番に届けることはあるだろう。
雨が降り続く中、屋根の下で佇む人に傘を貸すこともあるかもしれない。
でもエクストラスキルなる神秘の力を与えるのは、親切の域には留まっていない。
過剰というより異常だ。
例えるならそれは買い物に向かったスーパーで、店の権利書を持つ人物に「お店の敷地の一部を譲ろう」と言い放たれたようなものなのだから。
であれば、俺がスキルを得ることによってアルに生じるメリットを、俺は知った上で判断しなければならない。
「なあ、答えてくれ。君はどうして、俺を助けてくれる?」
やはり、答えまでにははっきりと数秒の間が空いた。
しかし今までの沈黙とは異なり、それは明らかに、考えるための、言葉を選ぶための無言の時間だった。
やがて、アルは言った。
《私の、ためです》
それはそうだろう、と思う。何かを成そうと行動を起こすとき、どんな言葉で繕ったとして、そのほとんどは最終的に自分のためになるものだ。
《……私には、どうしても、何をしてでも、救いたい人が居ます》
「……その人を救うために、俺にスキルを?」
依然として姿は見えない。でもきっとその声の主は、しかと頷いた。
「どうして俺なんだ? それこそ、ユキノは2年前にこの頂上に着いてたんだし……」
《あなた以外は、有り得ません》
俺は思わず目を瞬いた。状況が違えば、愛の告白じみたセリフだ。
《私はあなたを選びました。あなたでなければ、駄目、なので》
つまり、俺がスキルを得ないと、アルが救いたいという人物の救出も叶わないのか?
まったく因果関係は不明だが、そういうことになるのだろう。俺をずっと待っていたという言葉は、ここに繋がってくるのだ。
《私を信用するのは、難しいことだと思います。でもどうか、これだけは信じてほしい。私には、この世界の未来を知る術はないけれど……辿り着いた先で、あなたの大切な人たちも、なるべく多く笑っていられる最善を、掴みたいんです」
なるべく多く、という言い回しには、引っ掛かるものがあった。
だがどちらにせよ、コナツにはエクストラスキルを獲得するようにと言われている。
アルの言葉に僅かな疑問を感じたとして、結局はコナツを信じる以上、ここで首を振ることもできない。
村に帰ったら、コナツには詳しく話を聞かなくては。
覚悟を決めて俺は頷いた。
「……わかった。頼む、俺にエクストラスキルを貸してくれ」
《承知しました》
その言葉を合図にして、周辺を舞っていたマナの光が一斉に集まり出す。まぶしくて俺は数秒だけ目を閉じた。
恐る恐る目を開いてみると、俺の頭上で風船のようなサイズにまで膨らんだそれは、肩幅程度に開いていた両手の中に音もなく降りてきた。
もしや弾けるのではと危機を覚えたが、そうはならなかった。
マナの集合体は瞬きの直後、手の中から、綿雪のように消えてなくなってしまったのだ。
「あれ……?」
しばし俺は、両手を握ったり開いたりを繰り返してみた。
けれど特に、体感では変化らしい変化はない。わかりやすく、身体もものすごく光るとか、胸の奥底から力が湧き上がるとか、そういうこともなかった。
《――成功です。これであなたにも、エクストラスキルの一部が使えるようになりました》
が、力を与えた側のアルがそう言うなら、まぁきっと成功なのだろう。
何だか拍子抜けしてしまったが、とりあえずはと、ぺこりと虚空に向かって頭を下げた。
「ありがとう。ちなみにこのスキルって、なにか名前はあるの?」
《名前……、ですか》
単にエクストラスキル、とばかり呼ぶと野暮ったい気がして、そう訊いてみる。
だんだんと慣れてきた、機械的ではない考えをまとめるための時間を要して、アルが心なしか小さめの声で言う。
《それなら、"至高視界"……というのは、どうでしょう》
ペンデュラム。
時計の振り子をそう呼ぶことがある。現在と過去を視る力を、左右に振られ続ける動きになぞらえたんだろうか。
「いいんじゃないかな」
俺は軽く肯定しておいた。他にまともな代案があるわけでもない。
それからきっかり五秒後。
《……エルフの村に帰ったら、ゆっくり休んでくださいね》
「え……」
顔を大きく上げたと同時。
止まっていた仲間たちが動き出す。




