119.氷の眠り姫
――そうか。
繋がった腕から伝わってくる記憶の欠片は、あまりに脆く痛々しくて。
俺がそれを読み取ったことにも、ミズヤウチはきっと気づいて、さらに傷ついているのかもしれなくて。
でもやっぱりそのか細い手を離すことはできなくて、俺は歯を食い縛って、真下のミズヤウチのことを見つめる。
俺はずっと勘違いをしていた。
フィアトム城でヤガサキに変身したカンロジが、ミズヤウチは既に二人の血蝶病者を殺していると言ったとき、それだけの覚悟が備わった存在が居ることを警戒さえしていた。
けど、何もかも違った。
覚悟なんて無かったのだ。でも振り下ろした刃は彼女の親友の首を寸分違わず切った。
ミズヤウチは、逃げなかっただけなのだ。
親友を手にかけてしまった後、ショックで声も出なくなって、それでも再びフィアトム城に戻ったのもそうだ。
罪の意識に苛まれ、それでも他の血蝶病者を止めなければならないと、必死に生き続けていた。フカタニが遺した言葉を守り続けていたのかもしれない。
死ぬより苦しかったはずだ。生き地獄みたいな毎日だったはずだ。
肩から腕を伝った血液が垂れて、ミズヤウチの頬にかかる。
「なんで……ナルミくん……」
首元に巻かれたマフラーの先が、僅かに揺れている。
一見、純白のように見えていたそれに、ところどころ染みがついているのを、今さら俺は知る。
「わたしは人を……モチヅキくんと、リンを……この手で。だから」
ミズヤウチの声はひどく掠れている。血と混じった涙がずっと零れて、顎を伝い落ちている。
この手を、もしも離したら。確かにミズヤウチは解放されるのかもしれない。今よりはずっと、楽になれるのかもしれない。
でも、
「……じゃあ、どうして」
声が震えそうになる。情けない。
だとしてもちゃんと、はっきりとした己の言葉で伝えなくては。
そうしないと、このまま無理やり引っ張ったって意味がない。また俺の見ていないところで、きっとミズヤウチは自死を図ってしまうだろうから。
それは、聞こえの良い言葉を並べれば防げるような事態でないのも、もう充分わかっていた。
「どうしてあのとき。ミズヤウチは俺を助けてくれたんだ?」
「……え……」
ミズヤウチの瞳の奥で、光が僅かに揺らぐ。
――あのとき、フィアトム城で。
逃げる俺をマエノとホガミが追ってきて、絶体絶命の危機の中……その子はヒーローみたいに颯爽と現れた。
でもおそらくは、ミズヤウチは人を斬ることができない。
フカタニとモチヅキを殺害してしまったショックからか、大鎌を振ることはできても、誰かを傷つけることはできない。
マエノに刃を振り下ろす直前、飛び込んできたホガミを見て様子がおかしくなったのもそうだ。
そんな状態だったのに、それでも窮地に陥った俺を救うため、ミズヤウチは飛び込んできてくれた。
「……わからない」
ぎゅっ、と強く眉根を寄せて、ミズヤウチは言う。
答えのうまく出ない、言語化できないものを必死に掻き集めているような、苦しげな顔だった。
あまり話すこと自体が得意でない少女は、しどろもどろと、返事のための言霊を集めているようだ。
「ただ、身体が、勝手に動いて――わたしが、助けなきゃって……」
「それと一緒だよ」
俺の中には、死にたがっている女の子を生かすための言葉なんか、一つだって用意されてない。
どうにか言葉になりそうな欠片は、探せば地面に散らばってるかもしれないが、今はそれを集める余裕もない。
だから結局、思うことをそのまま、まっすぐ伝えてみることしかできない。
「俺も君を助けたい。君が俺を助けてくれたのと同じように。だから頼む、今は俺に助けられてくれないか?」
つまり完全に、ただのエゴの塊だった。
あまりに好き勝手なことを吐いたからか、ミズヤウチはしばし涙も止めて固まっている。
今まで見たことないものを見て絶句しているような表情に、俺は苦笑して、冗談めかして言う。
「……実は肩をちょっと、怪我してて。ミズヤウチはすごく軽いけど、そろそろ感覚がなくなってきた。早めに上がってもらえると、俺も助かる」
「………………」
もうミズヤウチは、「なんで」とは言わなかった。
引き上げる直前、無声音で、ミズヤウチの唇が動く。
その動きは、ずるい、と囁いたように俺には見えた。
+ + +
「…………ごふぇっ」
やたらと苦しげな息を噴き上げて、アサクラが覚醒した。
目をばっちり開けたかと思えば、そのまま地面を転がってのたうち回る。
「うっ、おぐっ、なんかめちゃくちゃお腹が痛い……何コレ……なんの痛さ?……」
「ハルトラが踏んづけてたぞ」
『みぎゃっ!?』
あっさり罪を押しつけられたハルトラが驚愕の悲鳴を上げている。
白い霧によって正体をなくしていたハルトラだったが、今はリセイナさんの治癒術によって少しだが回復してきている。腕の中に抱きかかえられたままではあるが、今日中には問題なく回復するだろう、というのがリセイナさんの見込みだった。
俺の肩の傷もほぼ元通りに治してもらっていた。回してみると若干の違和感は残っているが、歩いたり走ったりする程度なら支障はなさそうだ。
縦横無尽の活躍を見せたリセイナさんだったが、現在はといえば、抱っこしたハルトラの毛に顔を埋めたり、においを嗅いだり、頬ずりしたりなど、わかりやすくすっかり猫愛好家という風体である。
顔を毛の中に埋めたまま、心なしかウットリとした声でリセイナさんが呟く。
「ああ、姫巫女様がふわふわだと仰っていた理由がよく分かる。これは極上のふわふわだ。これほどのふわふわは他では滅多にお目にかかれまい……ふわふわ……」
『ニャウ……』
何度も持ち上げられているハルトラも何だか疲れたような顔つきだ。
あははと笑っていたら、くいっと袖を引っ張られた。
振り向けばミズヤウチが、俺の服を遠慮がちに引っ張っている。
「どうしたの?」
と俺は問うた。
ウエーシア霊山に到着したばかりの頃、「何かあったら腕でも袖でも引っ張って」と彼女には伝えていた。
言葉を失った彼女とのコミュニケーションのための提案だったが、取り戻した今も、その言葉の効力が生きているなら俺としては嬉しい限りだ。
するとミズヤウチは若干気恥ずかしそうに、赤く腫れてしまった目を瞬かせてから、
「ナルミくん、あれ……」
スッと指を伸ばし、ある方向を指し示した。
俺も。それにリセイナさんもアサクラも、ほとんど同時に視線を巡らす。
ミズヤウチが指した方向――そこにあったのは、氷の棺だ。
それが今、光り輝いている。繊細で仄かな、じっくり見つめなければそうと分からないほどの輝きではあるが、それでも確かに薄闇の中で発光している。
何だかその様は、俺たちを誘っているようにも見えた。
迷う理由はない。俺とミズヤウチは頷き合って、その棺に向かって歩き出した。
……薄々と、目にする前から勘づいていた部分はあったと思う。
コナツが口にした言葉。
霊山の頂上にハルトラが居たことを、照らし合わせてみても。
棺の中を、俺はそっと覗き込む。
「…………ユキノ」
棺の中で眠っていたのは、俺の妹――ユキノだった。




