117.白い霧
ぼやけていた意識が急浮上すると同時に、だった。
「痛ッ――!」
とんでもない激痛が、肩から全身を稲妻のように走り抜ける。
少なからず覚えのある感触だった。それで何もかも悟らずにいられなかった。
脂汗にまみれた顔を拭うこともできないまま、俺はゆっくりと、眼球だけを動かす。
「ハル、トラ……」
『グウウ……グウ……』
俺の肩に噛みついていたのは、ハルトラだった。
視界にはただ、どこまでも広がるドーム型の霊山の天井と、それに茶トラの猫の、随分とくすんでしまった長い毛の色だけが映っている。
鋭く尖った牙は肩の肉に食い込んで、今も尚、ブチブチと血管を引き千切るように奥に突き進んでいた。
痛いとか、熱いとか、それどころじゃなくて、歯を食い縛ってどうにか目だけはこじ開ける。
力ではコイツにどうしたって敵わない。元々ハルトラは、俺よりずっと強い魔物なのだ。
そういえばいつか――出会った頃も、俺たちはハルバンの小さな山の上で、泥だらけになって死闘を繰り広げたんだっけ。
あのとき、俺は攫われたユキノを救い出すために必死だった。
ハルトラはカワムラの命令を聞いて、俺のことを縦横無尽に追いかけては容赦なくその爪や牙で攻撃してきた。
今ではもう、遠い過去の出来事みたいだ。鮮明に思い出すのは難しいくらいの、風化しかけた思い出だ。
何故なら、今やハルトラは俺にとって大切な仲間で、ハルトラにとってどうだったかは分からないけれど、その記憶は絶対になくならない。
ハルトラの言葉が理解できるようになってからも、一緒だ。気まぐれなところがあって、人をからかうのを面白がる節があって……それでも俺が何かを頼んだときは、必ずハルトラは力強く応じてくれた。
だから手加減なく噛まれたくらいじゃ今さら、ハルトラのことを嫌ったりなんかできない。
「ハルトラ……」
よくよく見ると、今もハルトラのぴんと立った耳には、白い霧が絶えず這入り込んでいる。きっと鼻や口からも絶えず、侵入し続けているのだろう。
――これは何だろう、と訝しく思う。
過去の記憶の中に、現在の自分をそのまま放り込まれるような、とてつもなく不可思議で不安定な感覚を引き起こしたあの現象は、十中八九この白い霧の仕業によるものだ。
誰かのリミテッドスキルの力なのか。でもそもそも、扉の先の世界じゃ、スキルの補助があったとしても近代魔法は使えないはずだ。
ではコナツの言っていたエクストラスキルというのが、あるいはそうなのか?
『グルルル……』
ハルトラは低く呻きながら、倒れ伏す俺に覆い被さってほとんど動かない。
流れ続ける大量の血液は、俺の身体を浸していって、時折ハルトラの前肢が、ぴちゃっとその水たまりを跳ねる音がする。
今このとき、ハルトラも何か、過去の出来事を見せつけられているのかもしれない。
それは俺たちとの冒険の光景か。あるいはカワムラに使役されていた時代のものか。もっと前の、ハルトラがザウハク洞窟のボスモンスターになる前後のものなのか……。
どんな物だったとして、きっと楽しい思い出ではないはずだ。
俺はそっと、警戒を解くようにゆっくりと手を伸ばした。
どうにか届いたその手で耳の後ろあたりを撫でると、『グウウッ!』とハルトラが激しく唸った。
ますます強く牙が食い込んでくる。俺の身体を噛み千切るくらいの勢いで、一切の遠慮なく。
血を流しすぎたのか、上下もわからないくらい意識がクラクラしてきて、汗かなにかが溢れては額を伝っていく。
全身の感覚が朧げで、あやふやだった。ただ噛みつかれた肩だけが、奇妙に熱い。
その糸を手繰り寄せるようにして、唇を僅かに開く。
「ずっと寂しかったな」
何とか重い口を開いて、そう伝えた。
いつからハルトラはここで、こうして一人、白い霧と戦っていたのか。
"段階通訳"が使えればハルトラの言葉が分かるのに、と少し悔しい気持ちになる。
それからしばらくして、本当に少しずつ、身体を苛んでいた牙の力が弱まってきた。
やがて血塗れの牙をゆっくりと引き抜いたハルトラは、おずおずと後ろに下がった。
その身体から、嘘のように大量の白い霧が立ち上り、吐き出されていく。その放出は七秒ほども続いた。
たぶん俺もそうして、どうにかあの不思議な世界から戻ってこられたのだろう、と今さらながらに実感する。
そして大きな、ガラス玉みたいな瞳が、俺のことをじぃっと見つめる。ぱちぱちと何度も繰り返し瞬きをしていた。
俺は笑った。見馴れた顔だ、と思う。ハルトラが帰ってきてくれた。
「小さくなっていいよ。しばらく休もう」
返事はなかった。
でもその代わりに、巨大化していた身体が見る見るうちに縮小していく。
がんばれば手の平に収まるくらいの小さなサイズになったハルトラは、そのまま丸くなってしまった。
俺は痛む肩を抑えながら起き上がって、そんなハルトラを抱き上げる。一つ一つの動作を行うごとに、信じられないくらい身体が軋む。
「い、ってー……」
茶化すように口で言ってみても、やっぱり、「痛い」なんて表現じゃ追いつかなさそうだ。
何とかその感覚を意識の片隅に追いやろうと苦労していると、視界の端からふらふらとよろめきながら誰かが寄ってきた。
「リセイナさん!」
「……ナルミ、シュウか」
その正体はリセイナさんだった。
見る限り外傷はない。でもひどく顔を歪めていて、苦しそうに見えた。
「……嫌な夢を見た。気分が悪い。吐きそうだ」
「はは……」
淡々と語ってはいるが、口調には怒気が滲んでいる。
俺はそんな彼女に向かって、ひとつの仮説を口にした。
「この白い霧を吸い込むと、幻覚……というか、過去の記憶を視せられるみたいです。そして霧を吐き出せば、現実に戻れる」
「……ああ」
白い霧。
あるいは冷気と呼ぶべきか。氷の棺から生じるその冷気は、今やはっきりと視認できるほど活性化し、そのあたりをふわふわと漂っている。
「しかも、その人物が忘れた記憶――……いや、忘れたい記憶こそ、視せられるのかもしれない」
「……そうかもな。まさしく私が目にしたのはそういう類だ。これがスティグマの亡霊の洗礼か……?」
リセイナさんはげっそりとした顔つきだ。彼女も幻想の中で、嫌な目に遭ったようだ。
俺にとってのそれは明らかに、母との過去だった。
父の暴力から身を挺して守ってくれる唯一の存在が、決して俺の味方でないことを悟ったあのとき、自分の中でなにかが、決定的に形を変えてしまったように思う。
でも、俺の場合は忘れたい記憶の上に、忘れていた記憶が重ねられたことで、最後はごちゃ混ぜになった。
不思議だったのは、俺たちにこんな術を使っている何者かは、そんな一種の「逃亡」さえ良しとしているところだ。
俺たちの精神を抉って、戦意を削り取りたいだけなら、もっと徹底的に打ちのめせば良いハズなのに……目的がわからないのが、どうにも気に掛かる。
「アサクラも、さっき腹を踏んづけて霧を出してやったからそろそろ起きると思うんだが」
なんか突然リセイナさんが恐ろしい発言をしたので俺は大層びびってしまった。
大丈夫なのかアサクラ、と視線を動かしてみると、それ以上に信じられない光景が目に映った。
ひとりの少女が、たどたどしい動きで歩いている。
歩き方を忘れかけて、それを必死に思い出しながら無理やり歩を進めているようなぎこちない歩行だ。
その向かう先は――。
「――、」
軽く、言葉を失う。
目を見開いたまま、硬直してしまう。
リセイナさんは背を向けていてまだ気づいていない。
それなら俺が行かなくちゃならない。いや他の誰でもなくて、俺ならまだ間に合う。そのハズだ。
「お前、その怪我――」
肩の傷に気がついたのか、リセイナさんが何か言おうとしていた。
「俺のことはいいです。今は」
でも俺はその口の動きを遮る。
その光景から視線を外せないまま、ハルトラを差し出す。意志を汲み取ってくれたのか、白い両手が確かに、その温かな生き物を預かってくれた。
「……ハルトラをお願いします。俺は彼女を」
助けないと。
そう言い切る時間も惜しくて、走り出す。
走り出せたのが嘘のような負傷だと、自分でも思うけど。
だからこそ一度でも立ち止まれば二度と走れそうもなかった。
身体が痛みを思い出す前に、自覚するより前に、とにかくがむしゃらに手を振って、足を動かす。
その間も少女はぼんやりとした目をして、歩き続ける。
でも向かう先には、何もない。あるのは深く広がる奈落の底だ。
一寸の光も射すことのない、終わりの場所だ。
それなのに躊躇うことなく、そんな虚無に向かって、少女は足を踏み出した。
「ミズヤウチ――!!」
無我夢中で滑り込んで、手を伸ばした。
その、落ちかけた右手を掴めたのは、ほとんど奇跡だったかもしれない。
ミズヤウチは泣いていた。
泣きながら、腕の先の俺を見上げていた。




