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兄妹転生 ~チートだからって調子に乗らず、クラスメイトは1人ずつ私刑に処します~  作者: 榛名丼
第五章.スティグマの亡霊編

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116.もう大丈夫


 ぼくは振り返ったまま固まった。

 もともとは涼しげな水色だったのに、最近は色が落ち始めたお気に入りのワンピースを着て、お母さんはベンチの前に立ってぼくを見下ろしている。


 今の話、お母さんは聞いてただろうか。

 もしきこえていたとしたら、叩かれるだけじゃ済まない。きっと何十倍も怒られる。何日も外に出してくれないかもしれない。食べ物ももらえないかも。


 そしてそれ以上に――お父さんを殺そうとする子どもの存在が悲しくて、恐ろしくて、お母さんはまた泣いてしまうかもしれない。

 そう思うとたまらない気持ちになる。だってお母さんが表情を歪めて、透明な雫をぼろぼろと流してしまうと、ぼくはお腹がきりきり痛くなって、胸がぎゅうぎゅう切なくて仕方なくなるのだ。それは殴られるより、本当に痛いことだって、ぼくはよく知っている。


 でもお母さんはぼくの悪い予想とはちがって、ぼくからすぐ目線を外すと、黒髪の男の子のことを冷たい目で一瞥した。


「…………あなたは周のお友だち?」

「そうだね。そのつもりだよ」


 またそれは、出会ったときと同じ、ひどく大人びた口調だった。

 それでお母さんは少したじろいだ。何だか信じられないものを見るようにまじまじと、眉を寄せて男の子の顔を眺めている。ぼくと同い年くらいの子がそんな言葉遣いで、驚いたのかもしれない。


「キミ、周っていうんだ」


 でも男の子のほうは、なんにも気にしてなかった。

 ぼくのほうをくるりと振り返って、にっこり、と無邪気に笑顔を浮かべる。

 天使みたいに愛らしいほほえみだった。ぼくが何も言えないでいると、お母さんが早口で言った。


「周はね、周りのひとを大切にしなさいって気持ちを込めて私が名づけたの。良い名前でしょう?」

「ボクは空だよ。大空の、青空の、空。ねえ呼んでみて」


 お母さんだけじゃなく、ぼくも驚いていた。

 男の子――空は、大人が傍にいても、何ともないみたいだった。

 ぜんぜん子どもじゃなかった。がんばってなにかに例えるなら、マイペースな猫がやって来て、ぼくの手の前に呑気に喉仏を差し出しているような、そんな感じ。

 猫なんて嫌いって誰かが言っても、猫はそんなの気にしたりしないのだ。猫はいつも、居たい場所に寝転がるだけだ。


 空がぎゅう、と握ってきた両手が、熱い。

 下の名前で誰かを呼ぶのは初めてだったから、すごくすごく緊張して、どうにかして唇の上にその名前をのせてみた。


「……空?」

「そう。ボクはキミを周ちゃんって呼んでもいい?」


 ぼくは赤面した。何を言い出すんだろう、と思ったのだ。


「それじゃあ女の子みたいだよ」

「大切だから、大事に扱うってことだよ。何ならボクのことも空ちゃんって呼ぶ?」


 ぼくは必死に首を横に振った。とてもじゃないがそうは呼べそうにない。

 それから顔を近づけてひっそりと、こう言った。


「……あれがキミのお母さん?」


 とまどいながらも、頷く。

 あはは、と空は笑った。乾いた笑いだった。

 どうして空が笑ったのかぼくには分からなかったが、理由は聞けなかった。

 空は「またね」と手を振ると、そのまま公園をぱたぱた走って出て行ってしまったからだ。


 残されたぼくはしばらくの間、ポカンとしていた。


 それから突然、二の腕あたりを強く引っ張られた。


「いッ」


 声を上げる時間も与えられなかった。

 お母さんはそのまま、ぼくの腕を力任せに引っ張って、公園の出口に向かって歩き出した。


 爪が皮膚に食い込んで、痛い。脂肪の下に埋まった細い骨ごと、千切ろうとするみたいな力だ。

 それからしばらくお母さんに引きずられるようにして歩く。どうにか自分の両足でまともに歩きたいのに、お母さんはどんどん早足になっていって、ぼくの足じゃ間に合わない。

 

 出し抜けにお母さんは言った。


「あの子、変な子ね」


 ……変じゃないよ。

 空は変じゃない。

 そう否定したかった。でも出来ない。

 お母さんの言い分を拒絶するのは、ぼくには難しい。それがどんな言葉であったとしても。


「ああいう子には近づかないで。あの公園にも二度と行っちゃ駄目。学校帰りにまっすぐ帰宅しない子なんて、おかしいわよ。やだわ、ほんとうに恥ずかしい」

「……ごめんなさい」


 何とか謝罪だけ口にする。本当に僅かだけど、腕を掴む力が弱まった。

 頭上から、声は降ってくる。ぜんぶ受け止めるよう言いつけるみたいに、淡々と。


「お母さん、怒ってるわけじゃないのよ? ただね、周に何かあったら困るでしょう? お母さんは周のことが心配なの。……分かるわよね?」


 分かろうとする。分かりたいとも思う。……そのハズなんだけど。

 でも何でだろう。今だけはどうしても、言うことを聞きたくないと思った。

 お母さんの言いつけに、そんな風に感じるのは初めてのことだった。



 +     +     +



 俺たちの出会いは、たぶんそう、そこまで劇的なモノじゃなかった。


 奇跡でも何でもない。それこそ近所の公園とかに行けば、そう高い確率でもないが有り得る程度の、些細なものだったんだろう。

 それでもその頃の俺にとって空という名の少年と過ごした日々は、小さいけれどひとつだけ輝く星の光みたいな、特別な時間だった。一時でも忘れていたのが不思議なくらいの、かけがえのない思い出だったのだ。


 そして別れも。

 あまりに唐突ではあったが、そう劇的なモノでもなかったはずだ。

 立ち尽くす俺の先で、幼い日の俺が――未来を知らないぼくが、夢中になって駆けていく。


 ………………

 …………

 ……


 それからも、ぼくは空とたびたび遊んだ。


 約束をするわけではない。ただ、ふと思い立ってあの公園に行くと、空はほとんどの場合そこに居て、居なくて残念がっていても、後ろからすぐ肩を叩いて笑っていたりした。逆の場合もたくさんあった。


 ぼくたちはキャッチボールをしたり、絵を描いたりした。ぼくは野球が好きで、空は絵を描くのが得意だったからだ。それぞれの得意を教え合うのは、やっぱり楽しかった。

 公園には老人や、他の子どもも居た。ぼくたちはそういう日には、ペンキの剥がれかけた青いベンチに並んで座って、雲を見て、アリを見つめた。

 それから花びらを追いかけていつまでも小さな旅行をした。桜が散って、滑り台の後ろに植えられた向日葵が並んで太陽を見つめるようになる頃まで、ずっとそうしていた。


 空は変な子ではなかったけれど、いくぶん変わった子だった。


 彼は、長い睫毛に縁取られた黒い瞳を爛々と輝かせて、「キミが刑務所に入れられたら、ボクが迎えに行ってあげるよ」とか、「周ちゃんの血を舐めたら、ボクは周ちゃんの家族になれるかも」とか、よく分からないようなことを言っては、しょっちゅうぼくを困らせた。

 ぼくは人のお願いを断るのが苦手なので、もし空が本気でお願いしてきていたら、刑務所にもがんばって入って、血もどばどば抜かれていたかもしれない。

 でもそう言ってみたら、空は一回あははと笑ってから、ふと真面目な顔つきをして、


「本当に周ちゃんって、やさしい。でも、ボクのお願いは断ったっていいんだよ。ボクのじゃなくて、誰のお願いでもね」


 そんなことを言っていた。

 ぼくはよく意味がわからなかったが、とりあえず真剣な顔を作って頷いたのだった。


 ある夏の日、ぼくたちはキャッチボールをしていた。

 空はグローブを持っていなかったので、ぼくもグローブはしなかった。

 といっても、家にあるのは買ってもらったものじゃなくて、アパート近くのゴミ置き場に落ちていた汚れたやつだ。

 ここに置いてあるならさすがに平気かなと、そわそわしながら拾い上げて、それから大事に使っているけど、いい加減表面が崩れてボロボロになってきている。


 だからお互いの投げるボールをキャッチするのも大変で、ぼくたちはてんやわんやになってその対処に追われた。そうやってケラケラ笑っているのが、いちばん楽しかった。

 ぼくたちは「友だち」なのかもしれない、と未だかつて、誰に対しても思ってないようなことをぼくは空に対して考えていた。

 あの最初の日――空自身もはっきりと、そうやってお母さんに言っていた気がするけれど、今さら言葉にするのは恥ずかしくて、やっぱりそれは言えずにいる。いつか言おう、と思ったまま、ずいぶんと時間だけが過ぎていた。


「じゃあね、周ちゃん」

「うん。じゃあね、空」


 夕暮れが狭い公園を赤く染め始めた頃、空はそう言って手を振った。

 このときばかりは、急激に寂しさが込み上げてきて、ぼくは笑おうとしてもぎこちなくなるのに、別れ際の空はいつも綺麗な微笑みを浮かべているので悔しい。


 寂しくない?

 ずっと一緒にいたいって思わない?


 口にするのもためらうようなそういう言葉は、空だったら存外簡単に言ってぼくを困らせそうなのに、でも彼はそんなことは言わないで去って行こうとする。

 きっと空は、ぼくのお母さんのことを気にも留めなかったみたいに、ぼくの気持ちを深く気遣ったりはしないんだろう。

 それは誰かの身勝手な期待を、引き受けない強さなんだと思う。だから彼は、自分が得体の知れないなにかによくあつされているのが我慢ならなくて、仕方ないのだ。

 自由で、気高くて、でも真綿みたいな子だ。

 ぼくとは正反対みたいだ。願ったとしても、ぼくはそんな風には、いつまでもなれない……


「…………あ」


 そして唐突に、その光景は目の前に閃いた。


 公園からすぐ出た先の横断歩道を、空が渡っている。

 その歩道と交差する車線を、ものすごいスピードで緑色のトラックが走っている。

 歩行者の姿を確認していないのか、運転手がブレーキを踏む様子はなかった。


 ぼくは首を動かした。自分の動作が、妙に遅くのろく感じる。

 空は気づいていなかった。こっちを振り返って今もにこにこ笑っている。

 数秒後にどんな結末が訪れるかなんて、そんなの、考えなくても分かりきっていた。


「……空」


 ぼくは駆け出した。

 迷っている暇はなかった。だからもう、ほとんど何も考えてなかったと思う。

 スローモーションの世界が弾け飛ぶくらいに、けん命に足を動かして、息を吸う時間もぜんぶ足にぶつけるみたいにして、走った。


 ――ああ、でも。

 もし叶うなら。


 今さらだけど、もっと空の話を聞いてみたかった。

 彼の描く絵ももっと見たかった。ぼくの絵を描いてるって言ってくれたのに、まだ見れてない。

 どうしてお父さんとお母さんを殺したいのか聞きたかった。もっと下らない話でもいい。空と話すなら、どんな話だって、何だって楽しかったはずだ。


 それに、それに……まだ、たくさん……もっと……


「――――周ちゃん?」


 目を見開いている。

 そんな空を突き飛ばした直後。


 頭にガツッ、と強い衝撃があった。世界はそれきり、反転してしまう。

 ぼくは深い闇に落ちていくみたいに、そのまま沈んでいく……。


 ……

 …………

 ………………


 そのあとも、過去の再現は延々と続いている。

 俺はそれを、部屋の隅に立って、じっと眺めていた。


 病室に子どもの頃の俺は横たわって、包帯が巻かれた身体でぼんやりしている。

 意外と外傷は少なくて、一番ひどかったのは頭への衝撃だった。

 痩せこけた母はそんな俺の手を握りしめて泣いている。父の姿は、ここでは一度も見ることはなかった。


 俺が負傷したからでなく、約束を破って俺があの公園で遊んでいたのが許せなくて、情けなくて、それで母は何度も泣いていた。

 でもそれも数日が経つと次第に収まってきて、やがて母は隈の染みついた目を細め、うれしそうにこう言った。


「先方がすべて治療費を払うそうよ。私の周を傷つけたんだから、そんなの当然だけど。あと、あの子どもの親には、もう二度と周の前に姿を現さないでって厳しく伝えたわ。これで周が不良にならなくて済むわね、本当に良かった……」


 ――あの子どもって誰だろう、と。

 確か、そのときの俺はそう考えていたはずだ。事故で強く頭を打った俺は、記憶の一部をなくしていたから。

 それから、失った記憶の断片を何かの弾みに拾いかけると、すぐに頭痛がするようになった。

 次第に、考えること自体が億劫になって、まともに思考の像を結べない日々が過ぎていった。

 そうして「空」という名前の黒髪の少年のことを、俺は忘れて行った。


 それから間もなくして母が死んだ。

 職場の階段から足を滑らせて墜ちたのだ。俺は泣かなかった。涙の流し方がよくわからなかったし、第一、自分が悲しいのかそうじゃないのかも、いまいち判断できなかった。


「……なぁ、こんなの見せなくてもいいよ」


 立ち尽くす俺の声は、幼い俺や、俺を嬲る父には届いていないようだ。

 母がいなくなったことで、父による俺への暴力はますます酷くなった。


 それからも時間はどんどん経過していく。

 やがて祥子(サチコ)さんが現れ、雪姫乃と出会う。

 中学に入学し、石島たちに虐められるようになる。ハルトラが無残に殺される。

 成長した空と再会するが、俺は何も思い出せないでいる。そしてまた世界は繰り返される……。


「いいんだ。もう俺は、何もかも思い出せているから」


 それでも、きっと、誰かにはきこえているだろう、と思って、俺は言い聞かせるように呟く。

 そうじゃなければ、こんな過去の再現は無意味だからだ。


 ウエーシア霊山の頂上に俺を呼び寄せて、この記憶を俺に見せたかった人物が居る。

 その誰かは、父から虐待を受け、母に折檻される過去を俺に見せることで、俺に膝を突かせたかったんだろうか。二度と立ち上がれないくらい、完膚無きまでに叩きのめしたかったんだろうか?


 ……いや、きっとそうじゃない、と俺は首を振る。

 それなら、光の射すほう――ネムノキとの記憶なんて見せないで、ずっとあの薄暗くて狭いアパートの一室だけ、映しておけば良かったのだから。


 この記憶は俺の根幹にある。

 忘れ去ってはいけない、重要な根っこの部分に繋がっている。

 だからたぶん、こうして鮮明に思い出さなければいけなかった。

 それはきっと、異世界に来たからってわけじゃなくて、元々、もっとずっと前から、俺はこの情景を思い起こしておく必要があったのだ。


「俺は、大丈夫だ」


 思い出した上で自分がそんな風に言い切れるのは、なんだか不思議だった。

 不自然と言い換えても良いかもしれない。俺はひどくネガティブな性格をしているから、本来こんな風に、何の確信もない言葉を吐くことなんかできないはずなのに。

 それでも今は、そう言える。誰かと繋がっていた記憶が、俺にそう言わせてくれる。


「辛いことも、嬉しかったことも、もう忘れたりなんかしない。ずっとこれからも抱えて、つぎはぎだらけでも、生きていってみるよ」


 笑ってそう言った。

 誰も、やっぱり、応答しない。

 それでも誰かが耳を澄まして聞いているはずだと信じて、俺はそう最後の言葉を続けた。


「だから――ここから出してくれ。俺の仲間を助けたいんだ」


 直後。

 世界が開けた。



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