114.ずっと血が出ている
リセイナさんに続いて坂道を駆け上った俺は、そこで信じられない光景を目にした。
「え……っ!?」
間違えようもない。
ウエーシア霊山の頂上に居たのは――ハルトラだった。
――『彼女を助ける方法はたったひとつ。ミズヤウチナガレと共に、エルフの森を抜けた先にあるウエーシア霊山に向かいなさい。
そしてその頂で――――エクストラスキルを獲得するのです』
確かに、コナツはそう言ったはずだ。
だから俺はこの山の頂に、エクストラスキルなるものが宿っていて、そこにはユキノが居るのかもしれないと思ってもいた。でも。
「あんな魔物、前回この山に来たときはいなかったが……」
「ハルトラです」
俺はその呟きに間髪入れず答えを返した。
リセイナさんが振り返り、目を丸くする。
「あれが……ハルトラ? 姫巫女様が共に旅をしたという――」
「そうです。でも……」
コナツの話を知っているなら、きっとリセイナさんも俺と同じ疑問を抱いているんだろう。
ただハルトラと再会できただけなら、俺だってきっと、諸手を挙げて喜んでいた。
ようやく大切な仲間と再会できたと、抱きしめて、今までの労苦を労っていたはずだ。
しかし事態はそう単純ではなかった。
再会したハルトラは巨大化し、四肢を振り回して戦っていたのだ。
それも、アサクラとミズヤウチを相手にして――である。
「ガアアウッッ!」
「…………ッ!」
先ほどのゴブリン戦と同じく。
ミズヤウチが囮となり、それを追って出来た隙をアサクラの矢が突く。ふたりはそんな大まかな作戦を主軸に動いているようだった。
だが、ゴブリンとハルトラではまず速度が違いすぎる。
快足を誇るミズヤウチさえ追いつかれ、牙で襲われる最中に必死に身体をひねって躱す。
ハルトラはその勢いのまま、アサクラが矢を番える前に接近すると、爪を伸ばしてその首を掻き切ろうとする。
暴風大猫と呼ばれる伝説級の魔物であるハルトラは、もともと俺よりもレベルが高い。
そんな魔物を相手にして、リミテッドスキルや魔法も使わず生身で戦うのはあまりに無謀だった。
「ナルミ、ハルトラはおまえの仲間だろ!? 何とかしてくれ!」
そんなことは戦っている本人が一番理解しているのだろう。アサクラが金切り声で叫ぶ。
頼まれずともそのつもりだった。理由は分からないがハルトラは凶暴化している。
早く正気を取り戻させなければ、ハルトラはもちろん、アサクラたちの身が危うい。
「ハルトラっ!!」
大きく、名を呼んだ。
主である俺の声であれば、ハルトラは反応してくれるはずだ。
そう思った。でも、
「……ハルトラ?!」
ハルトラは何の反応も示さない。
俺の方を見向きもせず、縦横無尽にアサクラたちへの攻撃を続けている。
困惑する俺に、まるで見せつけるようなタイミングで、ハルトラは口を大きく開いてアサクラに襲いかかった。
その口の中。正しくは舌べらを確認して、大きな衝撃を受けてよろめく。
「隷属印が消えてる……!」
そうだ。気づいて然るべきだった。
近代魔法は使えないということは――俺がハルトラに使用した《魔物捕獲》の効果も、現在は消失しているということか!
「おい、どうするナルミ。攻撃を加えて構わないのか?」
「いえ……すみません。ちょっと、待って……」
アサクラたちはほとんど紙一重の動きで攻撃を避け続けている。
リセイナさんが心配するのも当然だ。だがその言葉を、俺は言い淀みながらも拒絶する。
考えろ、考えろ、と繰り返し自分に必死に言い聞かせる。
だって、例え《魔物捕獲》の効果が切れたとして、だ。
それにしたって、納得がいかないのだ。
気まぐれではあるが、賢くて理知的。
それに人の気持ちを理解しようという明確な意志がハルトラにはあったように思う。
それは俺の魔法によって後づけで与えられたものではなくて、もともとハルトラが持っていた性質だ。
記憶だってなくなってはいないだろう。アサクラやミズヤウチ、俺のことだって、ハルトラはちゃんと覚えてくれているはずだ。
だから今。
目を血走らせ、涎をだらだらと垂らしながら人間を襲うハルトラの姿に、軽く納得してはいけない。
何か理由がある。ハルトラが正気を失っている理由が、どこかに。
戸惑う俺たちにヒントを送ろうとしたのか、アサクラがハルトラに押し倒されながら必死に叫んだ。
「なんかコイツ、奥に設置されてる棺を守ってるみたいなんだよ! さっきっからそういう風に動くんだ!」
――棺?
アサクラが盾代わりにハルトラに向かって押し出しているリュックが、ミチミチ、と嫌な音を立てる。
ミズヤウチがゴブリンから奪った棍棒をハルトラの足元に投げつける。標的を変更したハルトラに追われるミズヤウチから、どうにか視線を外して、俺はアサクラの指し示す方角を見つめた。
「あれのことか……」
リセイナさんも俺と同じく目を向けていた。
戦う三人の奥側に、その棺は置いてあった。
人間大のサイズだ。それも、一般的なそれと異なり氷で出来た棺である。
「あれは……」
俺は目を細めた。
アサクラは気づいていないようだったが、その棺を中心にするように、白い霧のようなものがうっすらと立ち籠めていた。
その漂う先を、注視してよくよく見れば――その得体の知れない何かは、明らかな狙いを定め、ハルトラの耳や目、それに大きく開いた口に向かっている。
まさか。
――ハルトラの中に、這入り込んでいる?
気づいて、ゾッと鳥肌が立つ。
そしてそれだけではなかった。
白い霧は、より色濃く立ち籠めると、やがてアサクラやミズヤウチの前にもふわふわ降り立ち始めた。
それに俺やリセイナさんの鼻先にも漂っている。両手で風を裂いても、一瞬霧散するだけですぐに復活してしまう。
開けた霊山にもかかわらず、この場のみに停滞しているのか。
もはや視界はほとんど遮断されている。ふりほどけない。逃げることが、できない。
「リセイナさ――」
どうにか傍らの彼女だけを逃がそうと、俺はそこに居るはずのリセイナさんに向かって手を伸ばした。
しかしその手は虚空を掴む。
リセイナさんはどこにも居なかった。
もうその場は、先ほどまで立っていたはずの霊山ではなくなっていたのだ。
そして俺も、「俺」ではなくなっていた。
+ + +
お母さんが泣いていた。
お父さんに殴られたり、けられたあとは、いつもそう。
傷が痛むんだろう。暴言が辛いのだろう。そんなことを「ぼく」は考えて、胸がぎゅっとつまるみたいになる。そうなると、殴られているよりずっと苦しくて、夜は眠ることもできなくなるのだとぼくは知っている。
ぼくらが住んでいるのは狭いアパートの一室だ。
お父さんは、お母さんが持っている封筒を奪っては、よくここを出て行く。
出て行っている間は、ふしぎな話だけど、天国みたいな気分になる。天国がどんなところかは知らないけど、きっとよく似ていると思う。誰にも怒られたり、ぶたれたりしない世界は、とっても素敵だ。
それだけでお腹がいっぱいになる気がするんだ。気がするだけでお腹はへるんだけど、だけど、その時間がずっと続いたらなって考えたりもする。
だから。
お父さんが居ると、ぼくは人形みたいだなって、自分のことを時どき思う。
髪を引っ張られたり、酒瓶で殴られたり、冷水に沈められたり、服を脱がされたりする。
そういうことは、人形にはしてもいいんだと、クラスの女の子が話していた。私は手足を千切ったこともある。みんな気が向いたときは、そういう風にするのだ、とも。
だからきっと、ぼくはお父さんの人形なんだろう。
そんな人形のぼくを、お母さんは庇ってくれる。
だから、お父さんにもっとひどいことをされてしまう。それがぼくはイヤだった。
ぼくが殴られているより、お母さんが殴られているときのほうが、ぼくはずっと痛かったから。
その日、お母さんが声もなく泣き続けていた。
痣だらけの身体を抱えたぼくは、体育座りをしていた。
ひざ小僧からは血がどくどくと出ていた。散らばった酒瓶の破片の上に転んだからだ。
ずっと止まらない様子を眺めていたら、ぽろっと、まちがってこぼれたみたいに言葉がひとりでに出てきた。
――お父さんを殺そうか、と。
ぼくはその言葉に、自分でもビックリしたけれど、でも、それがいいかもしれない、と思った。
今まで思いつかなかったのがふしぎなくらいだ。かっきてき、だ。
だって、身体が小さくて、力の弱いぼくでも、お母さんのためならできると思う。
またお母さんの笑顔が見られるなら、何だって、やってみせる。お母さんが喜んでくれたら、ぼくはそれで幸せなんだから。
やがて、ゆっくりと、お母さんは顔を上げた。
口端の切れた、そこだけ真っ赤になった唇がうごめいた。
「ねえ、周は、――――――どうしてそんなにおかしいの?」
ぼうぜんとした、バケモノを見るような目だった。
でもその目がいったい何を見ているのか、分からなかった。
ほんとうは目が合っているのだから、その黒い眼球の中に居るモノを、知らないハズがなかったのに。
え……、とぼくは、困ったみたいに呟いたのだったと思う。
ありがとう、じゃなかった。お母さんが何を言いたいのか、うまく、のみこめない。
するとお母さんはふらふら立ち上がった。
硝子の破片をその足が踏んでいる。床を流れた血が汚していく。
そんなのおかまいなしにお母さんは歩き出す。ぼくはどうしてか、身体がすくんで動けずにいる。
気がつけば、その黒く濁った瞳のなかには、目の前に落ちる人形に対するかくしきれない不快と、恐怖とが、呪いみたいに浮かび上がっていた。
低く、掠れた声で言う。
「お母さんを困らせて、楽しい? お母さんが苦しんでるのを見て、喜んでるの?」
ちがう。そうじゃない。
その逆だ。お母さんを喜ばせたい。お母さんに楽をさせたい。
そう伝えたかった。
必死で、首を振っていた。でも言葉を絞り出す前に、抱きしめてくれた手が、ぼくの頬を激しく打った。
「なんでこんな子に育っちゃったの……。どうして? 私が悪いの?」
じんじんと痛みを放つ頬を抑えて、見上げる。
お母さんは泣いていた。やっぱりそれは、バケモノを見る目だった。
そうして長い髪を振り乱して、泣き叫びながら、何度もぼくを叩いた。
「やさしい子になってよ。ねえ! どうして私の子なのに優しくないの? もっと優しく、誰にとっても優しいお手本みたいな慎ましい子でいてよ! 私の、この私の子どもなんだからッ」
声がキンキンと騒いで、頭の中でがむしゃらにこだまする。
背中を丸めてダンゴ虫みたいになっても、お母さんの手はぼくをひっくり返してお腹をつぶす。
ぐう、と呻き声が洩れるのに、お母さんは驚いたのか「いやァ!」と喉を叩いてきた。首を締め上げられる。
呼吸ができなくなって、苦しいけど、それもやっぱり言えない。もう声が出ない。
――そうか、と本当に今さらぼくは気がついた。
お母さんがいつも、ぼくを叩くお父さんの手からぼくを守ってくれるのは、ぼくのことが好きだからじゃ、ない。
殴られる息子を庇う母親が、やさしいから。
美しいから。正しいから。尊敬されるから。
きっとそれだけのことだった。
お父さんを殺そうとする子どもは、お母さんの常識から外れているから。
お母さんはそんなぼくのことは許せないし、もう、守ってはくれないのだ……。
やがてお母さんは、動かなくなったぼくを拾い上げて、そっと抱きしめた。
「やさしい人になりなさい。そうしたらお母さんは、あなたみたいな気持ち悪い子のことだって、ちゃんと愛してあげるんだから」
それからぼくは「やさしい人」を目指すことになった。
でも「やさしい」という言葉を理解して、目指して実行するのは難しかった。
他の言葉もそうだけど、「やさしい」は、人それぞれ似ているようなのに、全く違う意味を持っていたからだ。
どういう人が「やさしい」のか。ぼくはとても困ったけど、すぐに、考える必要がないことに気がついた。
結局、お母さんに笑っていてほしいなら、ぼくが目標にするべきは最初から分かりきっている。
つまりぼくが成るべきは、「やさしい人」ではなく「母にとってのやさしい人」だ。
そうすればきっと、お母さんはぼくをまた、愛してくれるはずなんだから。
…………だけど、と俺は、言う。
「俺はもうそれをやめたんだ。そんなのは意味がないって、気がついたから」
どうして? とその子は、訊き返してはこない。
そもそもこんなのは、擦り切れたビデオテープを延々と巻き戻しているのと同じだ。
だから俺はただ、その子が歩く道を見守っていた。
その先に待ち受けるのが誰か、今の俺には分かっているからだ。
「なら。キミは――」
その子が辿り着いた先の、とあるベンチに座って。
このときはまだ、濡れそぼったカラスみたいな黒髪と黒い瞳をしていた少年は、微笑みながら囁いた。
「キミは――よくあつのけものだね」
その表情は、俺の知る彼のものと、ほとんど同じものだった。




