113.大切だから
俺が呆けていると、リセイナさんがあきれ顔で振り返ってきた。
「何をしてる。早く行くぞ」
「あ……はい」
力なく頷き、リセイナさんに続いて歩き出す。
――本当に、どうしたことだろう? と、不思議な気分に陥っていた。
他人のことなんて、今まで気にしないで生きてきた。
実際にどうでも良かったからだ。ユキノ以外の存在のことをまともに考えようとはしなかった。視界に入っていても、その誰かを注視することなんて一度もなかったのに。
でもこの世界にやって来てからは、何かがゆっくりとずれ始めた。
トザカ。コナツ。ハルトラ。レツさんやネムノキ。ついでにアサクラ。
そして、ミズヤウチ――彼ら彼女らは否応なしに、分かりにくいけれど確実に、俺の形を変え始めてしまっている。
その事実が良いことなのか悪いことなのか、その判断もつかずにいる。
「…………」
結局は、ユキノが居ないからだろうか。
出会ってからこんなに長く離れているのは初めてのことだから、それでいろいろ感覚が狂っているのかもしれない。
そんな風に無理やりに自分を納得させて、考えるのを打ち切ることにした。今はとにかく足だけ前に進めていればそれでいい。
「ナルミ。そういえば訊きたいことがあるんだが」
「え……何ですか?」
不意に掛けられた言葉に、俺は少なからず緊張した。
それこそ俺に対して毛ほどの興味も抱いて無さそうなリセイナさんから、訊きたいことがあるなんて話しかけられるとは思っていなかったのだ。
コナツのことか。それとも扉の先の世界のこと?
あるいは俺の情報とか? 《来訪者》や血蝶病についての話の可能性も……。
など思考を巡らせる俺に対し、生真面目な顔でリセイナさんは言った。
「どちらがお前の女なんだ?」
「……えっ?」
「ミズヤウチナガレとホガミアスカ。それともどちらもか?」
「いや……あの……ちょっ……えっ?」
待って欲しい。
予想外の方向からの質問に思考がぜんぜん追いつかない。
頭の中と同様に、周囲の光る鉱石がチカチカ点滅する。混乱はますます増していく。
とりあえず目を瞑った。俺は額を手で抑えつつ、「えーっと」と口の中で呟く。
「参考までに訊きたいんですけど、なんで俺はそんなあらぬ疑いを持たれちゃってたんでしょうか……?」
「先ほど、あいつがそんなことを言ってたからだ。ナルミも罪な男だとか何とか」
あいつ。
指差す方を確かめずとも分かる。アサクラだ。さっき、何か吹き込んでるように見えたのはそれだったに違いない。
逃げるミズヤウチを迷わず追いかけたのも、俺と二人きりになればリセイナさんがその話題を振るよう仕向けたからか。……アイツほんとにどうしてくれよう。
溜息みたいな声を喉から絞り出して、こう答える。
「どちらとも、まったくそういう関係じゃないです。ホガミに至っては俺を毛嫌いしてるし」
「そうなのか。村に連れ帰る最中は、そんな様子でもなかったが。お前のことをしきりに気にしていたし」
ホガミが?
俺のことを?
「……リセイナさんって、意外と鈍感だったりします?」
「なっ……!」
リセイナさんが目と口を大きく開いて、思いきりショックを露わに立ち竦んだ。
あまりの反応の良さに俺は驚いたのだが、ツッコむより先に、不機嫌そうに眉を寄せられてしまう。
「…………何故だろうな。貴様に指摘されると、妙に、無性に、腹が立つ」
「す、すみません」
よくわからなかったが謝っておいた。
……が、考えてみると何だか理不尽な気がする。アサクラにもリセイナさんにも、似たような件でからかわれたのは俺のほうだ。
三歩分ほど前を行くリセイナさんのさらに前方には、ほとんどダッシュみたいな勢いで坂を駆け上がるミズヤウチと、それにのんびり続くアサクラの姿とが見えた。
そこで少しだけ、やり返してみることにした。これくらいならきっと罰は当たるまい……。
「いやー、俺よりもリセイナさんのほうが、そういうウワサがありそうですよね」
「む……どういう意味だ」
「ほらリセイナさんって、アサクラと仲が良」
「刺されたいのか?」
「すみませんでした」
駄目だった。怖すぎる。
視線だけで射殺されそうになりつつ必死に平謝りする。
それによく考えると、ほとんどセクハラみたいな話題を振ってしまった気がする。人としてサイアクだ。
「第一……アレはああ見えてそれなりにモテるぞ。先日も交際の申し出をされたらしい」
「そうなんですか」
俺が猛省している間も、リセイナさんが言葉を続けている。
「まあ、どれも断っているらしいがな。心に決めた女でもいるのかと訊いたら、笑って誤魔化されたが」
リセイナさんは肩を竦めている。俺はその発言に、しばらく何も返すことができなかった。
アサクラにとってのそんな相手を、俺は知っている。
いつか彼はリセイナさんにそのことを話すのだろうか? それとももう二度と、口にはしないのだろうか。
どちらにせよ、俺が勝手に掘り下げていい話ではないのは確かだ。
「でも、ちょっと意外でした。リセイナさんってそういう、恋愛のこととか気にするんですね」
少し強引かも、と思いつつ話題を変えてみると、リセイナさんは眉間に皺を寄せた。
「こんな堅物女なら、色恋沙汰には無関心と思っていたか?」
「そうじゃなくて……自分のことはともかく、他人のそういう込み入った事情に積極的に首を突っ込むことはなさそうだな、って思ってたんです」
「……そうだな。昔はお前の言う通りだったかもしれない」
カツン、とリセイナさんの足元で鉱石の表面が小気味良く鳴る。
それがある種のきっかけだったのか、彼女はこんなことを言い出した。
「エルフという種族について、詳しく知っているか?」
「いえ……」
「それなら道すがら、少し講釈を垂れようか」
種族の成り立ちと、先程までの会話とがどう繋がるのか。
そう疑問に思いつつ、俺は前方のリセイナさんの声に耳を傾ける。
「我々エルフは、異星からやって来たのだと言われている」
そして開口一番で、呆気にとられてしまった。
俺は力なく繰り返した。
「……異星?」
「そうだ」
しかし聞き間違いではないらしい。
リセイナさんは強く頷き、言葉を続ける。
「美しき神が、立場の弱い異星からの漂流者である我々のため、扉の先に新たな世界を創造した。そしてそこに我々を住まわせた、という物語だ。元々この地に住む人間と、我々はあらゆる要素が噛み合わないからな。……住まわせたというより、閉じ込めたというのが正しいのかもしれんが」
自嘲気味にリセイナさんが微笑む。だが俺はまったく別のことを考え始めていた。
もしその話が真実だとしたら、俺たち《来訪者》とエルフはよく似ているんじゃないか?
違う星から、この異世界に飛ばされたことも。
金髪の女神さまが、ここで生き抜くための能力を与えてくれたことも。そして――――。
……何だろう。
何かいま、大切な、見落としてはいけない何かが頭の中を一瞬、過ぎったような気がする。
でもその影を掴み直す前に、リセイナさんの声が滑り込んできて、思考は瞬く間に霧散してしまう。
「エルフ族の身体的な特徴といえば、やはりこの髪色だろう。我々の他に生まれつき金色の髪を持つ種族は無い。それに耳も人間と異なりピンと尖っていて長いな。
それと、これは我々自身というより、人界の者たちが重視する点だが――長寿、それもいわゆる不老であることは、広く知られている」
そこでリセイナさんが立ち止まったので、俺も遅れてその場に踏み止まった。
振り返った、知的なエメラルドグリーンの瞳は、鉱石の輝きにも劣らず煌めいている。
厳しくも端整な顔立ちがひっそりと言葉を紡いだ。
「正確に言えば、エルフの成長は全盛期で止まる。それまでは人間と同様の速度で肉体は時を刻むが、全盛期に至りさえすれば、その身体は老いることも朽ちることもない」
「それはコナツ……姫巫女も、リセイナさんも?」
「だろうな。私の成長は歳が三十を超える前くらいで止まった」
「じゃあ、エルフは不死でもあるんですか?」
何気ない問いかけのつもりだった。
だがそこでリセイナさんは、
「――いや、それは違う」
大きく、首を左右に振った。
「不老ではある。寿命も長い。だが、我々は不死性だけは獲得していない」
「それは……何故ですか?」
「先ほど私は、身体は老いることも、朽ちることもないと言ったな。だが精神はその限りではないからだ」
そう口にする横顔は悲しげだった。
そんなに弱々しいリセイナさんの表情を目にするのは初めてのことで、驚く。
「心は必ず摩耗する。次第に耐えられなくなってくる。扉から世界を渡らず、エルフだけの世界で悠久の時を過ごしても尚、終わりは例外なく訪れる」
「終わり……」
「私の親は、私が100歳を過ぎた頃に死んだ。460歳だった。エルフとしては、若い方だ」
なら……コナツは?
675歳になったという、コナツは……。
俺は自然と、共に旅をしてきた幼い少女のことを思っていた。
そしてふと、気がついた。
そうか。リセイナさんが急にこんな話をした理由。
俺に気づかせたかったこと。それは――
「だからリセイナさんは……出会ったときから、俺に怒っていたんですね」
じっと俺を静かに見つめていた瞳が、一瞬だけ見開かれる。
「気づいていたのか」
「そりゃ、さすがに」
俺は苦笑する。あれほどの怒気を向けられて気づかなければ、些か鈍感すぎるだろう。
でもその理由までには至っていなかった。想像しても、正解かどうかは判断がつかなかったからだ。
いま改めて考えれば、何もかも説明がつく。
出会った当初、彼女は同胞のエルフが俺たち人間を袋だたきにするだろう、とものすごい剣幕で口にしていた。
でも実際、村に辿り着いてみれば、最初こそ少し距離があったもののエルフは俺たち人間にも親切にしてくれた。
それはコナツが以前、俺たちとの冒険を彼らの先祖に話し、現代にもその話が伝わっていたかららしい。
怪我をしているミズヤウチを治してほしいと訴えたときは、素っ気なく撥ね除けられた。
だがその後は、傷に苦しむ彼女の傷を迷う素振りもなく魔法で回復してくれた。
マナが身体に馴染んだから、と言っていたが、つまり初対面の頃から、リセイナさんはもともとミズヤウチを治すつもりでいた。
つまりリセイナさんには、どうしても俺を怯えさせたい理由があったのだ。
「――胸躍る冒険を」
ともすれば聞き逃しかねないほどの小さな音量で、ぼそりとリセイナさんが呟く。
「一度、与えながらも。夢をみせた責任を果たさず、幼い少女を放棄したお前が許せなかった。子どもの頃から、ずっと」
彼女は歯を食い縛っていた。
握った拳が震えている。爪が食い込んだ皮膚からぽたりと血が垂れる。
鉱石に宿るマナが俄に震動するほどの、凄まじい怒りだった。
その大半は俺に向けられたものだ。そして何百年も、彼女が抱え続けたものだ。
「だって、許しようがないだろう。姫巫女の守り手たる私の普段の仕事は何だと思う? あの方の護衛さえ最たる役割ではないのだ。私は、毎日、クリステの森やその周辺を捜索する役目を仰せつかっていた」
そして、もしかすると、彼女は自分自身にさえその行き場のない感情を向けているのかもしれない。
「お前を見つけるためだ、ナルミシュウ。666年間、あの方はお前を、仲間たちを血眼になって探していた」
血を吐くような苦しげな声で、リセイナさんは言い募る。
「近頃はほとんどまともに歩けなくなった。すぐ疲れてしまうと言い、寝台に横になって眠ってばかりいる。心が壊れかけているのだ。私の両親も、そんな風になって間もなく死んだ。……もう、きっと、」
最後はほとんど掠れていた。
それでもその続きを、俺は確かにきいていた。
……ああ、と、叫びたくなる。
意味のある言葉が浮かばない。頭の芯が痛んで、熱くて、熱が溜まってはち切れそうだ。
コナツを助けたかった。
まだ間に合うと、誰かに言ってほしい。叶うならリセイナさんにそう言ってほしい。
だが彼女は自分の身体を抱きしめるようにして震えている。そしてこの場には、俺とリセイナさんの二人しか居なかった。
それなら、今は。
いや――最初からずっと、他力本願に願っている場合ではない。
「助けます」
無我夢中でそれだけをまず口走った。
のろのろと顔を上げたリセイナさんは、きつく鋭い目をしていた。
本気で怒っている。苦悶と侮蔑とに充ち満ちた瞳だった。
「……簡単に言うな。そんなことは」
「本気です」
それでも怯んではいられなかった。
真っ向からリセイナさんと向かい合う。対立するためではない。
ただ、心からの感謝を伝えたかった。
「今まで彼女のことを想って、支えてくれて、ありがとうございます。そのおかげで俺は、またあの子に出会えた」
「……お前……」
「再会できたから、諦めません。どうにかします。何だってやります。だからどうか、俺に力を貸してください」
精一杯に頭を下げる。伝わるまで何度でも言うつもりだった。
例えこの下げた首を、頭上から断ち切られたとしても文句は言えないだろう。
でもコナツを助けるまではどうか待ってほしい。その後なら、どんな罰も甘んじて受けるから。
とにかく、必死だった。
やがて、数十秒か、あるいはほんの数秒の時間を挟んで、リセイナさんがぽつりと言った。
「…………少しだけ、姫巫女様がお前を気にする理由が分かった気がする」
「え?」
「君は、他人に甘いんだな」
俺は顔を上げた。
リセイナさんは、何だか出来の悪い子どもをみるような顔をして俺を見つめている。
そんな評価を下されたことは今まで生きてきて、たぶん初めてだった。なんだか気が抜けてしまう。
「君は、きっと――」
その先の言葉は、きけなかった。
「姐さん! ナルミ! 来てくれッ!!」
俺とリセイナさんは同時に頭を上げた。
きこえてきたのはアサクラの叫び声だった。しかも余裕のない、切羽詰まった声音だ。
気がつけば、前を行っていたミズヤウチとアサクラの姿が見えない。
もう頂上に辿り着いたのか? そこで何かが起こった?
しかし悠長に考えている暇はないとばかりに、リセイナさんに叱咤される。
「行くぞナルミ!」
「はい!」
リセイナさんに続いて駆け出す。
ひどい胸騒ぎがしていた。




