111.亡霊のウワサ
「うっ……手が、震、える……」
俺の少し前を行くアサクラが、よろよろと岩をよじ登っている。
観察する限り、手どころか足も肩も首もめちゃくちゃ震えている。というのはたぶん、俺も同じなので黙っておくことにした。
――俺たちはリセイナさんの指示に大人しく従い、自然界でのボルダリングに必死に取り組んでいる最中だった。
一部、風魔法で無惨にも服を切り裂かれたアサクラは唯々諾々と、俺はといえば大きく反対する理由もなく、リセイナさんとミズヤウチに続いて挑戦を行うこととなった。
しかしその道のりは想像以上に過酷だったのだ。
最初はジャンプをすればどうにか上に届くくらいのサイズの岩も多かったが、次第にそう言ってもいられなくなった。
両足を置くゆとりもない崖っぷちを、両腕の力だけで登ったり、気合いと根性だけで全身を持ち上げて血管が切れかけたり、その最中にも空気を読まず攻撃してくる魔物を死ぬ気で蹴散らしたりなど、散々な目に遭った。
そのたびに不安定な姿勢になり、眼下に広がる断崖絶壁を思いきり目にしてしまったのも、敢えて言うなら良かったのかもしれない。墜ちたら死ぬ、という事実を脳に無理やり実感させる意味合いで。
もしユキノの《攻撃特化》と《速度特化》のバフがあったなら、もっと格段に速いスピードで登れていただろう――なんて思ったのは、一度や二度ではない。
しかしこの現状ではないものねだりに等しく、この身ひとつを必死に動かしてどうにか上に向かうしかなかったのである。
「ほら、やる気を出せ。あと少しだぞ」
「…………」
そして苦戦する俺たちを置き去りに、女性陣はといえばとうの昔に岩山を登りきっていたりする。
リセイナさんは仁王立ちをして。
それにミズヤウチはしゃがみ込んで、奮闘する俺たちをじっと見下ろしている。
リセイナさんの厳しくも心遣いのある注意により、しっかりとスカートが仕事を果たしているのは何より僥倖だった。
「うわ~……ん……」
なんだか情けない悲鳴みたいな声を上げながら、アサクラの姿が岩の上まで消えていった。
次いで俺もその岩の先端へとしがみつく。アサクラの到着を待機していただけでもかなり身体は疲弊している。なるべくはやめに登りきりたいところだ。
「ふっ、ぐ……」
手足の筋肉が痛みで引き攣ってきている。伸ばした右手がぷるぷると震える。
どうにか岩の窪みに指を差し込み、身体を持ち上げるものの結構キツい。歯を食い縛って耐える。
霊山、なんて神聖な響きの場所だなぁとか油断していたが、まさかここまで体育会系の旅路になるとは……。
なんて文句も言いたいところだったが、そこでタイミング完璧にリセイナさんが片手で引き上げてくれた。
力強く持ち上げてくれる彼女の助けを借りてようやく、俺も乳酸蓄積しまくりのボルダリングから解放された。
「あ、ありがとう、ございます……」
息も絶え絶えにお礼を言う。呼吸を整えるのにも時間がかかりそうだった。
「もう二度と……登りたくねぇ……」
俺の前に辿り着いていたアサクラはといえば、その場に大の字になって転がっている。
その横で鈍い痛みを発する二の腕を軽く揉んでいると、ミズヤウチがてててと近づいてきた。
すっと目の前に差し出されたのは白いタオルだった。
そんな風に気遣ってくれるミズヤウチの気持ちは非常にありがたい。
「ありがとう」
軽く微笑みながら受け取り、顔の汗を拭き取る。
ミズヤウチは小さく頷いてから、アサクラにもタオルを渡していた。というよりアサクラ本人が「顔にそっと、かけて……」とか呟くので、困った様子ながら顔にそっと掛けてやっている。無視していいのに。
「リセイナさんもそうだし……ミズヤウチも、やっぱり運動神経良いな。さすが運動部っていうか」
そう素直に褒めると、だいぶ控えめなピースサインを向けられる。
いつもは眉や瞳の動き、それに首の振り方で感情表現を試みるミズヤウチには珍しいリアクションだ。
と思っていたら、本人もそんなことを感じたのか、そのピースサインは赤い顔でこそこそ畳まれてしまった。残念。
一気に道のりをショートカットしたからか、見える景色はだいぶ変わってきていた。
まず、かなり地面が固い。どんなに蹴っても表面の土がほとんど飛ばないくらいだ。
というのも、この場所の地面のほとんどが、鉱石が連結されて作り上げられたもののようだ。
そして角がゴツゴツとした、ごく僅かに淡く光る巨大な鉱石群の間に、人が通れるくらいの隙間がちらほらとある。見通しは悪いが、鉱石のおかげで完全な暗闇ではないので移動はどうにでもなりそうだ。
「この先はしばらく平坦な道のりだが、鉱石の道を通り抜けると傾斜の緩い坂道がある。そこを登っていけば頂上に到着するはずだ」
「はず……?」
リセイナさんにしては珍しい、不確定な言い回しだった。
思わず首を傾げるとギロッと遠慮なく睨まれた。余計なことを言ってしまったらしい。
しかしリセイナさんは肩を竦めつつ説明してくれた。
「……私は以前、ここにフィンとマクイルーラと共に来たことがある。まだ守り手になる前のことだ」
フィンさんとマクイルーラさん。二人ともリセイナさんの部下を務めるエルフたちだ。
そしてフィンさんの叔母に当たるのが、俺たちの世話をしてくれたフィランノさんである。
「霊山には珍しい鉱石や薬草も生えている。それを採集するために向かう、と当時は周りに説明したが……実際の目的は違った」
アサクラも初耳なのか、上半身を起こして話を聞いている。
俺たち三人の注目が集まる中、リセイナさんは堂々と話を続ける。
「このウエーシア霊山には、古くからある言い伝えがあるんだ。私たち三人はその、根拠のない噂話を否定するためにこの山に行ったんだ」
「噂話……?」
「そうだ。それは――」
そこでリセイナさんは、俺たちの顔をゆっくりと見回す。
それからわざとらしく、大きく一息入れた。……タメがすこぶる長い。
いったいどんな言葉が繰り出されるのかと、俺は真剣にその言葉を待った。
やがてリセイナさんが、低く這うような声音で言い放つ。
「――亡霊、だ」
ドガン!
唐突に、すぐ近くで大きな物音がしたので思わず肩がびくっと跳ねてしまった。
見てみれば、ミズヤウチが手にしていたリュックを地面に落っことしていた。タイミングが良すぎてびっくりしてしまった。
開け口の小さいリュックの中身はほとんど落ちていなかったが、ミズヤウチは泣き出しそうな顔つきでせっせと拾っている。そんなに大した失敗じゃないのに。
……コホン。
と軽く咳をしたかと思えば、リセイナさんが一本指を立てた。
「――スティグマの亡霊、なんて風にも村では呼ばれて恐れられていてな。ウエーシア霊山の頂上には、昔死んだ霊がいまも未練を残して彷徨っていて、生者を見かけると擦り寄ってくる。その透明な口から吐き出された言霊を聞いてしまった者には、死に至る呪いがかけられるのだ……と」
「へえ……」
スティグマの亡霊、か。
そんな存在自体にはまったく馴染みがないものの、わりと王道にホラーテイストな話だ。心霊番組とかでよく見かけるタイプの、オーソドックスな話といっていい。
が、俺の淡白な反応が気に食わなかったのか、リセイナさんはむっと唇を尖らせた。
「実際にスティグマの亡霊を視た、というエルフも居るんだぞ。そう侮れる噂でもない」
「その人ってどうなったんすか?」
訊いたのはアサクラだ。
リセイナさんは少々言い淀みつつ、真面目な口調で応じる。
「その者は三日三晩苦しんだのち、翌日には回復していたが……」
「じゃあ死に至ってないじゃん」
「ええい揚げ足を取るな。どちらにせよ、その亡霊とやらの謎を解き明かしたいのだ私は。それだけだ!」
リセイナさんはすっかりぷんぷんしてしまった。意外と幽霊とか、そういうの好きなのかもしれない。
話自体はかなり眉唾モノではあったが、そういうことなら俺も頂上では注意深く観察をがんばろう、なんて風に思う。幽霊の正体見たり枯れ尾花って感じだろうけど、夏の風物詩としてはおもしろい。
「ちなみにおれがウエーシア霊山に来たのは、「お前もあの言い伝えの正体を確かめてこい!」つってリセイナ姐さんに蹴り出されたからだ。ふつうに怖くなってて途中で逃げてきたけど」
「姫巫女の守り手たる者が亡霊なんぞ怖がるな。当たって砕けろ。いっそ死ね」
「いっそ死ねってなに?! ただの悪口じゃん!」
アサクラがぷんすこと憤慨している。
相変わらず仲の良い遣り取りをするふたりを眺めていたときだった。
不意に後ろから、ぎゅう……っと服の裾を握られた。
「え?」
その感触に思わず振り返る。
よくコナツはそんな風に、俺の服の裾を握るクセがあった。まさか、と思ったのだ。
「…………」
しかしそうではなかった。
そこに立っていたのはミズヤウチだ。顔をほとんど俯けたまま、伸ばされた右手だけが弱々しく存在を主張している。
「ミズヤウチ? どうした?」
問うてみても、ミズヤウチは応えない。ますます裾を握る手の力が増すだけだ。
迷いつつ、少し角度を変えて表情を覗き込んでみると、普段から白い肌がいまは白を通り越して真っ青に染まっていたので驚いた。
それに手も小刻みに震え続けている。これはもしかすると……
「……えっと、霊とか怖い、とか?」
「っ!」
あ、これは図星だ。




