108.ウエーシア霊山
二時間ほどにもなる一角獣への慣れない騎乗を終えて、俺たちはウエーシア霊山の麓まで辿り着いていた。
そこまでの道のりはといえば、リセイナさんとアサクラが先導し、ユニコーンが慣れた様子でついていってくれたので、俺は特に何をしたわけでもない。
が、とにかくユニコーンは足が速かった。速いというかもはや、乗っている身体が風速で真っ二つに千切れそうなほどの、とんでもないスピード感だった。
体験したこともないマッハ速度による揺れと酔いに、ひたすら耐え続けていたような地獄の道中だった。
しかしミズヤウチが存外平気そうにしていたので弱音を吐けず、到着した頃には俺の顔はすっかり真っ青だったらしい。そりゃそうだ……。
「ウエーシア霊山は「はじまりの場所」と、エルフたちから恐れと憧憬を一身に受ける山だ」
ユニコーンから華麗に降り立ったリセイナさんが、その偉大なる山脈を見上げて言う。
「迷いの森」と恐れを持ってあだ名されているクリステの森ではなく、その輪郭に沿って大きな円を描くように進み続けた先にウエーシア霊山は存在していた。
遠く離れたエルフの村からはそのサイズが正しく認識できていなかったが、近づいてみればその大きさと重圧とがハッキリとのし掛かってくるように感じられる。ここまで間近に寄ってしまうと、思いきり頭を持ち上げて首を傾けないと、その天辺を視界には収めきれないくらいだ。
切り立ってゴツゴツとした灰色の岩の群が、寄せ集めにされたかのような厳然な霊山である。
ここに近づくにつれ、軽やかな虫の音は止み、鳥の鳴き声も気づけば一切きこえなくなっていた。か弱い生き物にとって、近づくことすら禁忌に値するような場所なのだろう。
――そしてここに、ユキノが居る。
「この山では珍しい薬草や鉱石が手に入ることでも知られていてな」
「そうそう。その一環で一度、おれはこの山登ったんだぜ」
「泣きながら「魔物に襲われたァ」とか言いながらとんぼがえりしてきた男が偉そうに言うな」
「姐さんひどい! おれだってがんばって修行してたのに!」
……身を引き締めようとしてたのに、周り(主にアサクラ)が騒ぐので集中力がふつうに切れてしまった。
俺は山を見上げるのをやめて、泣き真似をするアサクラをジト目で見遣った。
「……あれ? 何かナルミ、呆れるような目してない?」
ような、どころか実際呆れかえっていたのだがそれは口には出さず、俺はずっと疑問に思っていたことをこの場で訊いてみることにした。
「なぁ、アサクラ。ちょっと気になってたんだけど、このエルフの住む世界って……俺たちの元居たキ・ルメラとは、まったく別の世界なのか?」
「ああ。おれにもよくわかってないんだけど、地続きにはなってないだけで、座標は同じらしいよ」
よくわかってない、という言葉通りにアサクラの説明は非常に分かりにくかった。
助けを求めるような気持ちで横のリセイナさんに視線をスライドさせると、彼女は溜息と同時にこんな風に言った。
「……誤解が生じることを厭わずに敢えて平易な物言いをするならだが」
そう前置きした上で、リセイナさんは続ける。
「まず、ずっと以前……それこそ1000年以上も前の時代を治めたという神が、エルフだけの居場所を創り出すためにこの世界を生み出したそうだ」
「エルフだけの……」
「そうだ。キ・ルメラの人間は我々の世界には関係できないが、我々はそれを行える。神が古代のエルフに授けたという「扉」の力を使えば、キ・ルメラなる世界と自分たちの世界を自在に行き来できるのだ」
いかにも神話チックな、スケールの大きい話だ。
「我々にとってキ・ルメラは鏡の中の世界で、そこに住む人々は鏡の中の隣人のようなものだ。しかし我々は鏡の中に手を伸ばし、その中をこっそりと覗くどころか、鏡の中を歩き回ることだってできる。
だが先人たちはその道を選ばなかった。エルフによる一方的な相互不干渉の約定が制定されたのも、おそらくその頃だろうと私は推測している」
「扉」があれば、自由自在にふたつの世界を行き交うことができる。エルフだけに与えられた圧倒的な特権と言い換えてもいい。
もしもリセイナさんの言うように、本当に「神」あるいはそれに準ずる存在が居たとするなら、それは随分とエルフに肩入れしたのだろう。
そしてエルフたちは、当時の個々人の本心はどうあれ、その特権を生かしきらない道を選んだ。隔たれたそれぞれの世界を、無闇に交じらすことなく生きていこうとしたのだ。
彼らの魔法が古代魔法と呼ばれるものであるのも、武器や武装が進化していないのも、根本的な理由はきっとそこにある。
――私たちエルフは、私たちを傷つけない。
――私たちエルフは、人間の争いに関与しない。
――私たちエルフは、私たちに人間を干渉させない。
コナツがその約定を口にしたとき、俺はてっきり、エルフが自分たちの身を人間から守るために作られた決まり事なのだと思っていた。
しかしリセイナさんの話から辿っていくなら、真実は逆だ。
エルフは、自分たちから人間を守るために、そんな決まりを作ったんじゃないだろうか……。
だがそこでふと、リセイナさんは微笑んだ。
疲れたような陰のある笑みだ。
「……それも、今は少し変わりつつあるが」
昨夜、宮殿の前で出会ったリセイナさんは言っていた。
姫巫女たるコナツの命令で、彼女の姉であるリセイラさんは扉を使い人間の世界に渡ったのだ、と。
そしてその結果としてリセイラさんは命を落としている。
俺は何も言えなかった。そもそもコナツがそんな命令をした理由には、きっと俺自身が深く関わっているからだ。
「――つまりここはキ・ルメラじゃなくて、ラ・メルキってことですね!」
気まずい雰囲気をどうにかしようとしたのか、アサクラが何か言っていた。
「……無駄話はいい。さっさと行くぞ」
「あいてッ」
リセイナさんがぺしりとその後頭部を叩いていた。
でも少し調子を取り戻しているのは、誰の目にも明らかだった。
+ + +
今日中に山を下れるのかは微妙だ。
という守り手の二人の言葉により、ユニコーンたちは一度、エルフの村に送還することになった。
「心配するな。私が笛で呼べば、彼らは小一時間ほどでここまで戻ってくる」
とはリセイナさんの言である。
人間や荷物などの重荷がなければ、ユニコーンは超速度で道を踏破できるそうだ。
ゼッタイにその速度だけは味わいたくないなと思いつつ、俺はリセイナさんの言葉に頷いた。
霊山に侵入した後は、ひやりと冷たい空気にぞわりと背筋が泡立った。
基本的には過ごしやすい、快適な温度と言えるのかもしれないが、それより何か、誤魔化しようのない霊妙不可思議な雰囲気が漂う場所である。
アサクラができる限り量を抑えてくれた食料や水はリュックに入れて背負っているが、それでも重苦しく感じるほどだ。
所々に埋め込まれた鉱石が微かに光っているので、薄暗くとも視界はそう悪くない。
ただ肝心の道はといえば凸凹としていてわりと歩きにくい。そんな舗装されていない道をリセイナさんを先頭に、ミズヤウチ・俺・アサクラの順で進んでいく。
「あー、すっげぇ眠い……」
しかし歩き出して間もなく、アサクラがぶつぶつと独り言を呟き始めた。
「ちょっとお腹もすいた」とか「若干酔った」とかの実に他愛ない内容ばかりなのだが、……なんだろう。
全然、まったく、これっぽっちも話しかけたくはないのだが、そこはかとなく「はよ返事しろ」という背後からの圧がスゴい。
それに一応、先ほど身体を張って空気を和らげてくれた件もあって無視しにくかった。それもヤツの計算だったのだろうか。
やがて俺は耐えきれずに、後ろをちらっと振り返って短く問うた。
「大丈夫か?」
前方からハァ……と溜息がきこえた。明らかにリセイナさんのものだ。
その時点で「あ、失敗したんだな」という事実は充分伝わってきたのだが、アサクラは俺が止める間もなくぺらぺらと口を動かし始めた。
「いやぁ。昨夜、旅支度を済ませて早めにベッドに入ったんだけどね? でもやっぱ何だろう、遠足前のわくわく感、みたいな? いや厳密には遠足じゃなくて任務だけどさ。久々にナルミたちと、しかも今回はお城の防衛とかじゃなくてダンジョン探検っぽい感じでさ。するとアレよ、楽しみになっちゃってなかなか寝つけなくて……おれもいっぱしの戦士かと思いきや、まだまだだね……へへっ」
すごい。一気に場の緊張感がなくなってきた。
「うるさいぞアサクラ。口を閉じて息をせずに周りを警戒しろ」
「あ、すみませ……あれっ? 息も? 息もダメ? それ死んじゃわない?」
リセイナさんに叱られたアサクラがおろおろしている。自業自得なのでしばらく放っておこう。
俺は前をてくてくと歩くミズヤウチに少しだけ接近して、驚かせないようそっと話しかけた。
「ミズヤウチ、怪我の調子は平気?」
マフラーを揺らしてすぐに振り返ってきたミズヤウチが、俺の顔を見て二回ほど瞬きをする。
それからこくり、と安定の頷きが返ってくる。心配ない、という意味だろう。
「それなら良いけど。ミズヤウチはひとりで頑張りすぎなところがあるからさ。何かあったら遠慮せず俺の腕でも袖でも引っ張ってくれていいから」
次はこくこく、と小刻みな頷き。わかった、の意味合いだ。
俺個人としては、フィアトム城でもミズヤウチとは即興の連携を行ったことがあるのであまり心配していない。
でも彼女が発声できない以上、大人数での戦いには不安が残る。この霊山は空洞のように広々とした場所ではあるが、仲間と接触や衝突をするリスクは少なからずあるのだ。
事故を防ぐためにはお互いの位置を的確に把握して、周囲の状況を確認する余裕を持つ必要がある。そしてそれは俺が率先して行うべき注意でもあった。
必要な会話を終えて再び元の位置まで下がった俺に、次はアサクラがこっそり近づいてきた。
リセイナさんにバレないよう小細工をしているのか、かなり小さな音量で囁いてくる。
「……何かさぁ。しばらく見ないうちにふたり、ちょっと良い雰囲気じゃない?」
「は?」
言葉の意味がわからず眉を顰める。何の話だ。
しかしアサクラは怯まず、むしろニヤニヤとした顔つきで続けてくる。
「だってナルミが姫さん以外の女子を労るとこなんて、おれ初めて見たし」
姫さん。というのは、ユキノのことだろう。
ユキノの名前は漢字で鳴海雪姫乃と書く。そのことから、特に学校の下級生を中心としてユキノを「姫」と呼ぶ一派が存在しているのだ。
その中には純粋なる憧れもあれば、やっかみによる皮肉を含んでいるものもある。
アサクラがその呼称を使ったのは単に揶揄したかっただけだろう。俺は淡々と言い返した。
「別に俺とミズヤウチはそういうんじゃない。前に助けてもらった恩義があるだけだ」
「またまたぁ。そういうところからラブは始まるんだって」
肘で脇腹をつつかれた。ものすごいウザ絡みだ。
無視しても良かったが、ここはキチンと否定しておかないとミズヤウチにも迷惑がかかるかもしれない。
「……そもそも俺、ユキノだけじゃなくてコナツのことも労ってたと」
「来たぞ」
しかしそれを言い切る暇はなかった。
リセイナさんが口にしたと同時、それぞれが武器を構える仕草を取る。
前方の暗がりから響いてくるのは、俺たちのものとは明らかに違う足音だ。
小走りに向かってくるその音に目を細め、リセイナさんが言い放つ。
「――小鬼の群れだ」




