100.ラッキースケベ兄さま そのに
俺はてくてくと、とある住宅の廊下を歩いていた。
エルフの家の外観は、街々で見かけた洋風のそれとはだいぶ趣きが異なる。
自然豊かな景観に合わせたものなのか、その過半数が木造建築の可愛らしいログハウスのような家屋で、なんだかおとぎ話じみているのだ。
しかし室内はといえば、外観とは異なり、決して古くさいという印象はない。家具も設備は必要最低限だが整っているし、水道や電気も魔法により休むことなく提供されるので問題なく使えるのだ。
開いた大窓の隣を通りかかったところで、「おはよう」と誰かに声を掛けられる。
窓の外を見ると、銀色の如雨露を手に、庭の花に女性が水やりをしていた。
「おはようございます」
にこやかに笑顔を向けられ、俺も微笑を返す。
この金髪の女性もエルフのひとりで、名前をフィランノさんという。
リセイナさんの部下・フィンさんの叔母に当たる人らしいが、二十歳前後の外見にしか見えないので不思議だ。
「シュウ、おはよーっ!」
その足元にまとわりついているのが、フィランノさんの一人娘のフィリアだ。
金髪をツインテールにまとめて、その毛先をふるふると子犬の尻尾のように揺らしている。
「おはよう、フィリア」
まだ五歳くらいの外見のフィリアを見ると、俺はどうしてもコナツのことを思い出す。
顔立ちや瞳の色は違うのだが、この天真爛漫な少女を見ていると、コナツに似ている、とふと思うことがあるのだ。
俺たちがエルフの村にやって来て、三日目の朝のことだ。
小一時間ほど歩き続け、川も越えた先にその小さな集落は存在していた。
激しい戦闘の直後ということもあり、俺もホガミもそれなりに疲れていて、そこに到着したときには思わず座り込んでしまったほどだ。
リセイナさんはそんな俺たちを、すぐさま「姫巫女様」なる人のもとに連行しようとしたのだが、そこで声を上げたのがフィランノさんだった。
「その背負われている子、怪我をしているわよね。それに男の子も女の子も疲れているし、服も汚れているわ。そんな状態で姫巫女様に謁見するのは、不敬に当たります。私の家で数日間、面倒を見ましょう」
彼女は凛とした声音でそう言い放ち、リセイナさんは言い返せずに言葉に詰まってしまっていた。
これは後から知ったことだが、姫巫女直属の守り手という役割を持つエリートなリセイナさんの、その先輩がフィランノさんらしい。リセイナさんにとってフィランノさんは頭が上がらない人なのだ。
もともと、きっと独房みたいな汚くて狭いところに入れられて、毎日食事も与えられず、飢え渇いてそのまま死にかける……みたいなろくでもない想像をしていたので、フィランノさんの存在は非常に有り難いものだった。同時にリセイナさんのように、人間を嫌うエルフばかりではないのかと驚かされた。
実際のところ、リセイナさんは賊として俺たちのことを雑に扱いたかったようだが、フィランノさんは自分の家に引き取ることで、そんな事態をも未然に防いでくれたというわけである。感謝してもしきれなかった。
それだからか俺はフィランノさんとフィリアを見ていると、スプーで俺とユキノを居候させてくれたメリアさんとトーマのことを思い出す。
「朝ご飯の支度はできているから、ナガレさんを呼んできてくれる? アスカさんはもう先に食事は済ませているから。その後は……」
言いかけて、フィランノさんは少しだけ顔を曇らせた。
彼女の言いたいことは俺にも理解できている。俺はすぐに頷いた。
「わかってます、姫巫女さまへの謁見ですよね。今、ミズヤウチを呼んできますから」
「……ええ。よろしくね」
フィランノさんに小さく頭を下げて、俺は再び廊下を進む。
余った部屋があるからと、俺とホガミとミズヤウチはそれぞれ、別室を用意してもらっていた。まさに至れり尽くせりだ。
そして年頃の男女で隣室というのはあまり良くない、というフィランノさんの熱弁により、俺とホガミたち女子の部屋は大きく離されている。
だからミズヤウチに会うには、俺は家の中を突っ切るような形で移動しなくてはならなかった。
というのもミズヤウチは、寝起きがあまり良くないのだ。
「ミズヤウチー、いるか?」
こんこんこん、と俺は木製のドアを叩く。
ドアに耳を当ててみるが、返事はない。やはりまだ眠っているらしい。
ミズヤウチの怪我の調子は良くなってきてはいたが、まだ歩くだけでも辛そうにすることがあった。
その件もあり、あまり無理やり起床させたくはないのだが、今日は食事の後に姫巫女さまの宮殿に来るように、と三日前の時点でリセイナさんに告げられている。さすがにそれを破るわけにはいかない。
本来なら、寝ている女子を起こす役割は同じ女子であるホガミに任すべきかもしれないが、敵であったホガミにそんなお願いができるほど俺も肝が据わってはいなかった。
「いるよな? 入るぞ」
このまま引き下がるわけにもいかず、俺はドアをがちゃりと開けた。
カギは掛かっていないので、ネムノキのスキルを頼る必要もない。そもそもこの地では、俺たちの用いるような近代魔法は使えないらしいが。
しかしその直後、
「…………っうぇ!?」
俺はひっくり返った悲鳴を上げた。
ミズヤウチが寝台の真ん中に座り込んでいたからだ。
いや、それだけなら良かった。彼女にしては早くに目覚めていて、手間が省けて助かるくらいだ。
だがミズヤウチは上半身の服をほとんど捲り上げて、腹部の包帯を巻き直している最中だった。
つまりほとんど裸同然の格好をしていたのだ。
「え……あ……」
想定外の事態に俺はものすごく狼狽えた。
遅れて侵入者の存在に気がついたのか、ミズヤウチが俯けていた顔をゆっくりと持ち上げる。
その弾みに、半ば無意識なんだろうが、服を手繰り寄せていた片手までもが大きく上に向かって動いてしまった。
白いお腹の、平坦なラインが俺の目に入る。
そしてその先のほんの僅かな膨らみが――
――バシンッ! と勢いよく自分の頬を殴りつけた。
目を丸くしているミズヤウチから視線を背け、回れ右し、そのまま部屋の外に出る。
ドアを閉めるときはさすがに、慎重に、音を立てずそっと閉めてから……俺はドアに背中を預けてその場に座り込んだ。
居るなら居るって言ってくれ……!
と、もう、声を嗄らして叫びたいような気分である。
しかしそうだ、ミズヤウチは喋れない。と思うものの、あのミズヤウチならば喋れたとしてノックする俺に「どうぞ」と言ってのけるのではと、そんな恐ろしい妄想も頭の中に駆け巡った。
その後、身支度を整えたミズヤウチが部屋から出てきた瞬間、俺は平身低頭で必死に詫びた。
「ごめん。俺が悪かった。この通りだ、謝る」
「…………?」
が、当のミズヤウチは不思議そうに小首を傾げているだけだった。
あああ、危機感がなさすぎてこっちが不安になってくる……。
「えーっと……朝ご飯の後、姫巫女さまのところに行くことになってる」
承知してます、って感じにミズヤウチが律儀に頷いた。基本的に礼儀正しい子なのだ。
俺はそこで一応、背後を振り返って誰の姿もないかをチェックしてから小声で言った。
「それで今の内に、ちょっと確認しておきたいんだけど……俺の一番の目的は、ユキノたちと合流することだ。ミズヤウチもそこに異存はない?」
再び、真剣な顔つきでこくりと頷いてくれる。
「で、だ。姫巫女さまっていうのがどんな人かは分からないし、俺たちに発言権があるのかも何とも言えないけど、できれば俺はその意志を姫巫女さまに伝えられたらと思ってる。でもきっと、俺たちの意志は優先されないだろう」
「…………」
ミズヤウチは困ったような顔で、首元のマフラーに口元まで埋めてしまった。
イエスかノーで答えられる問い以外の言葉には、彼女はこうして気むずかしい表情になることが多い。
しかし俺の言葉にもまだ続きがある。
「だからこれはサイアクの場合なんだけど。もし実力行使で抑えられるような場面に陥ったときは、俺はひとりでその場を離脱する。それでユキノやアサクラを探すよ」
「…………?」
「そうなったときは、ミズヤウチは残ってくれ。エルフの人たちは、そうひどいことはしないと思うから」
「…………っ!」
ミズヤウチはきっと、困った顔をしつつも最後には頷いてくれるだろう、と思っていた。
彼女は怪我を負っている。それにここでは魔法の一切が使えないのだ。
こんなに危険な、しかも土地勘もない場所で、わざわざ人捜しに明け暮れるのは馬鹿のやることだ。
俺もそれを承知しているから、今の内にミズヤウチには包み隠さず話しておこうと思ったのだ。
しかし俺の予想――もとい希望とは異なり、ミズヤウチは目を見開き、それからぎゅっ、と両手で俺の服の裾を握りしめた。
あんな巨大な大鎌を軽々と振っていたのが嘘のように小さな手だ。俺はしばらくその手を呆けたように見つめて、それから顔を上げた。
怒ったように、眉がつり上がっている。ミズヤウチの表情は、快諾を示すそれではなかった。
「……え、嫌?」
うんうん、と肯定される。
俺は呆気にとられつつも、回らない頭で考える。
残ってくれ、という言葉に「嫌」と反応されたということは、つまり……
「……じゃあ、そのときは俺と一緒に来てくれる?」
自分でも何故だか、言語化できないけれど。
喉元から飛び出してきたのはまるで、ミズヤウチの覚悟を試すような質の悪い言葉だった。
それなのにミズヤウチはなぜだか満足げに目元を綻ばせて、見せつけるように大きく頷いてみせたのだった。




