99.初めてのおんぶ
――ゴホゴホッ! ゴフンッ! とわりと悲惨な噎せ方をしたホガミは、涙目でエルフの女性を鋭く睨みつけた。
「な・ん・で、そんな、大事なことを――今、言うのよっ!? おかげで恥掻いちゃったじゃない! サイアクなんだけどっ! もーほんとバカみたい……ッ人がせっかく――っ」
ギャアギャア騒ぐホガミの声はとにかく無駄にデカくて、彼女の手綱を握っている鎧騎士二人もうんざりした様子で引き下がっている。女性に至っては、ピクピクと口の端が痙攣しているくらいだ。
木々に留まっていた小鳥たちも慌てふためいて飛んでいってしまった。残念なことに、この森を包んでいた麗かな歌声によるBGMはすっかり過ぎ去ってしまったようだ。
そしてホガミが騒ぎ立てるのを尻目に、俺もこっそり詠唱を試してみた。
「大地よ、厳の加護にて我が身を覆え。《土人形》」
……あ、本当だ。
いつもなら、詠唱の途中で身体の奥に魔力の渦のようなものがわき起こって、小さな光の粒が少しずつ視認できるようになっていくのに。
今は何の反応もない。魔法の効果も、いつまで経っても具現化されないままだ。
この場所――恐らくエルフの国土と思われる――では、普段のように魔法が使えないのだ。
まずい、と改めて思う。エルフだけじゃなく、ここには他の敵性生物も居るかもしれないのに、魔法に頼れないというのは大きすぎるデメリットだ。
それに純粋な身体能力だけでいえば、ハルトラはともかくコナツやユキノ、アサクラも、そう優れているとは言えない。
今このときだって、彼女たちが敵に襲われでもしていたらと想像するだけで恐ろしい。
「これで理解しただろう。貴様らの魔法とやらは使えん。時間が惜しい、さっさと我々についてきてもらおうか」
急かされつつ、俺は考える。
今の内に逃げ出して、ユキノたちを探しに行った方がいいだろうか?
だがその考えは数秒後には、俺自身によって否定された。
そもそも俺は、ユキノたちの居場所を把握していない。土地勘もないから、一度森に彷徨い行ったら二度と出てこられないかもしれない。
それにこれは不幸中の幸いというべきなのか、エルフたちの態度は人間を見つけたら即座に斬り殺す、というような容赦のないものではない。
「姫巫女」とやらの元に連れていく気らしいので、その後はどうなるのか分からないが……それならばその場でユキノに合流できる可能性に賭けたほうがよほど現実的な気がする。
それに、この場で背を向けて走り出せない理由はもう一つあった。
切り株の上に力なく座り込んだままのミズヤウチを見下ろす。
今も出血が続いているのか、布で脇腹を押さえたままミズヤウチはぎゅうと口を噛み締めている。
少なくとも俺にとって、ミズヤウチナガレは命の恩人だ。
そんな人間を、置いてはいけない。
「…………分かりました」
俺は重い声で頷いた。
「ミズヤウチも、それでいい?」
訊ねると、ミズヤウチはこくんと首を動かして首肯する。
「立てるか?」
そう聞くと、脇腹を押さえながら立ち上がろうとする。
しかしその途中で、
「~……ッ!」
喉の奥で、苦悶に満ちた呻き声を上げてよろめくのを、俺は慌てて支えた。
傷口が痛むのだろう、ミズヤウチは眉間にぎゅうと皺を寄せている。
発熱しているのか顔も赤く、肌には玉のような汗がべっとりと張りついていた。瞳もひどく潤んでいて辛そうだ。
自分でも不思議と迷いはなかった。
俺は一度ミズヤウチから手を離し、その場にしゃがみ込んだ。
ポカンとしているミズヤウチを振り返って言う。
「俺が背負うよ。だから、ほら」
「……っ」
間髪入れずブンブンブン、と首をすごい勢いで左右に振りたくられる。
ちょっとショック。いや、たぶん遠慮してるだけだろうけど。そう思いたい。
「気にしなくていいって」
俺がそう繰り返すと観念したのか。
やがておずおずと、心底申し訳なさそうな、後ろめたそうな顔でミズヤウチがおぶさってきた。
準備が整ったところで切り株と地面にそれぞれ手をついて、よっこらしょ、と立ち上がる。
俺が立ち上がりきったその瞬間、遠慮がちだった手が焦って首にしがみついてきたのが可愛らしかった。
そういえば、女の子をおんぶするなんて生まれて初めてかもしれない。
ユキノと会ったのは小六の春休みの頃だから、妹だからといっておんぶした経験もないし。
「もういいか? 行くぞ」
「あ、はい。ありがとうございます……」
捕虜扱いを受ける身でお礼を言うのも何か変な感じだったが、待たせたのは事実なのでとりあえず頭を下げた。
背負ったミズヤウチに負担をかけたくなかったので、あくまで首だけを動かしての礼だ。
エルフの女性は俺たちから目線を外すと、前方に広がる森ではなく、その森林に沿った小高い丘陵に足を向けた。
俺は揺らさないよう慎重に、ミズヤウチの太腿の裏に両手をしっかりと回してそれを追う。
感触の意味とか、柔らかさとか温もりとかは、今はあんまり考えないようにしよう。
……それにミズヤウチは、とても軽い。
何度か振り返って確認しないと、ちゃんと背負えているか、そこに彼女が居るのか心配になるほどだった。
「あれ、ちょっと待って。何であたしだけ縛られててあの二人はフリーなワケ?」
「……我々には知性がある。野犬とヤギの扱いには差が出るものだ」
「はぁ? え、なに。意味わかんないんだけど」
前方のホガミたちは何やら会話している様子だ。
それを遮るのは気が引けたが、俺は小走りに足を動かし、彼女たちのすぐ後ろまで追いついてから言った。
「あの――俺はナルミシュウといいます。おんぶしてるのはミズヤウチで、そっちはホガミ。あなたの名前は?」
答えを期待したというよりかは単純に、こちらに警戒心がないことをアピールするために名乗りを挙げる。
コミュニケーションの第一歩は挨拶と自己紹介。それは万国共通と思いたい。
果たして俺の目論見は予想以上にうまく行き、エルフの女性は相変わらずの冷たい目で俺を一睨みしてから、ぼそりと呟くように言った。
「…………リセイナ」
「リセイナ……さん、ですね」
どことなく、コナツが口にしていた「リセイラ」という言葉の響きに似ている。
俺はそれを口にしようとしたが、追及を裂けるようにリセイナさんは歩く速度を速めてしまった。
これ以上の速さではミズヤウチに悪いので、俺はそれにはついていかなかった。結局会話はそこで途切れてしまった。
そのまま数分を無言のまま歩き続ける。
やがて丘陵の緩やかな終わりが見えてくる。
そこを降りた先、目立たない木立の中には馬が三頭、繋がれていた。
一頭は白馬、あとの二頭は焦げ茶色の毛をした毛並みの良い馬だ。
フンフン、と大きな鼻息を立てるその生き物を、俺はまじまじと見つめる。
「……?」
何故かというと、その三頭にはふつうの馬とは異なる特徴があったからだ。
額にツノが生えている。それに足が異様に長く太くて、立派な金色の鬣をしていた。
「一角獣……?」
ファンタジーの世界でたびたび目にするその名を呼ぶ。
ユニコーンたちは俺に見向きもせず、むしゃむしゃと足元の草を食べていた。
異世界に来てからそう驚くこともなくなったかと思いきや、まだまだこの世界には俺の知らないものが溢れているらしい。
「フィン、先に帰り長老に奴らのことを報告しておいてくれ」
「承知しました、リセイナ様」
リセイナさんの傍らに立っていた、背の低い方の騎士が敬礼を取って頷く。
その声を聞いて俺はようやく気がついた。この鎧の中身は女性だ。
フィン、と呼ばれたその人は、右側の焦げ茶のユニコーンに跨がると、他の二頭を誘導しながら颯爽と駆け出していってしまった。
俺はその様子を見ていて、思わず訊いていた。
「もしかしてリセイナさんは、俺たちがここに来るのを知ってたんですか?」
その問いに関する答えはなかったが。
+ + +
村に辿り着くまでの道中、暇だったので、俺はいろいろとミズヤウチに話しかけてみた。
基本的にリセイナさんたちは無言だったので、沈黙が重苦しかったというのも理由である。
そしてこの時間は、誰よりも喋らないはずのミズヤウチの回答パターンが、実はけっこう豊富だというのを知る大きな機会でもあった。
「一回、持ち上げ直しても平気?」
迷わずこくり、としっかりとした頷きが返ってくる。
「さっきは足手まといなんて言って悪かった。本心じゃないんだ」
少し考えた後に、ふるふると首を横に振る。
「助けてくれてありがとう。ミズヤウチは強いんだな」
うーん? と首を左右に傾けて、やはりうーん……と考え込むように手の先がちょいちょいと動く。
「その口元のマフラー暑くない? 何なら取ろうか?」
次はハッキリと首を横に振る。そこは譲れないらしい。
「傷、痛むか?」
若干の逡巡を見せた後、こく……と控えめに頷く、など。
喋らないけれど、その仕草によって精一杯、自分の感情を伝えようとしてくれているのが俺にも分かる。
自分ばかりが口を開いているのに、何だかそんな遣り取りが新鮮で、少しばかり楽しかった。
最初、フィアトム城で顔を合わせたときには遠くからギロリと睨まれ続けていたので話しかけにくい印象だったのだが、あれは俺の誤解だったのだろう。
ミズヤウチは人の話を聞くとき、じっと相手のことを見つめる癖があるようだ。だから真剣になればなるほど目つきが鋭く、睨んでいるように見える。でもそういうものだと理解できれば、たまに振り仰いで視線を合わせるのも決して億劫ではなかった。
彼女の瞳は思いがけず雄弁だ。「はい/いいえ」で済むような単純な意思疎通しか叶わなくても、その意味するところは明確に伝わってくる。
それに触れ合っている身体を通してか、俺たちはスムーズに会話ができている。
「そういえばミズヤウチ、あの大鎌はどうしたんだ?」
「…………」
ミズヤウチは俺の首の前で組んでいた片方の手を、俺の目の前で緩く振ってみせる。
ん? と目を向けてみると、右手の小指に小さな指輪が嵌まっている。
どこかで見覚えのある輝きだ。……あ、もしかして……
「あの鎌、もしかして魔法銃――」
いや、鎌なんだから銃ではないな。魔法鎌でいいのか?
どんな単語が相応しいのか分からず、俺はぼそぼそと発言を誤魔化した。
「……みたいなものなの? 知り合いが持ってるの、見たことがあるんだけど」
シュトルで出会った少女。
エリィことエリーチェ・ハヴァスが持っていたのが、普段は指輪の形に擬態する魔法銃だった。
うん、うん、とミズヤウチが首を正解の形に動かす。
エリィの銃は水が銃の形を象ったような代物だったが、ミズヤウチの持っていた鎌は完全な実体のように見えた。魔法で造られる武器にもいろんな種類があるのだろうか。
「結構高いって聞いたけど、何コールくらいなんだ?」
ミズヤウチがせっせと両手を動かす。
左手が「1」を人差し指で表す。それから右手が「0」の数を指折り数えて、1、10、100……
「……えっ、100000コールもするの!? それじゃ簡単には買えないな……」
脱帽していると、心なしか得意げにミズヤウチの両手がぱたぱたしている。
服装もしっかりと全身の色合いを合わせてコーディネートを整えているし、俺が思う以上にセレブなんだろうか。羨ましい限りだ。
「さっきっから何よ、デカい独り言ばっかり」
そんな風に会話を続けていたら、ホガミが立ち止まって文句をぶつけてきた。
あからさまにリセイナさんが顔を顰めているが、それには気づかない振りをするつもりのようだ。
「独り言じゃない。ミズヤウチと話してる」
俺が答えると、「ハァ?」とホガミはジト目になった。
「その子、フカタニたちを殺してから喋れなくなったっぽいでしょ。どうやって話すのよ」
遠慮のない物言いでホガミが言うと、ミズヤウチはそっと顔を俯けてしまった。
その話が気にならないわけじゃなかったが、ミズヤウチは明らかに拒絶している様子だ。
少しあからさまかもしれなかったが、話題を替えることにする。
「……そういえば、ホガミ。「血蝶病じゃない」とか言ってたけど、あれはどういう意味だ?」
「そのまんまの意味よ。あたしは血蝶病じゃないの、最初から」
さっさと歩き出すホガミに、手綱を握る騎士が慌てている。
リセイナさんは既に立ち止まるのをやめて歩いていたが、ホガミの歩く速度は速く、すぐさまそれを追い抜きそうな勢いだ。
「お前はマエノたちにずっと協力してたはずだ。あのザウハク洞窟でも俺はお前を見てる。今さらそんな嘘を吐く必要は――」
「嘘なんかじゃない」
ホガミの語調は、激しいわけではなかったが頑なだった。
俺はそんな物言いに戸惑ってしまう。血蝶病を否定し俺たちに取り入るつもりなら、もっとうまいやり方がいくらでもあるだろうし、それにあのホガミが今さらそんな選択肢を取るのだろうかという疑問もあった。
そんな風に迷う俺を見透かしたようなタイミングで、ホガミが言い放つ。
「なんなら、脱がせて確かめてみる?」
「……は?」
「あたしの服。脱がせて、隅々までチェックしたらどう? そしたら痣があるかどうか分かるわよ」
よく似たような遣り取りを誰かとしたような。
しかし現状は、そのときの雰囲気とはだいぶ違う。
後ろ手に拘束されながらも、ホガミは挑発するようにその場に屈み込むようなポーズを取ったからだ。
意図せず、短いスカートの中身がちらりと目に入る。
ほんの一瞬のことだったので、目を背ける時間さえなかった。それ故にばっちりと、その白い布地は俺の脳裏に刻まれてしまった。
「えっと」
もちろん、やったーなどと手放しで喜ぶほどガキではない。
俺はひたすら困惑した。ホガミの行動の理由が掴めないからだ。
そしてさっきからリセイナさんがもの凄い形相で俺のことを見ている。なんかあらぬ誤解を受けている気がするぞ。
「…………遠慮しておく」
「あらそう」
俺が絞り出すような声でそれだけ返すと、ホガミはどうでも良さそうに目線を外す。
俺はすっかり、げんなりとした心持ちだった。遊び心でやっているならいい迷惑だ。
「……あ、」
そこでようやく気がついて、そっと首だけで振り返った。
ミズヤウチが俺の背中ですやすやと眠っていた。
寝ているからか、身体が随分温かい。
そうしていると、軽すぎる彼女の存在がようやく感じ取れるような気がした。




