96.バイバイ
何故アカイがそんなことを口にしたのか。
冷静に考えてみる。だが、答えが見つからない。
俺がもっと早くハラの狙いに気づけていたなら、アカイの負傷は防げていたかもしれない。
だから、アカイからは責められこそすれ、謝られるなどとは想定していなかった。
"咆哮狂迅"化の結果、暴走しかけたことなら、ミズヤウチやアサクラに謝罪すべきかもしれないが、少なくとも俺にはアカイから謝罪を受ける理由はなかった。
俺は戸惑いながら、一度首を左右に振った。
何かしら彼女に断りを入れようと思ったが、そんな中途半端な口の動きはアカイによって遮られる。
「違う。今までのこと」
「え?」
「あの子……コナツ、だったっけ? 言われてずっと考えてた。あたしはあたしなりに」
そこまで彼女が口にしたところで、ようやく思い当たる。
「いじめたほうが悪いね。当たり前だ。あたしこんな性格だから、よくいろんな人と喧嘩になって、そのたび――ママから言い聞かせられてたっけなって、思い出した」
アカイが謝ろうとしているのは――フィアトム城で再会したばかりの頃の、ちょっとした口論の件だ。
あのときは話が飛躍して、俺やユキノがいじめられて当然だと言い張るアカイとの間で少し空気が悪くなっていた。
そんな雰囲気の最中、アカイの言葉を真っ向から否定してのけたのがコナツだ。
コナツが口にした正論に、アカイは顔を真っ赤にして怒っているように見えた。
アサクラが飛び出して止めなければ、あのままコナツの胸倉でも掴んでいてもおかしくなかったと思う。
でも今のアカイは、あのときと同じ怒ったような顔をしつつも、以前の自分とは異なる言葉を、ゆっくりと繰り出している。
もし今も彼女が何かに怒っているなら、それは自分自身に向けた感情なのかもしれない。
全身を覆う火のオーラを一度消し、アカイが言う。
「さっきのナルミくん、すごかったよ。わけわかんない速さで攻撃を捌いて、避けて。……あたしじゃとても、あんな風にはできない」
「アカイ……」
字面と異なり、その言葉は溜息のように吐き出された。
それが、どうにもアカイらしくて、俺は少しだけ微笑んでしまう。
別に彼女は死の間際だからと、突然誰もにとっての善人になったわけではないのだ。
未だにきっと俺のことは気に食わないのだろう。コナツの言い分を認めはしたが、だからといって全部自分が悪い、なんて思考回路にはならない。
ただ、ちょっと言い過ぎたことや、本心でなかった部分を一応、謝ってみただけなのだ。
きっと最初から不器用だっただけで、誤解されやすかっただけで、本来、赤井夢子という少女はそんな人だったのだろう、と思う。
気恥ずかしそうに頬を掻いたアカイが、ぽつりと呟く。
「コナツにも謝っといてよ。怒らせてごめんねって。……今さらなんだけどさ」
「……分かった。必ず伝えるよ」
だから、今さらだとは俺は思わなかった。
そう返すと、アカイは少しだけ安心したような顔をした。
それからパン、と音を立てて手を叩くと、
「――はい、それじゃ、これであたしの言い残したことは終わり」
と、俺と、黙ったままのアサクラに向けて強気な声で言い切った。
「またさっきの髪の毛オバケみたいなやつ、攻撃してくるでしょ。その前にあなたたちは扉をくぐってよ。もうそれ、ちょっと消えかけてるし」
アカイの指摘した通りだった。
コナツの召喚した巨大な扉の、その輪郭が薄ぼやけつつある。
喚び出してからの時間制限か、あるいは通れる人数に制限があるのかも知れない。
放っておいたらこのまま消滅するのは、見た限り間違いないようだった。そうなれば他にここから脱出する手段は永遠に消失するだろう。
「まぁ見ての通りちょっとヤバい感じだけど、それでもその扉が消えるまでくらいなら保つと思うし。最後くらい少しは役に立たせてよ」
そんな気丈なアカイの言葉に、俺は――頷いた。
アカイの覚悟を無駄にしたくはなかったからだ。
「行こう、アサクラ」
「嫌だ」
だが同時に、アサクラがそう拒絶するのも分かりきっていた。
アカイが呆れたような顔を作る。俯いたアサクラの肩を比較的乱暴につついて、尖った声で注意する。
「あのさぁ、アサクラ。いい加減しつこいから。あたしが心配なのは分かるけど、空気は読んでよ?」
お前が言うか、みたいなことを堂々と口にするアカイにも、「嫌だ」とアサクラは言う。
アカイはあからさまに溜息を吐いて、さらにそんなアサクラに厳しい言葉をぶつけようとしたらしい。
でもその直前にアサクラは顔を上げた。
今すぐにでも泣き出しそうなほど歪んだ表情だ。それでも、瞳には強い決意が湛えられている。
自らのすぐ近くにあるアカイの右手を、アサクラはぎゅうと掴んで叫んだ。
「おれだって分かってるよッ! でも――惚れた女は置いてけないだろ!」
アカイの表情が固まった。
千切れそうな叫び声は続く。
「ハイそうですかって納得して、バイバイって手振って、別れられるかよ! んなの――無理に決まってんだろ!!
ずっと一緒だったんだぞ。ずっと一緒に毎日笑ってたんだぞ。それなのにこんな所で、たったひとりで、死なせられるわけねーだろ……ッ!」
はあ、はあ、と肩で息をして、アサクラは「ちくしょう……」とやるせなさそうに目を強く閉じる。
その痛々しい叫び声を聞いて、アカイは、ただぼんやりとしていた。
視線が鈍く、アサクラ本人から、握られた自身の手に移っていく。
やがてアカイは小さな、消え入りそうな声で言った。
「……あの魔法、使ってよ」
「え?」
「さっきのセリフにさ」
アサクラはしばらく呆然としていた。
しかし、その言葉の意味に思い当たって、わなわなと唇を震わせて怒鳴る。
「……なんだよ。なんだよ、おまえ、だって、おれのことフッたくせに! アカイはコウスケのことが――」
「そうだよ! あたし、アラタのことが好き。でも……あんな格好良いこと言われたの初めてだったから」
数秒の間を置いて。
それからアカイは掠れた声でこう続けた。
「ねぇ、魔法使ってくれたら、あたしと一緒に死ぬ権利をあげる」
「…………ッ」
アサクラはまた、何か言いたげに口を大きく開きかけたが――少しずつ力が抜けていったように、何も言わずにそれを閉じた。
もう、そうする他はなかったのだろう。
アサクラは名残惜しそうにアカイから手を離すと、自分の服の裾を思いきり引き千切った。
「《時間針》」
注視しなければ分からないほど。
生み出された、ごく僅かに光り輝く小さな針をその布きれに刺すと、アカイに向かって突き出すようにする。
アカイはにっこりと、屈託ない可愛らしい微笑みを浮かべる。
「ありがとう」
ぼろぼろに焼け焦げた手が、その布きれを確かに受け取る。
それと同時に。
「…………………………ごめんね、アサクラ」
アカイはアサクラの肩を力任せに突き飛ばした。
その先にあるのは扉だ。
未だ開け放たれたままの扉の中に、アサクラの姿が吸い込まれていく。
信じられない、という顔をして、アサクラは目を見開いて最後までアカイを見つめていた。
「なんで――」
懸命に伸ばされた手すら、アカイは容赦なく引っぱたいて拒絶する。
そのまま闇の中に、アサクラの姿は消えて見えなくなった。
『――シャシャシャッ!』
唐突に、笑い声が響き渡った。
「《炎属性強化》ッッ!」
アカイが叫ぶ。
属性付与の魔法が、アカイの全身を再び爆発的な火のオーラに包み隠していく。
あまりの熱量に、近くに立っていることすらままならず俺は後ろに下がるしかなかった。
向かってくる。
刃物の切っ先と呼んで差し支えない髪の束たちを、その炎が触れた途端に燃やし尽くす。
全身が燃えているアカイには、あのバケモノの伸ばす髪の毛さえも傷を負わせられないのだ。
……いや、正確には違う。アカイは今、自分の命さえ燃やし尽くす勢いで戦っているのだ。
だから誰も彼女を傷つけられない。
「行って」
真っ赤に燃え上がりながら、死にかけの少女が言う。
鋭く、けれど、ほんの僅かな温かみのある声音で。
「アサクラ、ああ見えて意外と根性あるからさ。気が向いたら仲良くしてやってよ」
「アカイ……」
「じゃあね、バイバイ」
どう答えるのが正解だったのか。
分からなかったから、ただ、頭を下げるしかなかった。
「…………さよなら」
絞り出すように別れを告げて、俺は戦うアカイに背を向けた。
扉に向かって歩き出す。距離にして約一メートルだ。
だが今や扉の輪郭はほとんど透明になって、存在感もほんの微かになっている。消える兆候が増しているのだ。
そして外開きに開かれていた鉄製の扉が、次第に、触れてもいないのに閉じられようと動き出している。
俺は走り出す。
ワラシナは盾代わりに使われて死んだ。
アカイは俺たちを助けるために死地に残る道を選んだ。
ほんの数日前まで、誰が死のうと、本当にどうでも良いと思っていたのに。
それなのに今、この瞬間、俺は――自分が仲間に背を向けて走り出したことさえ、どこか後ろめたく感じている。
そんな俺に残酷な現実を突きつけるようにして、背後から音が聞こえてくる。
雪崩れ込む熱気と、髪が燃える凄まじい臭いと。
それに息を吐く暇もない攻防の間、それは小さな音量だったが、それでも休むことなく耳朶を叩いていた。
……惚れた女は置いてけないだろ。
惚れた女は。置いてけない。惚れた女は……惚れた……置いてけない……置いてけない………………
何度も。
何度も、その声だけが繰り返し再生される。
耳を塞ぎたかった。もうやめてくれと叫びたかった。
だけど、そんなことができるわけがないから、俺はただ、スローモーションに見える世界を必死に駆けることしかできなかった。
そして扉をくぐる、本当に、最後の瞬間。
「………………おいてかないで」
繰り返される少年の叫びに混じって、ほんの小さな、くぐもった少女の泣き声が聞こえたような――そんな気がした。
+ + +
扉を完全にくぐった途端、一斉にすべての音は遮断された。
一瞬か。
あるいは数日、数週間が経過した先か。
やがて、世界が――――――俺に向かって晴れ渡る。
「…………ここは……」
ただ圧倒されて、意味もなく呟く。
その場所が、いっそ恐ろしくなるほど、美しい所だったからだ。
そこは緑が生い茂った自然の楽園だった。
人の手の一切が入っていないのだ。
あくまで純粋に、ただ漠然と、誰の物でもないあるがままの原始的な光景がそこに広がっている。
……どこだろう、ここは。
記憶にある限りの、どこかの場所とは似ているようで根本的なところが異なる。
清涼な風が吹き、汗と埃と血にまみれた身体を包む。
色とりどりの花が咲き誇って、香り豊かに鼻腔を誘う。
小鳥たちの無邪気な鳴き声がそこかしこから聞こえてきて、痛んだ鼓膜を柔らかく潤した。
先ほどまでの戦いが嘘のように、綺麗で、安らかで、楽園のように陽気な森だ。
実際にあれが幻だったのならどんなにか素晴らしかっただろう、とも思う。
しかし俺の夢想はすぐ、当然の形で打ち破られる。
「……ミズヤウチ」
一面に咲いた花々に包まれるようにして。
切り株の上に見知った女の子が座り込んでいた。
脇腹に布を押し当てたミズヤウチが、無言のまま俺を見上げてくる。
一場面だけを切り抜けば、花畑の中に座る少女の姿は童話物語の導入のように美しいものだったろう。
だが、どんなにか幻想的な世界が目の前に広がっていようと、もちろん、ここは先ほどのフィアトム城と地続きの現実なのだ。
でなければ、ミズヤウチの腹部が赤く染まっているはずもないのだから。
現実を受け入れきれない自分の弱さに無性に腹が立ってくる。
俺は溜息混じりに、ミズヤウチに問うた。
「他のみんなは?」
俺が溜息を吐いていたせいで、自分が呆れられたと勘違いしたのかもしれない。
申し訳なさそうな顔をしつつ、ミズヤウチは首を左右に振るばかりだった。
「……そっか」
俺は彼女から視線を外した。
改めて、きょろきょろと、見馴れない景色を見回しながら口を開く。
「ユキノ」
いつもならすぐ、打てば響くような勢いで返事がある。
だが、いつまで待ってもその涼やかな声は聞こえてこない。
「コナツ。ハルトラ? アサクラ……、……」
語尾は少しだけ震えた。
「……………………ユキノ?」
何度もその名を呼んだ。
答える声は、なかった。
第4章「フィアトム城防衛編」は今回で完結です。
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次回から始まる第5章も、引き続きよろしくお願いいたします。




