95.その手は間に合わない
「な――」
速すぎた。
俺は一歩も動けなかった。
狙われたミズヤウチに至っても、ほとんど反応できなかったようだ。
攻撃がヒットしたのを鋭敏に感知したのか、廊下の先から『ギシャシャッ』と笑い声のような不快な音が響いてきた。
遊ばれている。完全に。
あの黒髪のバケモノは本気でやれば俺たちをすぐにでも排除できるのだ。それほどの圧倒的な力の差が、俺にも心底理解できてしまった。
「……っ……」
伸びてきた黒髪がまた戻っていった、その二秒後。
痛みというより戸惑いに満ちた顔で、ミズヤウチが自身の脇腹を抑える。
青系統で固められた動きやすそうな衣装。その爽やかな青色が、赤色と混じって変色していた。
裂けた服の下、明らかに傷は貫通している。
あまりにも出血がひどい。手で上から抑えたくらいでは、だらだらと溢れる血の勢いは止まりそうもない。
悲惨な傷口にアサクラが呻く。
「うわっ、ひでぇ……」
俺もアサクラも、それにミズヤウチに関しても回復魔法の覚えがないのは《分析眼》で確認済だった。
こうなるともう、ミズヤウチを頼ることはできない。この傷ではまともに動くのも難しいはずだ。
俺はできるだけ大声を出すつもりで彼女に向かって言った。
「ミズヤウチ、早く! 扉に行ってくれ」
扉をくぐってさえしまいさえすれば、その先にはコナツが居る。
高度な回復魔法である《大回復》をも習得したコナツなら、ミズヤウチの怪我は治療できるはずだ。
しかし、痛みに顔を顰めつつも、ミズヤウチは困ったような顔を作った。
その場に立ち尽くすばかりで、動き出そうとしないのだ。
言葉はないが何となく、俺たちの心配をしているのだろう、というのはその表情を見ていれば分かった。
大して仲良しでもない俺やアサクラのために、ミズヤウチは負傷を負ってさえこの場に背を向けようとしない。
「俺たちは大丈夫だから!」
まともな説得の言葉が見つからないまま、容赦なく再度の攻撃が放たれた。
「くッ……!」
先ほどと同じく、氷の隙間を器用に伝って伸びてくる黒髪の束を、前に躍り出て短剣で弾く。
とてもじゃないが硬度が凄まじく、切り裂けない。金属を直接素手で殴ったときのような重い感触だった。
弾いて、軌道を変えて、何とか致命傷を防いでいくしかできない。ただ打たれるだけの防戦一方だった。
『ギシャシャシャッ!』
俺の必死の抵抗が面白いのか。
耳障りな笑い声が鳴り、同時に攻撃の手はより苛烈になっていく。
その数は二十本には達していただろうか。
今や氷のオブジェをお構いなしに貫き、破壊しながら、右から左、上から下のあらゆる方向から攻撃の手が伸びてくる。
「――ッッ」
瞬きも。
それに呼吸も、する余裕がなかった。無我夢中で短剣を振りまくるしかできない。
それでも、目でも追えないほどの速度で迫る髪の毛の塊を払いきれずに、肩に熱が溢れる。
眼球のすぐ隣に石つぶてを当てられたような痛みが迸る。
思わず目を瞑りそうになるが、それでも無理やりこじ開けて食らいついていく。
何かひとつでも見誤れば致命傷を負うだろう遣り取りの最中、視界の隅に見覚えのある刃物の影がちらついた。
俺は反射的に叫んでいた。
「やめろ足手まといだ!」
ミズヤウチが息を呑んだ気配が伝わってきた。
大鎌を手に俺に加勢しようとしたのはミズヤウチだったのだ。
その表情までもを振り返って確認する時間などあるわけはない。
が、その後聞こえてきた足音で、ようやくミズヤウチが扉の中に避難したのを俺は知る。
本当はこんなことを言いたかったわけではない。でもこうでも言わなければ、たぶん彼女はいつまでもこの場に留まったはずだ。
そのタイミングでふと、攻撃の手が止んだ。
長距離を伸びきっていた黒髪が、何故か勢いを失い床に落ちると、何かに引っ張られるように床を這いつくばり回収されていく。
俺はそこでようやく、忘れていた瞬きと呼吸とを久方ぶりに行うことができた。
「は、ぁ、はぁ……」
息が上がっている。胸が苦しくて、口を閉じられない。
おまけに動きを止めた途端、全身の汗腺から汗がどっと噴き出してきた。
見れば出血している右肩の他にも、全身に数え切れないほどの細かい傷が増えている。
今はアドレナリンが放出されているおかげか、大して痛みは感じない。だが長引けば確実にこの傷は戦闘に響くだろう。
気を落ち着けるために額の汗を拭い、ほんの数秒間考える。
あのバケモノ――もしかすると攻撃の回数や時間に、何かしらの制限があるんだろうか?
それなら、ひとまずは助かった。今のうちにミズヤウチに引き続いて扉をくぐれば逃走には成功する。
それにユキノの《速度特化》ももってあと数秒というところだ。
いよいよ魔法の効果が切れたら、俺もこのバケモノのスピードには全くついていけなくなる。そうなったらもう終わりだ。
俺は前方から注意を逸らさないまま、低く小声で叫ぶようにして言った。
「アサクラも早く行ってくれ。アカイの件は――」
諦めろ、と言いかける。
寸前で俺はようやく、先ほどから背後のアサクラが黙ったままであったことに気がつき――異変を感じて振り向いた。
「…………アカイ?」
アサクラの隣にその人物は立っていた。
一言で言うなら、あまりに、痛々しい姿だった。
アカイは全身から血を流していた。そして凄まじいのはその傷の状態だ。
マエノによって抉られた首元の傷を始めとして、皮膚に走る細かい傷のすべては、上から火傷によって覆われている。あちこちの皮膚が爛れていて、赤黒く焼け焦げていた。
アカイはやはり、出血を止めるために自分で自分の傷を焼いたのだろう。
その事実を証明するように、彼女の身体は今も燃え上がる炎のオーラによって包まれていた。
属性魔法を自身の身体に付与する代わりに、理性を失った獣と成り果てる。
リミテッドスキル"咆哮狂迅"とは、おそらくはそんな力なのだろう。
傷口を自ら炎で焼いて戦い続けるなど、正気の戦い方じゃない。
少し意地っ張りで口の悪い。だがそこらにいるふつうの女の子でしかなかったアカイを、そんな変わり果てた姿にしてしまったのは、彼女自身のスキルの力なのだ。
「ナルミくんこそさっさと行けば? ここはあたしに任せてさ」
アカイの声だった。
普段よりも少し音量が静かだったが、ここ最近聞いていたものと大きく変わらないつっけんどんとした声音だ。
俺はそのいつも通りの態度に何より驚かされて、何も言葉を返すことができなくなった。
アカイとアサクラの二人は俺が戦っている内に、いくらか言葉を交わしていたらしい。
アサクラは暗い表情で押し黙っていたが、アカイはそんな傍らの友人の顔をちらりと見遣って、面白がるように俺に向かって言う。
「アサクラに聞いた。迷惑かけたみたいだね。でも今は血ぃ流したせいかな、だいぶ頭がクリアになってるから……平気っぽい」
とてもじゃないが、納得できるような言葉ではない。
俺が首を振ると、アカイは「信用ないなぁ」と口を尖らせる。その顔も今や、一部分は見るも無惨に焦げて皮膚の色さえ変わっている。
納得できるはずはなかった。
何故なら、アカイの傷は一つたりとて塞がっていない。それ自体が答えだ。
正確な位置は不明だが、アカイがホール内に居たのならネムノキの回復魔法の範囲内だ。
首の傷を含めた、全身の火傷跡だって、あの絶大な効果を発揮する回復魔法の恩恵があれば時間はかかったろうが回復はしたはずなのだ。俺たちと同じように。
それでもアカイの傷は一つたりとて治った様子がない。
つまり、――致命傷なのだ。
回復魔法は死人には効かない。
それと同様、今まさに死に絶える直前の人間にだって、効果をもたらすことはない。
首の太い血管を切られた時点で、もう、手遅れだったはずだ。
その瞬間を、アカイは傷口を焼くことで強制的に引き延ばしにしているだけだった。
立っているのが、それにこうして意識のある状態で喋っているのさえ、奇跡に等しいことだ。
「だからね、もうあたしを助けようなんて思わないでよ」
俺が気づいたのに、アカイも気づいたのだろう。
何だか気の抜けたような笑顔でアカイがさらりと言う。
「手遅れじゃない人はさっさと逃げて。状況はよくわかんないけど、このドアくぐれば助かるんでしょ?」
「……クソッ」
耐え難くなったのか、アサクラが吐き捨てるように言う。
アカイはそれを無視する。というよりたぶん、アカイは俺と目を合わせながらも、それまでの言葉をアサクラに向けて言っていたのかもしれなかった。
アサクラはただ、アカイを助けたいがために俺についてきた。
戦う力のないアサクラにとって、その道を選んだのは決死の覚悟だっただろう。
それでも、もう、その手がアカイに届くことはない。
アカイ自身がそれを知っていて、アサクラもその事実を痛感して、だから無力さに打ち震えている。
俺はそんな二人に、掛けられる言葉をひとつも思いつかなかった。何を言っても嘘くさくなりそうだったし、本心で自分が何を思っているのかさえ上手く形にはできそうもなかった。
でもそのあとからは、アサクラに向けられた言葉ではなかった。
「……ナルミくん。ごめん」
俺の名を名指しして、それからほんの僅かにアカイが頭を下げたからだ。




