8.冷たい猫
読んでくださりありがとうございます!今回は過去のお話を挟みつつの本編です。
生まれつき、虐められていた。
それに気づいたのは、物心のついた頃――確か三歳くらいの頃。
頭に数針縫った後がある。身体のあちこちにいろんな色の痣がある。そして今も、大きな足が俺の頭を蹴り飛ばしてくる。父親に虐待されているのは、その頃になると十分すぎるほどに理解できた。
雨が降ると身体の節々が痛む。晴れの日だってそうだ。身体には傷だらけで、どこかが治る前にまたどこかを傷つけられる。すると身体の中で、痛まない部分を探すのさえ難しくなってくる。
母はいつも俺を庇ってくれた。だから俺よりも母のほうが父に殴られることは多かった。俺と母は夏も冬も長袖の服を着ていた。
俺が小学校に上がる頃には、父は仕事を辞めていたのだと思う。母の少ない収入と、母方の祖父母の助けで何とか家計は回っていたが、絵に描いたような貧乏ぶりだった。僅かな貯金は父のギャンブル代と酒代につぎ込まれる。もうどうしようもない。
母は仕事に行くときや、泣きながら俺を抱きしめるときや、眠る寸前に――よく、口癖のように唱えた。
「やさしい人になりなさい」
――やさしい人って、つまりはどんな人だろう。
少なくとも父じゃない、と思う。母は優しいけど、俺が小学三年生の頃に、職場の階段から落ちて死んでしまった。数日前から過労で意識が朦朧とした様子だったのだという。でも本当に優しい人だったなら、俺をこんな地獄に置いていかずに一緒に連れていってくれただろう。
じゃあ誰だろう。俺を見てひそひそ話す近所の人。「給食費を払えない貧乏人はセーサイだ」って叩いてくるクラスメイトは?
小学校を卒業してすぐの春休み、父が祥子さんという女の人を連れてきた。母より若いその人は、化粧が濃くてきつめの印象だった。
そして俺のことを疎ましく思っているのはすぐに分かったので、靴下を履いてすぐに部屋を出た。隣の空き地で時間を潰そうと思ったのだ。
そして俺は、ユキノに出会った。
その子は、しゃがみ込む俺をぼぅっと眺めて突っ立っていた。俺は自分からその子に近づいていった。
白いワンピースを着ているのに、大人が被るような地味な色のローキャップで顔を隠している。ちぐはぐな格好だ、と思った。
「こんにちは」
俺が挨拶すると、びくりと剥き出しの肩を震わせたが逃げ出したりはしなかった。
「……こん、にちは」
それからおずおずと、頭を下げてくれる。このあたりでは見かけたことがない子だ。俺は確信を持って問いかけた。
「君は西下雪姫乃ちゃん?」
その子はつばに両手を掛けたまま、ぎこちなく首を傾げた。
「そうです。……あなたは?」
たぶん、俺のことはあまり聞いていないのだろう。
名前を教えてもらっていただけ、まだ俺のほうがマシだったのかもしれない。父親は酔ったついでに独りでに、再婚相手とその連れ子のことを零したという感じだったが。
「俺は、鳴海周。周り……周囲の周の字で、シュウ」
「シュウ、さん……は、ここで何を?」
「えっと……空を見てる。それとたまに地面」
正しくは、空を見るときは雲の流れや、形をよく観察している。
地面を見るときは、植物やアリや、あと転がっている石の大きさとか。近所の庭に生えた桜の木からまばらに花弁も舞ってくる。ちょっと移動するだけで気風が変わるのが、小さな旅行みたいで面白い。
「楽しい?」
「どうだろう。でも落ち着く……かな」
ユキノはキャップを外した。
そのときようやく、帽子をしていたのはざんばら髪を隠すためだったのだと俺は気づいた。
人形みたいに整った生気のない顔が、こてりと右横に傾ぐ。
「私も一緒に見ていいですか?」
変わってる子だな、と思った。そんなことを言う人には今まで一度も会ったことがない。
「いいよ」
その後、T県からS県に引っ越しをして、西下親子と暮らし始めてから俺にも分かったことがある。
実の母親であるサチコさんに、ユキノはよく思われていない。
時折、ひどく甘えるような態度も取るが、ユキノと顔を合わすとしようもないことで怒鳴ったり、叩いたりした。ユキノは何も言わなかったので、母親のことをどう思っていたのかは分からない。
俺の父親も、ユキノにこそ手は上げなかったが、俺への暴力は止めなかった。それなのでサチコさんも真似るように俺を小突いたり蹴ったりした。
それより彼女の場合は言葉の暴力のほうが中心で、お母さんの生命保険金少ないねとか、生まれてこない方がよかったねと話しかけられることが多い。そのたび心を留守にして黙り込んでいたから、俺にとってはまだ気楽だった。
俺とユキノは必然的に家でも学校でも二人でいることが多くなっていった。俺たちは家の外では「双子」ということで通っていたので、自然とそうなっていったのだ。
ユキノは表情がなく言葉少なな子どもだったので、俺はユキノのことを特別好きというわけではなかったが、隣にいてもあまり気にならなかった。俺も余計な気を回さないでいいからだ。
それから一ヶ月が経った頃。中学に入学して間もない日だった。
公園でぼんやり、アリの列を見ているとてくてくユキノが歩いてきた。
ほっそりとした白い両腕が毛玉を抱えている。
「にゃあ」
茶色い毛玉は俺を見るとそう鳴いた。かわいい。子猫だった。
「かわいいね」
俺がそう言うとユキノは口元を僅かに綻ばせた。ブランコ脇のダンボールに入っていたのだという。
しばらく猫を触って遊んだが、日が暮れてもユキノがその場を離れようとしないので、次第に嫌な予感がしてきていた。
「…………この子、飼っちゃだめですか?」
やっぱりだった。俺は心を鬼にして言った。
「うちペット禁止だよ。それに父さんが何て言うか」
しかしユキノは引き下がらなかった。それはいつもぼんやりしているユキノにしては珍しいことで、俺は結局根負けして言った。
「……じゃあ、たまに様子を見に来るだけ。茂みの近くにお皿隠して、ミルクとかかつお節をあげるだけだよ」
それくらいなら大丈夫かな、と軽い気持ちだった。ユキノは予想以上に舞い上がって、今度はこんなことを言い出した。
「この子の名前つけてほしいです」
自分でつければ、と思ったが、ふと頭の中に浮かんだ名前があったので、思わず口にした。
「……ハルトラ」
「ハルトラ? 何で?」
「春に会った茶トラの猫だから」
今まで一度も笑った顔を見せたことのないユキノだったが、そのときばかりは口元をずっと緩ませていた。ユキノは前の学校でいじめられていた。数人の女子に囲まれて髪の毛を無残に切り刻まれてから、彼女はうまく笑うことができなくなった……。
――あ、ほんとうに走馬灯だ、コレ。
「っっぐぷ……」
吐いた大量の血がまたそのまま喉元まで落ちてくるせいで、ひどく噎せ返る。
息がうまくできない。苦しい。腹の中をぐちゃぐちゃに掻き混ぜられている。朧月夜が俺を見下ろしている。
……駄目だ。こんなもの見てたってどうしようもない。過ぎ去った過去の残像なんて、今さら。
今は起き上がらなくちゃいけない。
それなのに、身体が言うことをきかない。俺はまたぼんやりと虚空を見る。
ニャー、と遠くから幻聴の鳴き声がする。
+ + +
ハルトラはすくすくと成長した。
痩せぎすだった身体にも少し肉がついて、走るのも速くなった。
ユキノは学校が終わると一目散に公園に駆けていくので、俺もよく付き合わされた。
学校の帰り、いつものようにユキノと公園に行ったがハルトラはいなかった。
別に珍しいことじゃない。ハルトラだって自分で狩りに行ったり、散歩だってする。ユキノは残念がっていたが俺たちは家に帰ることにした。
振り返ると、ぽっかりと中身のない汚れた皿がぽつんと落ちていて、何となく嫌な感じがした。
「おい、シュウ。腹減ってんだろ、これ食えよ」
次の日の給食の時間だった。
同じクラスのイシジマが、俺の席に何かを投げつけてきた。
キャーッと女子の悲鳴が上がる。嫌そうな顔で席を立ったのも数人。
俺はぼんやりと見下ろした。
見間違うはずはない。
給食のトレイの代わりに机の上に置かれたのはハルトラだった。
ハルトラはガムテープでぐるぐる巻きにされて、頭を割られて死んでいた。脳みそなのか、皮膚下の赤い肉や血管が露出している。
目も口も開けたままだった。眼球と舌べらがありえないほど飛び出ていて、でもひどく乾いていた。
たぶん、餌をちらつかせて、ひっ捕まえたところをガムテープで拘束した。それから嫌がって暴れるハルトラの頭を石をたたきつけて割ったのだろう。その光景も頭に浮かぶようだった。
むわりとむせかえるような血の臭いと、獣の臭いがする。後者は嗅ぎ慣れていたが、血の臭いと混ざると、腹の奥をぐるぐるとかき混ぜられるようで、少しも動けなかった。
「くーえ! くーえ! くーえ! くーえ!」
囃し立てるようにコールするのはイシジマとカワムラ、それにハラだった。
俺は三人に後頭部と身体を抑えつけられた。身体が小さいし力が弱いので、とても敵わない。
机の上に置かれたハルトラの、腹のあたりに俺の唇が当たる。柔らかかったハルトラの毛は、そのときは異様にごわごわとしていた。
また悲鳴が上がる。教室は騒然として、何人かはドアから出て行った。
「きったねえ!」
うげえ、とカワムラが嘔吐のジェスチャーをする。口元に当てた手には包帯が巻かれていた。
ハルトラは、俺より小さな身体で一所懸命に抵抗したんだろう。そう思うと、身体がようやくまともに動くようになった。
ユキノはその場で戻してしまった。俺はユキノの、ほとんど胃液まみれの吐瀉物を片づけてから、ハルトラを抱きしめて学校を出た。
新聞紙とかにくるむべきだったのかもしれないが、どうしても、そうしたくはなかった。生きていたハルトラのことを新聞紙越しに触ったことなんかなかったからだ。
俺はハルトラを抱きかかえて、廊下を歩いた。
汚いものを眺めるように、みんな俺から遠ざかっていく。俺はそのたびにハルトラの冷たくこわばった身体をあやすようにした。
学校や公園に埋めたらまたイシジマたちが掘り返すかもしれない。そうなると場所は限られている。
校門を抜けてから十分ほど経って、俺は河原に着いた。
中学に入ってすぐの頃、クラスメイトとキャッチボールしたことがある。結局それきりだったけれど、夕日が水面に反射するのがきれいで、よく印象に残っている。
草むらの中にあぐらをかいて座り込むと、足の間にそっとハルトラを下ろした。
目蓋は閉じられたけれど、最期の苦痛に歪んだ口元は、うまく動かせなかった。向けられた悪意にあらがうように、声なき声で叫んでいるようにも見えた。
それから時間をかけてテープを少しずつ剥がしていった。
しかしハルトラの固まった身体に巻きついたテープはそう簡単には解けない。むしろ根元から毛も巻き込んで千切れてしまったりして、泣きそうになる。死してなお、俺はハルトラを傷つけている。
そのとき、横合いからハサミが差し出された。
ユキノだった。俺たちは協力して、ハルトラの身体を無茶苦茶に拘束したテープを全て剥がした。
それから、そのあたりに転がっていたシャベルを借りて穴を掘る。なるべく深い穴を掘った。人間にも、野犬にも、ハルトラの眠りを妨げられたくなかったのだ。
痛かったろうな。辛かったろうな。助けてほしかったろうな。
穴を掘りながら自然と涙がこぼれ落ちる。ユキノも隣でひいひい泣いていた。声を上げて泣きたいだろうに、ユキノはずっと泣きながら歯を噛みしめて手伝い続けてくれたのだ。
「助けられなくてごめん。ごめんな」
何度もハルトラを撫でた。ユキノもずっとそうしていた。俺たちの流した涙がハルトラのやせっぱちな身体に当たると、その弾みで毛が動くので、そのたびにもしかしたらハルトラが生き返るかもしれないと思った。
でもハルトラは二度と動かなかった。死んだらもう動かないのだ。当たり前のことだ。死んだ母さんも冷たくて、固くって、どんなに泣いたって一度も俺を抱きしめてはくれなかった。
「兄さん」
ハルトラを埋めて土をかけた後だった。
最初、ユキノが何を言ったのかよくわからなかった。
「兄さん、」
二回呼ばれてようやく、それが自分のことだと気がつく。
「兄さん、私――」
あのときユキノは何て言ったんだっけ。
…………そうだ、たしか、泣きながら――
「――――兄さんッッッ!」
淀んだ闇を切り裂くような、声。
俺を呼ぶ声がした。
霞みがかっていた視界が晴れる。まだ死んでない。
冷たい。でも固くはなっていない。生きている。ちゃんと動ける!
「……っっ、く、う」
自覚すると同時に、ひどく脇腹が熱を持って疼き出した。それに右足。あとはもう何が何だかわからない。
ぶるぶると痙攣する右手で、腰のナイフをできるだけゆっくりと引き抜いていく。文字通り命がけで掴み取ったチャンスは一度きりだ。絶対に悟られてはならない。
「グルルゥ……」
闇を纏った獣の牙が迫る。それからあんぐりと俺の上半身が丸ごと入るくらいの大口が開いた。
仕留めた獲物で遊ぶのは猫の習性の一つ。ハルトラもトンボやバッタを捕まえてよくそうしていた。
獲物が力尽きて動かなくなったときは、捨てるか、食べる。コイツも理屈はほぼ同じだ。
なら、最も隙が大きいのは食事の瞬間。虫の息となった獲物を喰らい尽くす、今そのときだ。
ナイフの柄をぎゅうと握りしめる。
そしてギラギラと脂ぎった牙の群れ、その奥の喉口めがけて、
「…………っう、お、おおおおおッッ!!」
渾身の力を込めて、貫いた。




