旅立ちの日
「用意はいいか?リリィ」
「うん、多分」
まだまだだと思っていた屋敷を出る日は侯爵が送ってくるカードの元ネタをアンと探したり、花が同じものになる日をかけたりしているうちに簡単にやってきてしまった。
ちなみに元ネタを簡単に悟らせるミスは犯さなかったらしく、いまだに何を見てこの言葉を書いていたのかは謎のままだ。
絶対自分で考えてはいないだろうから、何か元になったものはあると思っている。喜ばしい事にアンは向こうまでついてきてくれるから、向こうでゆっくり探そう。
そう思いながら私は今日まで過ごしてきた屋敷を振り返った。
「リリィ、いってらっしゃい。シェレンベルク侯爵の家では元気を出さず頑張るのですよ」
「…お母様、いってきます」
お母様は一緒に向こうへ行かず、領地に残るらしい。だからここでお別れだ。
最後まで小言だなあと思いながら苦笑すると、お母様はふわりと私を抱きしめた。
「お母様?」
「…疲れたのならいつでも戻ってきていいのですよ。
あなたは私の娘なのだから」
うわ、やばい。
まさかそんな事言われるとは思ってなかったから、不意打ちのようなその行動に私の涙腺は危険信号をあげている。
このままではみっともなくわあわあ泣いてしまう。でも感謝の気持ちは伝えたい。
かろうじて後者の気持ちが勝り、私は涙を呑み込みながら口を開いた。
「おかあさま…あ
「おおーい!待たせたかーい!!」
「待ってないよ!!今まさに母子感動の別れの最中だよ!!早いくらいだわ!!」
「リリィ、言葉遣いが悪いですよ」
お母様の涙腺に直撃する会心の言葉を今まさに発しようとした瞬間、それは空気を読まない大声に遮られた。
リリアの主治医のブレージ先生だ。リリアが生きていた頃はずっとリリアに付いて忙しくしていたみたいだが、私がリリアになってからはまったく仕事がなくなり、わからないことを教えてくれる家庭教師のようになってしまっている。
リリアは病弱なのだからいきなり来なくなるわけにはいかないからしょうがないけど、中々名医らしいブレージ先生を拘束しているのは少し悪い気がしていた。
本人は時間が出来たのだから色々研究をと気にしてもなかったみたいだけど。
ただ、今はただの間の悪いおじさんだ。
「いや、出掛けに持って行きたいものがどんどん増えてしまってね。
あれもこれもとやっているうちにかなりの時間が経ってしまったからお姫様がさぞご立腹だろうと急いで来たのだよ」
「たった今立腹しました!」
「おやおや、それは困った。どうしたらお姫様は機嫌を直してくれるかな?」
「その口を閉じてくれれば直します!大体何でブルージ先生が荷物を…」
とそこまで言って気付く。リリアは体が弱いんだから医者も連れずに移動なんて出来るはずない。私には必要なくてもついてきてもらわなきゃ初っ端から嘘がばれてしまう。
迷惑をかける上に横柄な態度をとってしまった事が気まずくなりむにゃむにゃと尻すぼみになった私がおかしかったのか、ブルージ先生は荷物を持ち上げながら笑った。
「忘れ物を取りに2、3日君のそばを離れても君は大丈夫だけど、設定的にはまずいだろう?
せっかく王都にも近くて研究もはかどりそうなんだ。万全の用意をしていきたくてね」
「えっ!?ブルージ先生はお父様と同じで付き添ってくれるだけですよね?」
ブルージ先生はリリアを生まれた頃から付きっ切りで診てくれていたようだけど、元はヴァイスハイト家全体の医師だ。
私についてくるということはこの家から医者がいなくなってしまうという事。
「私を送り届けたらブルージ先生は帰ってください!
最低侯爵だって医者くらい用意してくれるだろうし、ここから医者がいなくなったら領地の人たちだって…」
「その気持ちはわかるけどね、お姫様。見た目はともかくずっと君と一緒にいたら、どんなにやぶ医者でも君は健康だとわかってしまうだろうね」
「ずっとベッドにいるから大丈夫だよ!
どうせ他の人もいるんだもん!今までみたいに動き回ったり出来ないだろうし…」
「いいえ、他の人はいません」
先生一人いたところで、環境は変わらない。元の場所みたいにレントゲンとか精密機械があるわけではないし、大人しくしてればまったくの健康体ってことはバレないだろう。
だから大丈夫と続けようとした言葉を、ぴしゃりとお母様が遮った。
「執事も、コックも、庭師の二人もあなたについていきます」
「は?」
執事も、コックも、庭師もって、それって私の事情を知っていて、ここに常駐している全員の人じゃないか。
「…ちょっと、何言ってるの?
そんなのここに誰もいなくなっちゃうじゃん!じゃあここはどうするの?!」
「ええ、放っておくわけには行きませんので、引き継ぎ次第お嬢様の元へ向かいます」
「アンに日持ちする食べ物を持たせたので、私が来るまではそれで我慢してくださいね」
「庭を走り回って、俺たちが行く前に正体が疑われるなんてことはよしてくださいよ」
「ええ、なるべく早く行きますから、くれぐれも気をつけて」
私はリリアとして結婚する。リリアとして結婚したんだから、ベッドから動けない生活をしなきゃいけない。だけどアンはついてきてくれるから、部屋くらいは歩き回れる。
部屋だけしか、私の自由な場所はなくなる。
そう思っていた。
「だって、皆、私について来たって大変なだけで…そんなの…」
「リリィ」
思ってもいなかったことに上手く言葉が出ない。
支離滅裂なことを言っていると、私の肩にお父様がそっと手を置いた。
「お前が初めてここに来たときにした取引を覚えているか?」
「うん、覚えてるよ」
そんなに覚えるのが難しい取引じゃなかった。
リリアになるかわりにここで面倒を見てもらう。この屋敷の中だったら好きにしてていい。
そんなシンプルで覚えるまでもない取引。
「ここで一生面倒を見ると約束したのに、破ってしまってすまない。
だがもう一つの約束は出来るだけ守らせて欲しい」
「お父様…」
「シェレンベルク様がいらっしゃるときは無理だが、それ以外の時は屋敷の中では自由に過ごしなさい」
「お父様!!お母様!!」
爆発しそうな感情を抑えるように、私は目の前にいるお父様とお母様に抱きついた。
本当に、本当に、本当にもう!!!
別にこうなってしまったのはお父様たちの所為なんかじゃなかったのに。なのにお父様たちは一生懸命、少しでも約束を守ろうと頑張ってくれたんだろう。
…私のために。
「私、落ちたところがここで本当に良かった!本当に本当に良かった!」
「ええ、そうですね」
「私たちもお前がここに来てくれてよかったと、本当に思っているよ」
「お母様、私あっちでもちゃんと頑張ります!すっごい頑張りますからね!!」
「いえ、あなたの場合頑張らず、少し静かにしていなさい」
一度強く抱きついてからそう言うと、お母様は珍しく薄く笑って答えてくれた。
お父様とお母様の優しさに触れて、どんどんまだここにいたいという気持ちが沸いてくる。
だけど逆にあっちに行っても頑張れるという前向きな気持ちも沸いてきていた。
遠く離れても大丈夫。お父様たちはどこにいたって私の事を考えてくれる。
まるで青春漫画のヒーローみたいだと恥ずかしくなったけど、思ってしまうもんはしょうがない。
「いってきます!」
前向きな心を胸に私は今日、ここに来てから初めて屋敷の外へと出た。




