慌ただしい日々
「よーし、アン、何でも言って!私、頑張るよ!!」
「…はあ」
侯爵が結婚の書面をもうすぐ出しに行くと言いだした次の日、私はやる気満々でアンと向かい合っていた。
本当は本を読みたい気持ちはあるけどね、だけどやっぱりこっちが先だ。
今回は先延ばしにせずにちゃんと令嬢の礼儀を習うよ。もう学習能力がないなんて言わせない!いや、誰にも言われてないんだけどね。
「じゃあまずは何からやる!?バケツ持ちながらお辞儀の練習でもする?」
「そうですね、ではお願いします」
「…………」
やっぱりお辞儀の練習と言ったらバケツが定番だよね?
テンションの低いアンをちょっとでも盛り上げてあげようと軽口のつもりでそう言うと、アンは冷めた顔で同意して来た。
その顔には言ったからにはちゃんとやれよと書いてある。
ぐっと一瞬詰まったけど、言ったからには責任を持つよ!それに重りをつけての練習って何か聞きそうだし。
「…っわかった!!よっしゃレオン、水入れたバケツ三つ持ってきて!」
「はーい、…三つ?何で三つ?」
「え?ほら、両手と頭の上に乗せるんだよ。定番でしょ?」
「そんな定番聞いた事ないです」
鬼特訓ではやっぱり両手だけじゃなくて頭の上にも乗せるよね?バケツ。
だけどアンやレオンにはピンと来ないらしく、首を傾げている。
「定番かどうかはともかく、お嬢様は意外とバランス感覚がいいんですね。
バケツを乗せながらお辞儀って中々出来ませんよ」
「………」
そんな無駄な事を言い合っていると、妙に感心した顔のベルトルトがぶっこんできた。
頭にバケツは…多分乗せれない。
というか、私が本当にそんな事すると思ったわけ?出来ると思ったわけ?
え?ちょっと冗談だよね?と言う顔でアンを見ると、アンも気まずそうな顔でこちらを見ている。
たまにレオンより天然になるから困るよ、ベルトルトって。
「あっははは!冗談に決まってんじゃん、ベット!お嬢様に騙されてやんのー」
「………っ!」
「ちょっ!そういう言い方やめてよ!っていうかベルトルトもそんなに睨まないで」
そうは思いつつもアンも私もベルトルトに何も言えず黙っていると、幼馴染の気安さからなのかレオンが大笑いをしながら突っ込んだ。
それはもう、遠慮も何もない爆笑具合だ。
でもそんな失礼な事をしてるのはレオンだからね?何でベルトルトは私をそんなに睨むの!
「…冗談も空気も読めず、申し訳ありませんね、お嬢様」
「さすがにお嬢様を責めるのは可哀想じゃありません?」
「そうだよー。それにベルトが冗談も空気も読めないのはいつもの事じゃん?」
「そんな事より!!バケツだよ、バケツ!」
ちょっと黙っててよ、レオン!
ますます火に油を注ぐようなレオンの言葉に、私はイライラしながら話を逸らしにかかる。
幸いアンも私に同情してくれたのか、私の雑な話の逸らし方に乗って来てくれた。
「いえ、バケツはいりませんよ。大体バケツなんて持ってたら指先の形が覚えられませんし」
「ゆびさきのかたち…」
…話はそれた気がするけど、何かちょっと幸先不安な言葉が聞こえた。
アンの言い方は指先まで気持ちを入れてとかそんな精神論みたいな言い方じゃなかった。という事はきっと本当に指先までしなきゃいけない形があるんだ…。
そう思うと改めてげんなりとしてくるけど、そうも言っていられない。侯爵は少し遅れるかもと言ってたけど、そう遠くない未来に国王と会わなきゃいけないのは確かなんだから。
「まあ、うん。頑張る。アン、よろしくね」
「はい」
軽く頭を下げると、アンは「こちらこそ」と言って綺麗なお辞儀をしてくれた。ふわりと手を開いて、すっと頭を下げる。
擬音ばっかでわかりにくいかもしれないけど、本当のお嬢様みたいな優雅な仕草だった。
「すごいすごい!アン、本当のお嬢様みたいだね」
「お嬢様はあなたです。これが令嬢のお辞儀の仕方ですから、まずはこの形を覚えましょう」
「はーい」
これはちょっと覚えてもいい気がしてきたよ。
何かこのお辞儀を覚えたら女子力が跳ね上がりそうな気がするし。普段女子力なんてまったく気にしてないけど、上げれるんなら上げたいのが本音だ。
おっしゃ、本気で覚えてやると気合を入れて、私はとりあえずアンを真似て頭を下げてみた。
「いだだだだだ!!アン痛いってば!」
「指の形が変です。何でそんなつってしまったような形になってるんですか?」
「いたーい!!変な方向に指引っ張らないでってば!ホントにつるから!」
令嬢のお辞儀が難しそうと言っても、私が元いたところはよく頭を下げるところだった。
授業が始まる前とか後とか頭を下げるし、入学式とか卒業式では頭を下げる角度とかそんなところまで先生に難癖つけられつつ揃えていた。
だからいくら複雑な形だっていっても、そんなに苦も無く覚えられるかなとか思ってた。
でも今はそんなに甘く考えてた自分に腹を立てたい気分だよ。
「ア、アン、間接って知ってる?指とか膝とかさ、こういうところは曲がる方向が決まってるんだよ?」
「はあ、ですが伸ばしながらこちらへ反らす事は出来ますよ」
「いたたたた、だからそっちには曲がらないんだってば!!」
「曲げろとは言ってません。反らしてください」
「指がつるー!!!」
ぐいぐいと曲がる方向じゃない方向へ指を曲げようとするアンは無表情で、これは本気で暴れなければぽっきりと折られるんじゃないかという気分にさせられる。
折れちゃったら書面を出しに行けなくなっちゃうからね?絶対折らないでね?!
「これくらいじゃ指は折れませんよ。悪くて筋を違えるくらいじゃないですか?」
「それも嫌だから!お願いだからもっと痛めつけな系で教えてよ」
「でしたら言われた事をしっかりとやってください」
「うう…こんなに大変なら女子力なんていらないよ…」
ただこれは女子力の為にやってるんじゃなくて、国王に失礼のないようにやっている事だ。やーめたと言って辞めれるものじゃない。
だからアンに逆らう訳にもいかず、朝ごはんを食べてから昼ごはんが出来るまで、私はひたすらいろんなところをぐいぐいとアンに曲げられ続けた。
「…よっ!」
「…まあ、ぎりぎり及第点ってところですね。その変な掛け声は絶対にしないで下さい」
「うわーん、やったぁ!!」
「よかったですね、お嬢様」
「うん。でもまだ頭を下げるとこにさえ言ってないけどね」
「午後もありますし、中々上手く行ってると思います。では昼食にしましょうか」
「…うん、そうだね」
このペースで中々上手く行ってるんだ…。
腕を品よく広げたり、指先まで気合を入れて動くって事はやった事なかったから、このペースはちょっと遅いんだと思ってたけど、アンが言うにはいいペースだったらしい。
という事はこれは頭下げるのは慣れてるからと舐めてかかったら痛い目を見るな、うん。
その予想通り、午後からもアンの鬼教官ぶりは変わらず、私はひいひい言いながら何とか令嬢のお辞儀を覚えられるよう頑張ったのだった。
「はい、今日はこのくらいにしましょうか」
「あああ、足が死ぬー」
「お嬢様、みっともないので座るんなら椅子にして下さい」
「だって足が棒みたいになってるんだもん」
夕方になってやっとアンの合格が出ると、私はその場にへたり込んでしまった。
すぐそこに椅子があるのはわかるけどね?そこまで歩くのさえ億劫なんだもん。もしもここにレオンたちがいなかったら、スカートを捲りあげて足を揉んでるくらい痛いよ。
床はいつしてるのかわからないけどアンやクリストフがいつもきれいにしててくれるから、座り込むのに抵抗はないしね。
でもそんなだらけた態度の私に、アンは絶対零度の視線を向けてきた。
「令嬢らしい振る舞いというのは、普段の態度が出てしまうものです。
少しなら構いませんが、あまり品のない行動をとるようならそちらも直して行かなければなりませんね」
「…あははは、ちょっと品がなさ過ぎたね。気をつけます」
本気で普段からガミガミ言いそうなアンの空気に、私は慌てて近くに寄って来ていたベルトルトを杖にして椅子へと腰掛けなおす。
スイッチの入ったアンってマジで怖いんだもん。それが毎日になるなんて御免だ。
「はー、でもホントに疲れたなー。令嬢って意外と体力あるんだね」
「お嬢様は体中に力を入れ過ぎです。慣れれば力を抜いても出来るようになりますよ」
「そういうもん?」
「はい。形は何とか様になりましたから、明日から反復練習をして体に馴染ませていきましょう」
「ううう、明日は絶対筋肉痛になってると思うんだけどな」
「では着替えましょうか」
控えめに明日は軽くねと主張してみたが、アンは完璧にスルーしてきた。
この分だと明日も軽くないしごきが待っているんだろう。しょうがないんだけど嫌になる。
でもせめて今はもう少しこのままだらだらしていたい。そう思って私は駄々をこねるように椅子の背もたれに抱きついた。
「明日からは頑張るけど、今日はもうちょっとこのままでいさせてー」
「そういう訳にはいきません。もう少ししたら旦那様が帰って来てしまいます」
「は?侯爵が?何で?」
てっきり今日は一人で食事だと思ってた私は、アンの言葉にびっくりして勢いよく顔を上げてしまった。
その動きに背中が鈍く痛んで後悔したけど、そんな事よりも侯爵だ。
昨日も一昨日も帰ってきたんだから今日は帰って来ないと当たり前の様に思っていたのに。
「何で、と言われましても、そう連絡があったのでとしか…」
「そっかぁ…。今日は一人で食べたかったな」
「…本気…で言ってますね」
「?本気だけど…。帰って来るならしょうがないね。アン、着替えよう」
「はい」
アンの言ってる意味は分からなかったけど、侯爵が帰って来るなら着替えなければ。
本当なら腕痛いー、足痛いーとかアンに愚痴りながら食べたかったけど、そんな事言っても意味ない。
身体が痛いからゆっくりと立ち上がると、アンは釈然としない顔をしないながらもついて来た。
「お嬢様、旦那様と上手く行ってるんじゃなかったんですか?」
「ええ?!私そんな事言ったっけ?」
「言ってはいませんけど…。カードもらって喜んだり、思ってたより人間っぽいとか言ってたじゃないですか」
「そんな嫌いじゃないから好きとか小学生みたいな事言いださないでよ」
「しょうがくせい?」
「いやいや、こっちの話。嫌な人とは思わなくなったけど、好きかと聞かれたらよくわからないよ」
ちょっと抜けてたり、焦ったところを見て親近感が沸いたけど、ただそれだけだ。
政略結婚だからって冷たく当たったり、無視される事とかはないからそこはよかったと思うけど。
ああ、でも結婚相手が侯爵じゃなかったら国王に会わなくてもよくて、こんな筋肉痛になる事もなかったか。だったらやっぱり違う方がよかったかも。
「でも考えたって変えられるわけでもないしね。私はここで侯爵と上手くやりながらリリアを続けるよ」
「…そうですね。何かすみません」
「いや、全然」
本当に上手く行ってるかはともかく、絶対上手く行かないって思ってたのが、上手くやっていけたらいいなという風に変わって来てはいる。
今だって急に帰って来るって聞いても嬉しくはないけど気が重くなったりはしなくなったし。それだけで十分いい方向に向かってると思う。
そんな事を考えながら着替え終わり、一息つこうと思った途端、外から侯爵が帰ってきたという声が掛かった。
「うわ、ギリギリだったね。セーフセーフ」
「…お嬢様、口調に気をつけて下さい」
「わかってるよ。行きましょう」
今日ばかりはリリアの振りが有り難い。
あー、足痛いと思いながらのろのろ歩いてもリリアなら変じゃないからね。
「お帰りなさいませ、旦那様」
「ああ、ただいま。リリア、これを」
「ありがとうございます」
いつも通り上着をクリストフへ渡している侯爵の前に立ち、いつも通りの会話を交わす。
今日は挨拶をしてすぐに花束をくれたし、カードもいつも通り刺さっていた。
“君は太陽のようにまぶしい”
「…………」
今日は面白くないな。
最近はいいなと思うカードばっかりだったせいか、いつも通りのくさい台詞のカードにそんな事を思う。
大体こういう台詞は色白で金髪の美人さんに似合う言葉でしょ。
小さくてこんな髪も真黒な私に合う言葉ではない。
「今日の体調はどうだった?」
「はい、よかったです。あ、旦那様」
ぼーっとしてたから一瞬反応が遅れたけど、体の事を聞かれて今日の特訓の事を思い出した私は、アンにそそくさと花束を渡して改めて侯爵の目の前に立った。
そして渾身の気合を込めて令嬢のお辞儀をする。
「…どうですか?」
頭を上げてドヤァと侯爵見たい気持ちを抑えながら尋ねる。
アンが言うにはぎこちないけど形は出来てるだった。習って1日でその判断なら中々いいんじゃない?
「ああ、上手に出来ている。今日練習したのか?」
「はい。私の体調と相談しながら、ですが」
リリアのじゃなく私のね。私の体調とだから朝から夕方までびっちりとしましたとも。
「そうか。これなら予定通り3日後に届を出しに行っても大丈夫だな」
「……3日後…ですか?」
「ああ、手が空いてからと思ってたのだが、当分手が空くことなどないだろうから、予定通りの日にすることになったんだ」
なったんだ、じゃないよ!遅れるって言ってたから何となく一週間かそのくらい後になると予想してたのに。
もういっそのこと当分手が空かないのなら結婚も当分先に伸ばしちゃえ。
そう言いたかったけど、予定は確かに3日後だったのだ。…私は忘れてたけど。
だからこれは予定通りなんだ。
「リリア、それさえ出来れば後は俺に合わせていれば何とかなる。わからない事があったら俺を見てくれれば何とかするから」
「…はい。迷惑を掛けますが、よろしくお願いします」
「ああ。では、夕食にしよう」
「はい」
本当に頼むよー!と侯爵を揺さぶりたい気持ちはあるけど、ここは侯爵を信じるしかない。
いきなり近くなった結婚の日に焦りながら、アンに出来るだけ貴族の礼儀を教えてもらって詰め込んでいく。
そんな慌ただしい日々を過ごしていたら、すぐに結婚の日はやって来てしまった。




