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失態と妥協(侯爵視点)

「それではそろそろ失礼する」

「うえ?何で?」

「帰るからに決まってるだろう」


そう言って帰り支度を始めると、心底驚いたようにアルが顔を上げた。そして持っているペンを手の中で器用に回す。

インクが飛ぶからやめろとさんざん言っているのだが、今のところやめる気はないらしい。


「だって昨日帰ったじゃん。普通だったら後2、3日帰らないだろう?」

「その前1週間も帰ってなかったからな。屋敷でする書類が溜まっているんだ」

「急ぎじゃないからいいじゃん」

「…そうだが早々に終わらせるに越した事はないだろう」


何故そんなに帰らせなくないのだと言いたいが、そんな事を言ったら最後、何故そんなに帰りたいんだやら、どういう心境の変化なんだやら、矢継ぎ早に質問が飛んでくるのは目に見えている。

ここは言葉少なに退散するに限ると手早く帰る準備を整えていると、驚いた顔を一転させ、今度はニヤついた顔を張り付けた。


「…何を笑っている?」

「いやいや、別に。もう少しでお前の婚約者とも会えるし?どんなもんかなって楽しみなだけだよ」

「………」

「別にお人形さんの体調もあるだろうし、俺たちの予定もあるから多少前後してもいいけど、ちゃんと俺とも顔合わせさせろよ?

 お前は俺の大切な右腕なんだし?直々に祝辞を述べてやるよ。お、れ、が」


さも偉そうに言うが、俺はお前の祝辞なんていらない。

…まあそう言ってもこれだけ目を掛けられた立場にいる俺の結婚に王であるアルが出てこなければ面倒な事になるから、じゃあ顔合わせしないと言われたらそれはそれで困るのだが。


「…リリアの体調は悪くないように見えるから、俺とアルの手の空きそうな日でいいだろう」

「そうだなあ、手が空く事はないだろうけど、無理矢理でも空けなきゃな」

「すまない」

「そこは謝るところじゃないだろ?」

「わかった」

「そこはお礼を言うところだ」

「要望が多い」


そう言うとアルは吹き出すように笑って、また手の中でペンを回す。

そして少し表情を引き締めた。


「まあ当日は勝手にお前と令嬢を祝いたい奴らが集まるだろうから、倒れないように注意しとけよ?」

「…そんな輩はお前が蹴散らしておいてくれるとありがたいのだが」

「ムリムリ。ベアの事もしっかりと気を付けておけよ」

「自分の妹くらい責任を持ってくれ」

「ムリムリ。親父が生きてる内にさっさとどっかにやっておいて欲しかったくらいだもん」

「…その言いぐさはどうかと…」

「だってマジで俺の妹って信じたくないくらい意味わからんもん、アイツ。

 アイツお前と結婚する気でいるんだぜ?自分をお前に嫁がせればお前の信用も上がるって言ってやがる。

 もうお前の信用なんてこれ以上上がんなくていいよ~。それにあいつが嫁いだらむしろ下がるだろ」

「情けない声を出すな」


そしてそういう愚痴は俺じゃなくて他の奴にしてくれ。

これ以上聞いていると先の国王がさっさとどこかにやっておいて欲しかったというアルの言葉に同意してしまいそうだ。


「はあ…ま、ベアの事はともかく、見物人が多い事に目を回さないように改めて令嬢に言っとけよ」

「ああ、それでは失礼致します」


気が重くなりつつも執務室を出て、いつもの通りの手順で家路につく。

そしていつもの花屋の前まで来た時、俺はカードを書いていない事に気付いた。

俺はともかくアルまでカードの事を忘れるなど珍しい。だが双方に気が重い話をしていたのだ。しょうがないと思いつつも俺は少し焦った。

リリアの態度からカードを心待ちにしているのはわかっている。昨日の笑顔を思い出し、なおさらがっかりとさせるのは忍びない。


「あのカードをもらえるか?」

「はい、どうぞ」


人のよさそうな夫人はにっこりと笑顔を浮かべると、いつもより数段シンプルなカードを差し出してきた。

女というものは華美なデザインを好むからこのカード自体あまり喜ばれないかもしれないなと思いつつ、俺は一緒に渡されたペンを握り書く文面を考える。

だが当たり前だがいい文句など浮かんでこず、助けを求めるように店主に尋ねた。


「参考までに教えてくれ。…親しい女性に贈るとしたらどんな文面を書けばいいと思う?」

「それはやっぱり『愛してる』でしょうね」

「お客様のようなお顔の方にそんなカード渡されたら、女性ならイチコロですよ」


楽しそうに割り込んできた夫人の言葉に顔をひきつらせながら、俺は首を振る。


「…いや、まだそのような関係じゃない女性に贈るんだ」

「では…『抱きしめたい』とか、『キッスしたい』とかですか?」

「………もういい」


そんな事を書いたら喜ばれるどころか蔑まれるだろう。

助けを求めるように後ろを振り向くが、顔を赤くさせてボーっとしている女か、ニヤニヤとした笑いを浮かべている男しかいなかった。

だから俺は諦めて手早くカードに字を記す。


「世話になった」

「まいどありー」


もちろん花束に添えられるはずもなく、昨日と同様カードは俺の胸ポケットへと納まった。






「おかえりなさいませ、旦那様」

「ただいま」


いつもと変わらず何故か玄関にいる執事に挨拶を返し、上着を渡そうとする。

そこまではいつも通りだったが、その後が少し違った。


「おかえりなさいませ、旦那様」


いつもなら上着を渡すくらいに来るはずのリリアが、もう階段の上にいたのだ。

そしていつもより少しはやいペースで階段を下りてくる。

俺は慌てて上着を執事に渡すと、リリアに駆け寄った。


「どうしたんだ?リリア」


階段を2、3段上がり、リリアを落ち着かせるように肩を掴む。

一段高いところにいるにも関わらずリリアの背は俺よりも大分低い。だがいつもよりぐっと近づいた顔は急いで歩いた所為か、興奮の所為かうっすらと上気していた。

何となく見てはいけない物を見てしまった気がしてリリアから目を逸らすと、リリアは遠慮がちに言葉を発した。


「旦那様にお願いがあるのですが」

「…何だ?」


反射的に寄りそうになる眉を抑え、俺は無表情を心掛けながらそう尋ねる。

女にそう言われて快く思った経験はない。淡い好感を持った相手でも『お願い』を聞いた途端その好意は霧散する。

だが今までの関係だけの女とは違い、リリアは『お願い』するのが当たり前の立場にいるのだ。

宝石でも服でも心ゆくまで『お願い』すればいい。それが俺の与えられる唯一の物でもある。

そう思ったのだがリリアの『お願い』は俺の考えていたものとは全く違うものだった。


「屋敷の奥にある部屋の本を読ませてもらってもいいですか?」

「…………」

「…あの、あそこは入ってはいけませんでしたか?」

「いや、構わない」

「触ってはいけないと言われた本は触りませんので、読ませてもらってはいけませんか?」

「あそこには読んでもつまらない本と、俺が昔読んでいた本しかないから、どれも読んでも構わないよ」

「ありがとうございます」


まるでカードを見た時のような笑みを見て、焦ったような、気恥ずかしいような、苛立つような奇妙な気持ちが沸いてきた俺は、その気持ちを悟られないように無表情を心掛けながら言葉を続けた。


「ここにリリアが入ってはいけない部屋などないし、勝手に読んでも構わなかったのだが」

「はい、アンも注意をされてはいないと言ってましたし、私も受けてなかったので大丈夫かとは思ったのですが。

 …やはり旦那様の私物ですし声を掛けてからの方がいいかと思いまして」

「そうか。俺は構わないから好きに読むといい」

「はい」

「それでは食堂に行こう」

「はい」


そんな事でと呆れるくらい嬉しそうなリリアを促して食堂に向かいながら、こんな事でこんなに喜ぶのならリリアの為に本を置く部屋を増やしてもいいなと考える。

どうせ使わない部屋が山ほどあるのだ。俺の持っている本などリリアが読んでも楽しいとは思えないし、年頃の令嬢が好きそうな本をそろえてやればいい。

そんな事を考えているうちに食堂に着き、ドアを開けようとしてからリリアに渡すはずだった花束をまだ持っている事に気付いた。

失態続きに嘆息しながらも、手に持った花束を今更のようにリリアへと渡す。


「渡すのが遅くなってすまない。リリア、これを」

「ありがとうございます」


忘れていた事は失態だが、今日も昨日と同様カードをつけていないのだ。昨日よりよく話すようになったリリアに突っ込む機会を与えないという点ではよかったと言えるだろう。

目でカードを探すリリアを食堂に入るよう促し、席に着かせる。

自分も座ったところでリリアにカードの事を聞かれる前に話を切り出した。


「書庫を見たという事は今日も体調が良かったみたいだね」

「はい、最近はいろいろなところへ歩いて行けるようになりました」


庭や屋敷の中を歩いているだけなのに色々と言うリリアに内心で苦笑しつつ、俺は軽く頷いた。


「そうか。それはいい。歩けるときは出来るだけ歩いて体力をつけるといいよ。

 ただしブルージ先生と相談して、無理は絶対にしないように」

「はい」


そう返事をしながら微笑むリリアは最初の頃が何だったのかと思うほどに柔らかな表情をしていた。

今のリリアは整ってはいるが人形のようには全然見えない。

もしかしたらリリアの人見知りは表情に出ないという形で表れるのかもしれない。

だったらその人見知りが払しょくされるまで、もう少し頻繁に帰って来てもいいな。


「…それで今日は体調がいいのでこの後本を取りに行きたいと思っているのですが…」


本を触ることの許可を取りたいのか、これから行くことの許可を取りたいのか定かではないが、どちらにしろリリアの負担にならないのなら構わない。

窺うような表情のリリアに、俺は微笑みながら頷いた。


「ああ、構わないが、それならば今護衛に取りに行かせればいいのでは?」

「いえ、体を動かすのに丁度いい距離ですし、自分で行きます」


そう言ってニコリと笑ったリリアは、さっき俺が調子のいい時は体を動かすといいと言った言葉を実践しようとしているのだろうか?

そう思うと微笑ましくなり、やはり人見知りが完全に払しょくされるまでは頻繁に帰る様にしようと心に決める。

そして人見知りと関連してなのか執務室でのアルとの会話を思い出した。


「そう言えばもうそろそろ、結婚の書面を出しに行かないといけないのだが、王宮まで馬車に乗るのは平気か?」

「…はい、大丈夫です」


そう言った途端、柔らかだったリリアの表情が固まった。

ほんの少し言わなければよかったという後悔が沸いたが、言わないでおいて人の多さに目を回して倒れられでもしたら一大事だ。


「当日は見物しに結構な人数が来ると思うのだが、…大丈夫だろうか?」

「…はい、大丈夫です」


ちっとも大丈夫ではなさそうな顔で頷くリリアは、今にも倒れてしまいそうだった。

哀れに思いつつも、これで最後だからと意味のない言い訳を心の中でし、言葉を重ねる。


「そして国王自ら祝辞を頂けるそうだから、予定していた日より少し遅れてしまううかもしれないが、構わないだろうか?」

「…はい…」


最後の返事は消えいってしまいそうなほど小さくて、是という返事をしているのにも関わらず、少しもいいようには見えなかった。

だがリリアがどう思おうとも変えられるべき事じゃない。どんなに嫌でも耐えてもらうしかないのだ。そうは思いながらも罪悪感を感じている俺に、リリアは焦ったような必死な顔を向けてきた。


「…旦那様、私歩けるようになったのも最近で、令嬢の礼儀など何一つわからないのです」

「ああ、そうか…」


そう言えばここへ来てからはしっかりと歩いているところばかり見ていたから忘れていたが、リリアは少し前まではベッドから出られないくらい病が酷かったのだ。

令嬢の振る舞いなどとても覚える暇などなかっただろう。そう言うとリリアは目線を下げ消え入りそうな声で「無作法ですみません…」と言った。

その瞬間持っていたフォークとナイフを放って側へ行き、「そんな事はない」と慰めたい衝動に駆られたが、そんな事をしてもリリアの気持ちは軽く出来ないだろうし、それこそこちらが無作法と思われて終わるだけだ。

今、リリアに必要なのはそんな気休めにもならない言葉ではなく、確かに身になる作法だ。


「アン、貴族の礼を知っているか」

「はい、存じております」

「ならばリリア。調子のいい時にアンから貴族の礼を習うといい。

 それだけ出来れば後は俺のいうように動いてくれれば問題ないから大丈夫だ」

「わかりました」


そう言いながらもリリアの表情は晴れる事はなく、さっきまでの雰囲気が嘘のように暗い空気のまま食事は終わった。




「リリア、食事も終わったし、書庫へ行こうか」

「いえ、今日は部屋に戻ります。アン、礼を教えて」

「はい」


暗い表情のリリアを放っておくことは出来ず、食事を終えて俺はリリアと書庫へと行くことにした。

とても嬉しそうに本の事を話していたから少しでもあの表情が戻ればいいのだが…。

だがリリアの返事は否で、部屋に戻ると言う。調子のいい時に習うといいと言ったのを早速実践しようとしているのだろう。

まったく素直なのも考えものだ。


「リリア、そんなに根を詰めたらせっかくいい体調が悪くなってしまうよ。

 習うのは明日からにして、今日は好きな本を選んでリラックスして眠るといい」

「…はい」


そう言いながらも沈んだ表情のリリアを、半ば強引に書庫まで連れて行き、中に入る。

さすがにあれだけ嬉しそうに本を読みたそうにしていただけあって、ここまで来るとリリアの沈んだ表情は少し明るくなった。

それだけでやはりここに連れて来たのは正解だったと思う。

あれだけ嬉しそうなのだから選ぶのに時間がかかるかも知れないと思ったのだが、その考えに反してリリアは迷う様子もなく一冊の本を取り出すと、すぐに戻って来た。

それは俺が騎士団に入る前に読んでいた冒険小説で、第二巻だった。


「お待たせしました」

「いや、それは二巻だけど、一巻はいいのか?」

「はい。最初の話は父の屋敷にあったので。続きが出ているとは知らなかったので嬉しいです」

「そうか、では部屋へ戻ろう」

「はい」


大事そうに本を胸に抱いて微笑む姿は少し前に比べたら十分すぎるほど表情豊かなのだが、昨日の笑顔を知ってる俺としては少し不服だ。

こんな事なら本を取って部屋に戻ってから伝えるべきだったと少し後悔しつつ、リリアの部屋に戻る。


「さ、着いたよ」

「ありがとうございます」

「リリア、俺に何か聞きたいことはないか?少しでも不安な事があるなら何でも尋ねてくれ」

「いえ…」


着いてすぐ俺はリリアをベッドに腰掛けさせると、その前に置いてあるイスに腰掛けそう尋ねた。

令嬢の礼の仕方などは俺には教えられないが、他の事で何か疑問があるのなら何でも答える。少しでもリリアの気持ちを軽くすることは、婚約者として当たり前の行為だ。

リリアは俺の言葉に首を振っていたが、少し経つと「あ…」と小さく声を発する。何か思いついたのだと思い目で促すと、リリアはおずおずと口を開いた。


「今日は花束のカードはないのですか?」

「…っ」


その言葉を聞いた途端、俺は体を固くした。

そしてリリアの視線はあることがわかってるかのように胸ポケットへと移る。

確かにそこにはカードがあるが、これは渡せるものじゃない。そういう事ではなく、貴族の礼儀のことでだと言おうかとも思ったが、そんな事を言ったら誤魔化している事が丸わかりだ。

なので俺は焦りを出さない様心掛けながらゆっくりと言葉を発した。


「いや、今日は時間が取れなくて書けなかったのだ。すまない」

「そうですか。催促するような事を言ってしまってすみません」

「いや…」


俺がそう言うとリリアは悲しがる様子もなくあっさりと引き下がった。

思ったより素直に引いてくれてほっとしたのだが、俺の脳裏には昨日のカードを受け取った時のリリアの笑顔が浮かぶ。


「ここまで送って頂いてありがとうございます。明日から少しでも貴族の礼を覚えられるよう頑張ります」

「ああ、あまり根を詰め過ぎないように」

「はい、おやすみなさいませ、旦那様」

「おやすみ」


そう言うとすっかり退室のムードになり、俺はこれ幸いとばかりに席を立つ。

リリアは悲しそうではないし、明日の朝アルをせっついてカードの言葉を考えさせ、すぐに持って行かせよう。

その方がこんな質素でつまらない事が書いてあるカードよりも何倍も喜ぶ。

それは重々わかっているのだが、こびりついたように離れないリリアの笑顔に俺は白旗を上げた。


「リリア」

「はい」

「今日は…カードを切らせていていつものカードがなかった」

「はい」

「それに考える時間も取れなくてあまり上手い事が書けなかった」

「はい」


それでもよければと躊躇いながらカードを差し出すと、リリアはさっきまでの暗かった顔を一変させてカードを受け取った。

その笑顔もカードの質と内容を見たらまた暗く沈んでしまうのだろう。カードに目を走らせているリリアを見ながら俺はそう思う。

カードには意味の分からないであろう一言しか書いていないし、何といってもその文はアルではなく俺が考えたのだ。そう言えば、自分で考えた文を渡すのは初めてだなと思った途端、勢いよく羞恥心が沸き上がった。

やはり渡すべきではなかったのだ。


「リリア、やはりカードを…」


このカードは返してもらって、明日の朝一番でカードを送ろう。

そう思い伸ばした手は、カードに届くことなく空を切った。

リリアが病人とは思えない速さで体を引いて避けたからだ。カードは渡さないとでも言うように胸元に抱きこまれている。


そして俺に花も霞むような笑顔を向けた。


「おかえりなさい」


そのような笑顔を見れるのならば、恥ずかしいくらいの感情は我慢しよう。

そう簡単に切り替わった考えを苦笑しながら、俺はここで言うにはおかしい、つまらない一言を呟いた。


「…ただいま」


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