思いがけない幸運
「ただいま、リリア。体調はどうだい?」
「おかえりなさいませ。おかげさまで変わりありません」
日が暮れてもうすぐあのまずい料理が運ばれてくるんだろうなと思っていた時、滅多に来ない通いのメイドが私を呼びに来た。
侯爵が帰ってきたらしい。意外性のかけらもない帰宅である。どうせなら一週間に一度くらいでいいのになと思うけど、まあしょうがない。一応新婚なわけだしね。
慌てて階段を降りる事は出来ないから、アンに合わせてゆっくりと下まで行くと、侯爵は花束を持って佇んでいた。
見事なまでの王子様っぷりだな、うん。
きっとこの花束にも歯の浮くようなカードが付いてるんだろう。見た目からは想像もつかないくらい軟派な事が書いてあるカードが。
渡された花束からそっとカードを抜き眺めると、
君はこの花束よりも美しい
と書いてあった。
このカードを見ると、何故か爆笑したい気持ちに駆られる。今も衝動的に湧き上がった笑いを何とか呑み込むと、私は侯爵にお礼を言った。
「中々帰って来られなくてすまない。今日は一緒に夕食を食べよう」
「はい」
絶対すまないと思ってないし、ここに来て侯爵に会うのはまだ2回目だけど夕食しか一緒に食べた事ないじゃん。今日は、じゃなくて今日も、だろ。
心の中でしか突っ込みを入れられないせいで、少しひどい事ばかり考えてる気がする。
だけど心がささくれ立ちもするよ。だって今から侯爵は私の前でおいしいものを食べるわけでしょ?最高にお腹が空いてる私の前で、おいしくなさそうに全部ペロリと!
促すように腰に手を当てられ、私はため息を呑み込みながらそれに従った。
「…………………」
「それでは、いただこうか」
食堂につき、ひっろいテーブルに向い合せに座って出された夕ご飯を見て、私は思いっきり机を叩きたくなった。
よりによって、パンの浮かんだスープ!!!
そして向かいを見ると、めちゃくちゃおいしそうな匂いをさせているフルコース。
…もう泣いていいかな?…いや、怒っていい?お父様には悪いけど、これ以上我慢を重ねたら本当に病気になってしまう。ストレスで髪とか抜けそうだよ。
頭の中で何度も目の前のスープをガッシャーンとひっくり返すけど、悔しいが実際に出来る訳もない。それに限界までお腹の空いてる私にとって、どんなにまずくてもとりあえずお腹に入れれるものをひっくり返すなんて出来ない。
しょうがなくスプーンを持ち、私はみっともなく見えないかとハラハラしながらそれを口に運ぶことにした。
うん、今日も安定してまずいな。
嚥下して思う事はいつもと変わらない。
だけど今日目の前にいるのはアンじゃなくて侯爵だ。「まっずいよ、これ!」と言えるはずもなく、私は表情に出さないように気を付けた。
目の前のおいしそうなご飯に羨ましげな目を向けてしまわないようにも注意する。
「今日は何をしていたんだい?」
「お部屋でゆっくりとさせてもらっていました」
「そうか、不自由なく過ごせたか?」
「はい」
不自由だらけだがな。
そんな事を言えるはずもなく、当たり障りのない問いに当たり障りのない返答をする。
昔やった英語の和訳文みたいな会話だよなと思ったけど、私がしていた英語の和訳はこんな味気ない会話じゃなかったよ。という事は私と侯爵の会話は英語の和訳以下…。
なんかそう思うと屈辱的だな。
いやいやいや、いつもこんなつまらない会話をしているわけではないんだよ?いつもの私とアンの流れるような会話を聞かせてやりたい。
そう誰にともなく言い訳をしていると、いつの間にか私のスプーンを持った手はほんの少し早く動いてしまっていた。
テーブルマナーなんて全然知らないけど、侯爵の前にはたくさんのナイフとフォークが並んでいる。何かしらマナー的なものはこの世界にもあるのだろう。
覚えられるかわからないけど、少しくらい聞いておけばよかったと後悔する。
とりあえず食事のスピードは相手に合わせなきゃいけないんだっけ?ちょっと早くかちょっと遅くだったような気がするけど、どっちかは忘れた。
わからないから一緒くらいに食べ終わろうと決めたんだけど、変な事を考えているうちに少し早く食べ過ぎた。
侯爵はそんなに早く見えないのに、結構なスピードでご飯を食べる。でも絶対的な量が違うから、ゆっくりゆっくり食べないと侯爵と同じに食べ終わるなんてできない。
だから私はアホな事を考えるのを止め、ひたすらご飯のペース配分に気を配りながらそれからを過ごした。
「デザートでございます」
何とか同じペースでご飯を食べるというミッションをクリアした私は、執事っぽいおじさんが持ってきたお皿に目が釘付けになった。
わー、フルーツだ…。
ミッションクリアしたばかりだからちょっと気が抜けていたのかも知れない。
この前の時はケーキみたいなおいしそうなものが出て来たっぽいけど、甘いものは好まないとか言ってすぐに下げさせていた。
だからあんまり目に映らず、さっさと退場してくれたから大丈夫だった。あのデザートが誰のお腹に入るのかはずっと気になってたけど。
でもこのフルーツは退場することなく侯爵の目の前に佇んでいる。
色とりどりのフルーツは全部おいしそうだし、その周りには何か赤いソースが模様のように描かれてる。
あの赤いソースがフルーツに高級感を持たせているんだな。マルティンもやってくれるけど、こういうところでひと手間の大切さを実感するよね。
「…………」
「……っ」
一心不乱にデザートの評価をしていた事に気付き、私はそっと顔を上げた。
別に侯爵はいつも私を見てるわけではないんだから、気付かれはしてないだろうと思ったんだけど、それは希望的観測だった。
がっつりとじっとりとデザートを見ていた私を侯爵はじっと見ていたのだ。
反射的に謝りそうになって、私は口をつぐむ。多分だけどそんなに表情は変えてなかったと思うし、今ならただデザートを見ていただけだよと誤魔化せるかと思ったのだ。
「フルーツは好きなのか?」
「……すみません」
誤魔化せはしなかったらしい。
見てわかるほど物欲しそうな顔をしていたのか?侯爵の前ではあんまり表情を出さないようにしていたのに、よりによってこんな顔を見せてしまうなんて。
これってまた来たのかよとかつまんないなーとかいう表情を読まれるのとどっちが悪いんだ?いや、どっちもだめだからひた隠してたんだろうが、ああああ。
頭の中はパニック状態だけど、これ以上失態を犯すわけにはいかない。必死に表情を隠して縮こまっていると、目の前にすっとお皿が差し出された。
「食べれるのなら、食べてみないか?」
「………」
顔を上げると、目の前にはおいしそうなフルーツが品よく並んでいた。ふわりと香った瑞々しい匂いに喉が鳴らないように堪える。
「前の時も思ったのだが、君は少し食が細すぎる。もう少し食べてみたら体力もつくのではないかと思う」
「…………」
「無理にとは言わないが、どうだ?」
食は細くないし、願ってもない事だ。だけど私が懸念しているのはもっとほかの事。
これって本当は断らなきゃ品がなく見えるんじゃないかとか、こうやってお皿を受け取るのはマナー違反なんじゃないかとか。
だけどこの目の前の誘惑にはとても勝てそうにない。だめかもしれないけど、下品かもしれないけど…。
「…ありがとうございます。頂きます」
目の前のずっしりと重たいお皿を受け取ると、アンがナイフとフォークを私の横に置いてくれた。カットしてあるけどまだまだ大きいフルーツを一口大に切り、そっと口に運ぶ。
もう遅いかもしれないけど、これ以上下品に見られたくないからね。
でも取り繕えたのはそこまでだった。
「おいしい…」
3日ぶりの甘いものに、私のテンションは頭から破り出てしまいそうなほどに急上昇した。
3日しか経ってないじゃないかとか思わないでね?食べたいと思ったものを1日我慢するのって結構大変じゃん?しかもずっと空腹で。最近の夢は甘いものかお肉を食べてるのばっかになるくらいだったし、それくらい切望してたんだよ。
マルティンが来るまで無理だと思ってたものを、思いがけなく食べられるなんて。
ごめんね、侯爵。何で来たんだよとか、お前だけおいしいもの食べてとか思って。
「それはよかった」
あー、おいしいって口に出しちゃったかと少し後悔したけど、それよりも何よりも今大事なのは目の前のフルーツだけだ。
こんな事をしてくれるなら、毎日でも帰ってきてもらいたいな、うん。
そんで帰りに次はケーキを食べたいとリクエストとかして行ってくれないかな?
そんな事を思いながら、反省は後でしようと他の考えを全て横に置いておき、私は目の前のフルーツに没頭することにした。




