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最大の敵

柔らかな日差しが差し込む寝室。さわりと木々が揺れる窓の外を見ながら、私はそっとため息を吐き出した。


「あの木の最後の一枚の葉が落ちる時にきっと私の命も尽きるのだわ…」

「…えーっと、今は春ですよ?あの木の葉みたいに元気で生命力に富んでるって言いたいんですか?」

「違うよ!何で今が秋じゃないんだ…っ」


ぐぅぎゅるぐー。


反論しようとしたところで、お腹が盛大に鳴って私はベッドに突っ伏す。

侯爵の屋敷に移ってから3日。今、私は最大の危機に陥っていた。


「ううう~、お腹空いたよー」

「さっき昼食が済んだところじゃないですか」

「あれを昼ごはんだなんて私は絶対に認めない」


アン以外の使用人が引き継ぎをしてこっちへ向かう間、屋敷には繋ぎのお手伝いさんたちがやってきている。だから私はここに来てからのほとんどをこの部屋で過ごしていた。

それは別にいいんだよ。最低侯爵と結婚をすると決めた時からこうなる事はわかっていたんだから。それに私は人見知りするって設定だから、アン以外のメイドはほぼ寄り付かない。だから部屋ではアンとこうやっていつも通り話すことが出来る。

だから目下のところ最大の敵はご飯だった。


「何なの?やっぱりこれって最低侯爵の嫌がらせ?」

「何を言っているんですか。病人食を出されているだけですよ」

「…………」


ぎゅるぎゅるぎゅう。


お腹が空きすぎてアンとのいつもの掛け合いも出来やしない。

ここに臨時のコックが来てからというもの、私に出される食事はどろどろで味のないご飯かどろどろで味のないパンだった。

まだおかゆと称した糊みたいな物体は食べれる。だけど味のないスープの中でどろどろになったパンだけは許せない。


「あれ見ると鯉のエサ思い出すんだよね」

「鯉…ですか?」

「うん。小さい頃池の鯉にエサをあげるためにパンとか持ってかなかった?」

「鯉が池にいる事なんて王宮くらいしかないですから」

「え?!マジで?」

「お嬢様って前いたところではそんなにいい身分だったんですか?」

「違うって。私のいたところでは池って言ったら大体鯉がいたんだよ」

「それはとても羨ましいですねぇ」


うっとりとした顔をしたアンはきっと王宮とかにいる赤とか金とかの値段の高い鯉を思い浮かべてるんだろう。だけど違うからね?もうその違いと言ったら金魚とフナだよ。


「エサを撒くと土留め色したすごい数の鯉が延々と口をパクパクさせてるの。その割に食べ残して腐った匂いを発したパンが池の横の方に浮いてて…。

 味のないパンが浮いたスープって、その食べ残された鯉のエサに見えるんだよね」

「……長々と気持ち悪いたとえしないで下さいよ」


うっとりとした顔から一転、アンはげんなりとした顔をした。

そんないつも通りの会話をしながらも、私のお腹はずっと主張し続けている。いつもならば手振り身振りをつけて話す楽しい会話も、空腹のせいでどこかむなしく感じる。

ここに来てからご飯というものの大切さを痛感したよ。お腹が空いてると小さなことでもイライラしたり、心がささくれ立ったりするもん。

余裕というものは満腹感から生まれる。

おお、名言が出来ちゃったよ。空腹というものは人を哲学的にさせるのかもしれない。おお、これも名言?

そんな頭の中だけで考えていることでさえ、お腹の音は容赦なく遮ってくる。

グルグルいうお腹を押さえながら私はへにょりと眉を下げた。


「アン、お願いだからもう一回コックに普通のご飯出してくれるように言ってよ。それがだめなら味付けを濃くするだけでもいいから」

「だから何度も言っていますって。でも聞きやしないんですよ。コックに料理の事で口を出すなですって」

「だったらおいしいもの作ってからそう言ってよ~」


うわーんと情けない泣き声を上げながら、私はベッドに寝っころがる。

これはもう死活問題だ。本気で病人になる前に何とかしなければいけないと強く思う。なのに打開策がまるで見つからないのだから嫌になる。

そんな泣き言を叫んでる間も、私のお腹は休むことなく一定のリズムで鳴り続けていた。


「もしかして、あのコック偽物なんじゃない?実は料理なんて作れないのに作れるって言ってるだけだとか」

「それはありません。賄のご飯はちゃんと食べられますから」

「くそぅ…」


私って一応は侯爵夫人なはずなのに。何でメイドよりまずいご飯を食べなきゃいけないんだろう。


「結婚なんてするんじゃなかった…。家に帰りたい」

「はぁ…。少し待っていて下さい」


本気で涙が出て来そうな私を見かねたのか、アンはするりと部屋から出て行った。

そして戻って来た時、手に小さな包みを持っていた。


「どうぞ」

「わぁ…!」


出されたものはとてもおいしそうなビーフジャーキーだった。

それが目に映った瞬間、私は素早くそれを口に放り込む。


「お嬢様…。誰も取らないですから、もう少し品よく食べて下さいよ」

「うぐうぐ」


品ではお腹は膨れない。それを痛感している私は、曖昧に首を縦に振りながらビーフジャーキーを噛み締めた。

味!味がするよう!塩っ辛いくらいの塩分が体に染み渡るよう!!


「マールさんが持たせてくれた日持ちする食べ物の中に入ってたんですよ。こんなことになるんなら甘いものも残しておけばよかったですね」

「うぐうぐ」


アンの言葉に私は大きく頷く。

ここに来た初日に、せっかくだからとコックのマルティンが持たせてくれたお菓子をお昼ご飯の後に食べてしまったのだ。

最初の日のご飯はまだコックが来ておらず普通の味だったから、ご飯の心配なんてまったくしていなかった。

出来るのならあの時の私のところに行って、すべてのお菓子を持ち帰りたい。

ここのコックはブルージ先生が食べてもいいと言っているのにも係らず、病人に甘いものはよくないとおやつさえ出してくれないのだ。

私がコックに抱いている感情はもう殺意に近い。自分が会った事もない人間にこんな強い感情を持てるなんて思ってもみなかったよ。


「見た時は干し肉ってサバイバルかよと思ったんですが、思わぬところで役に立ちましたね」

「うんうん!これまだある?」

「あと2枚しかありません」

「うわぁ…」


私の手のひら位の大きさのビーフジャーキーを半分ほど食べて、私は断腸の思いで食べるのを止めた。

マルティンがいつ来れるのかわからない以上、大切に食べて行かないと後が怖い。


「マルティンまだ家出てないって?」

「今のところまだこちらへ向かったという連絡はありませんね」

「そっかあ」


家の中を取り仕切っていたクリストフが中々来れないのはわかる。庭師の二人も警備を兼ねてたからちょっと遅くなるのもわかる。だけどマルティンはよくない?

お母様がご飯を作れないのは知ってるけど、食べられる食事を作ってくれる人くらいたくさんいるだろう。

…いや、だめだ。そんなにコックを簡単に扱っちゃ。今現在、病院食もまともに作れないコックに私は悩まされているんだから。

食に妥協できないと言われたら今の私は大きく頷くしか出来ない。


「ううう、お父様に手紙とか出せない?ご飯がまずくて死にそうですとか」

「見られたらどうするんですか」

「じゃあ遠まわしにマルティンに会いたいですとかは?」

「直悪いです。それじゃマールさんが間男になってしまいますよ」


そんな事言われても、今一番会いたい人はマルティンなんだもん。もう間男でもなんでもいいから早くこっちに来てくれないかな。


「そんな事になったらマールさんはこっちに来るどころか、二度と会えないくらい遠くに飛ばされてしまいますよ」

「えー?誰に?」

「侯爵様に決まってるじゃないですか」

「それはないでしょ。外聞的に悪いから絶対公にはしないけど、内心嬉々として私の世話をまかせそうだよ」

「……確かに」


件の侯爵はこの3日で一度帰ってきただけだ。義務的に帰ってきて、義務的に私に声を掛け、義務的に一緒に夕ご飯を食べ、朝早く王宮へ戻って行った。

話さなかったわけじゃない。沈黙が気まずかったっていう覚えもないし、何かを話したという記憶もあるんだけど、それは驚くほど心に残らなかった。

覚えているのは糊みたいなまっずいご飯を食べている私の前でおいしそうなご飯を無表情でペロリと平らげた事だけだ。

あのお肉のひとかけらでもいいから私にくれないかなってずっと思っていた。


「見事に当たり障りのない会話しかしなかったよね、あの人」

「ええ、あまりそういった無駄な話は好きではない方だと思っていたんだすけどね」

「仕事関係でもなく、黙ってってもいけない人とあんまり話した事ないんじゃない?

 無駄な話を振られたら無駄話って見下せれるけど、いざ自分が話す方になったら結局無駄な話しか出来なかったみたいな」

「うわー、お嬢様って本当に侯爵様にいい印象持ってないですねぇ」


アンが顔をひきつらせながらそう言う。確かにいい印象なんて持ってないけど、でも初めの時みたいに最悪な印象だって持っていない。

必要最低限の事はしてくれ、こっちに干渉して来ないのには好感がもてるし、全部機械的に動くから行動を予測しやすいのもいい。

多分2、3日に一回こっちに顔を出そうと思っているっぽいから、今日か明日の夜にはまたご飯を食べに来るんだろうなとか簡単に予想できるのはとても楽だ。


「そう考えると、私と侯爵って結構理想の夫婦なんじゃない?」

「お嬢様は一度恋愛小説などを読んで夫婦というものを理解した方がいいんじゃないですか?」


アンはそう言うけど、需要と供給がぴったり合ってるんだよ?それって理想じゃん。


「でもまあそんな事よりも」


そう言いながら私は手に持っていたビーフジャーキーをアンに差し出す。


「これちょっと仕舞って!食べたい誘惑に負けそうだから」


今一番の関心は侯爵でも夫婦でもなく、ご飯だ。アンがいそいそとビーフジャーキーを包むのを名残惜しく見ながら私はため息を吐き出した。

マルティン、早く来てくれないかなあ。

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