episode 11 闇凪
オレは聖剣を振りかぶる。それでも裏返は、微動だにしなかった。視線は下に固定され、蒼光を湛えながら自分に襲い来るであろう刃に、一瞥もない。そもそもこの聖剣を、聖剣として武器として認識しているかどうかもあやしいと感じた。
そして対するオレも、そのまま動けずにいた。振り下ろそうとするたび、ニースが頭に浮かんだ。屈託なく笑う顔が浮かんだ。髪をなびかせて走る背中が浮かんだ。振り向く蒼碧の澄んだ瞳が浮かんだ。両腕を開き、必死でオレを止める姿が……今、浮かんでしまった。確か、こうしたことが前にもあった。そう思うと、霞んだ記憶の輪郭が徐ろにはっきりとしてくる。あの時、彼女の向こうにはシュナイベルトが膝をつき、彼女の傍らにはサクヤが倒れていた。空色の光沢のあるドレスを着ていた。それがサクヤの血でまだらに染まっていた。
―― あなたの言い分は分かります。正しいとも思います。でも、どけません ――
オレを受け入れてなお、オレの行動を阻止する声が聞こえた気がした。オレはやおらに、静かに、聖剣を持つ右腕をおろす。それから「分かったよニース」と、心の中で一言告げた。
暫くは、黙って見下ろしていた。裏返も黙っていた。が、何も起こらないことを不審に思ったのか、顔だけをおそるおそる上げ、そっと視線を覗かせた。
「なぜ?」
どうとでも取れる短い単語が、裏返の口から薄紙を裂くような掠れた声となって漏れ出た。
振り上げた拳を下ろす独特の居心地の悪さに、オレは魔剣を一つ振る。魔剣を手にした今、この動作にさして意味はない。血振りする癖がついていただけだった。そして逆手に持ち替え、片腕だけで右腰に吊った黒の鞘に収めた。すうっと無抵抗に吸い込まれる剣身に、昔はこれに四苦八苦していた、慣れるものだ、と我がことながら感心した。そしてわしゃわしゃと頭を掻き、軽く項垂れる。裏返はそんなオレの仕草を、またしても黙って見ていた。オレの何気ない動作一つ一つを大事に追っていくその目は、どことなく愛おしいものを見ているかのようだった。
「もういい」
奇妙な沈黙に耐え切れなくなったオレは、都合の悪さを隠しながら、同じようにどうとでも取れる言葉を発した。だがこんな一言にも拘らず、オレの真意は伝わったようだった。緊張していた裏返の表情が、少し和む。頬が血色づく。オレは再び数歩先にいた老人の元へ、その細身の体を睥睨し乱暴に後襟を掴んだ。老人の表情は恐れを隠さず、四肢をなんら秩序を持たず無作為に動かしている。だがオレは構わずそのまま、老人を引きずりながら歩き出した。佇むオレの前には、またも裏返がオレを凝視していた。嫌疑する様子が見て取れる。未だケツをつきながらじたばたする老人をよそに、オレは聖剣を頭上に掲げた。
「やめろ。やめてくれ」
嗄れた声が老人の口から吐出される。逆に裏返は諦観していた。体に力を込め、じっと動かずにいた。そして震え声でオレに嘆願した。
「その子をお願い……」
オレはニヤけながら間髪入れずに言葉を返す。
「嫌だね」
そして聖剣を振り下ろした。さらにもう一度。
「こんなクソみたいなジジイの面倒なんて、真っ平ゴメンだ」
聖剣が二つの物体を絶ち斬る。それは裏返でもジジイでもなく、裏返の両手首に繋がれた二本の鎖だった。自由を得たというのに、彫像のように固まったままオレを見上げる裏返。だが瞳からは涙の雫が頬を伝い、ぽたぽたと次から次にこぼれては消えていた。
「アンタの望み通り、コイツは外へ連れてってやる。だが、コイツの世話はアンタがするんだ。わかったなら付いて来な」
闇が薄れ、光が差し込む。オレが外の世界へと意識を向けたからだろう。この世界はオレの思い通りに動いてくれる。だがその思いってやつに制約がかかるようだ。オレはその光に向かい、とぼとぼと歩き始めた。背中からじゃらじゃら鎖の擦れる音が従いてくる。老人を引きずり裏返を従える。オレの辿ってきた、そしてこれから辿るであろう道筋は多分こうなのだろう。要領よく器用になんか生きてこられなかったし、これからもそうだ。石畳もない、整備もされていない、雑草だらけのでこぼこの道。ツレは人外の者。だがそれは、オレらしいと言えばオレらしいと思った。
「外はとんでもねえことになってるかもしれねえからな。覚悟しておけ」
警告する。そうしてオレ達三人は、踏み出した。希望の一歩なんてそんなもんじゃない。おそらくは絶望に近いはずだ。薄ら現状を認識し始めたオレの掌はじわりと汗を掻く。最後にオレは振り返り、ちらりと横目で二人を見る。片や俯き引き摺られ、片や俯き従いてくる。どちらも忌み嫌っていたものだった。だが今、その光景を目に収め、不思議と悪い気はしなかった。
オレは視線を外し前を向く。
「悪かったな、今まで」
そしてオレが創りだしてしまった二つの人格に、謝罪の言葉を述べた。
その返事は、なかった。
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くっそ。どうなってやがる。
声にならなかったものの、口の中でそう呟いた。呟かずにはいられなかった。意識を取り戻したオレが最初に目にしたもの、それは今までとそう代わり映えのしない真っ暗な空間だった。土煙が充満し、堪らず咽る。体中が軋み痛む。体の至る所が血でぬめっとしている。そして何かがのしかかり、ちょっとやそっとじゃ動けない情況だった。論理的に物を考えようにも、焦りがそうさてはくれない。
ただ、力は今までになく漲っていた。そしてなぜだか暗闇の向こうを、朧気ながらも見渡せた。
そこにはニースが横たわっていた。意識を取り戻したようには感じられない。少し離れて一つ、この相変わらずの威圧感はカイムの器であろう。これだけはモノが違う。そしてまた離れて三つが佇んでいた。それは生物でなければ無生物でもない。かと言って魔に属するものでもなかった。何だか分からないもの、ってことではない。その正体は、今までずっとオレに寄り添ってきたものと、同等のものだった。
だがカイムの姿だけがそこにはない。骸すら無い。転がる幾つもの魔族の骸も探ったが、ついぞ見つけられなかった。
「五分稼げと言った結果が、これかよ」
フチクッチに敗北したのだろう。度し難い悔しさが溢れ、声になって漏れ出た。拳を握った。そして脚に力が込もる。と、佇んでいた三つのうちの一つが近づいてくる。足音が振動となって、床板を伝い倒れているオレの体に直接響く。そしてオレを前にして止まった。怒りを伴う殺気を向けられ鳥肌が立つ。オレはすぐさま、波紋を展開した。一つ、二つ、三つ。波紋はそれを受け止めた。だがもう一撃の気配。オレはそれに目がけ、とっさに魔剣を突き出し、貫いた。だがそれは刺突などものともせず、魔剣もろとも持ち上がる。オレは手放すまいと、柄を必死で握りしめた。
動きが止まった。角度と殺気から判断するに、どうやらオレの背中を標的と見据えたようだ。瞬時に波紋を展開、そこに反発する力を載せた。こんなことをいつの間に、と考える隙もなかった。波紋は振り下ろされた何かとオレの上に覆っていたもの、まとめて弾き飛ばした。土煙が舞い視界を埋める。オレはもう一つの波紋を頭上に展開し、そこに引く力を載せた。体が浮き上がるように引き上げられる。その助けを借りて、オレは立ち上がった。
煙が晴れると、そこには先ほどの魔族のような女口調の男と、身なりの良い白い男、そして乞食のような黒い男が、オレに驚きの表情を向けていた。オレは三人を見定めるように順に目で追い、そして口角を上げた。
「ちょっと眠っている間に、派手に甚振ってくれたじゃねえか。アンタら神様だろ? なあ、今時の神様ってのは迷えるか弱い子羊に、よってたかってこんな酷い仕打ちをするもんなのか?」
傍らにはカイムの器が、子供だましのあやつり人形のようにぎこちなく動く。足元にはニースが、未だ眠っているかのように横臥し目を閉じていた。
最悪だ、と思った。だが、悪い情況であるが、最悪というほど酷くもないことに気がついた。闇に潜る前は、もうここには戻って来られない覚悟と、気付いたらあの世だったなんて覚悟をしていたことを思い出したから、そしてニースが何とか無事だったからだった。




