episode 6 血眼
見切れない速さではない。だが避けられる状況でもなかった。右腕に続き両膝から下までもが斬り落とされた女口調の男は、それでも『式』を組み自身の周囲に衝撃を伴う膜のようなものを形成した。そして半分ほどの長さになった脚で床に立つ。このような無様とも呼べる姿になっていても、己の優位は決して揺るがない、芽生え始めた感情を理解しきれていない男は、そう確信していた。
「脆いも……」
短い言葉すら言い終えること叶わず、口の動きが止まってしまった男の視野を、蒼光が占める。『式』により形成した防御膜を、あろうことか通過してきた聖剣の刃。その事実に理解できず思考が混乱する。が、それでも咄嗟に新たに『式』を組みそれを弾く。なんとか巨大な水晶の剣を防ぐ事は出来た。
だがそれもつかの間だった。顎の先にちくりとした痛みが走る。それに気付いた時には黒く薄く細い直刃は脳天にまで達し貫通していた。
『式』を組もうと意識を集中するも、底に孔の空いた器から水がとめどなく流れ落ちるかのように『力』が黒刃に吸い込まれ、消え、組み上げた『式』に到達しない。その忌まわしき黒き刃は、そのまますうっと下ろされ首、胸、腹を氷を滑るように無抵抗に裂いてゆく。そして最期、男の身体をなんなく通り過ぎた。
顔だけで繋ぎ止められた男はばたり臥し、捌かれた魚のように切断面を上に向け、動きを止めた。ドス黒い血が盛大に床を染める。
そこへ頭上から熱波が襲う。一瞬にして黒焦げとなり炭と化した肉塊を見下ろす、今や灰となってしまった男と全く同じ姿形の男が、全く同じ口調で、全く同じ声音を発した。
「これも避けるの。どうなってんのよ、あなた」
女口調の男の亡骸だけが燃えカスとなってしまったが、狙いはクーロンだった。クーロンは背後からの出し抜けの一撃にも咄嗟に対応し、間一髪とは言え見事躱してみせた。だが完全ではなく、背中が焦げ付きくすぶる。クーロンはそれを意に介す様子なく、狙いを定めさせないよう、男の頭上で波紋を展開し忙しなく何度も跳躍していた。
「澄ました顔をしているけど、本当は不思議でしょうがないんでしょ? あなた、ハンサムだから特別に教えてあげるわ」
そう言いながら紫色のざらついた舌をぺろり舐め回した。
「『器』と呼ばれる肉体はこの世界での仮初の姿。いくらでも替えが利くの。だって私達、使徒の本体は別の世界にあるのだもの」
事情を知らぬものが聞けば驚くであろうところである。だがクーロンの意識は未だ闇の中、そしてカイムは当然とばかりに焦りを見せてはいなかった。故にフチクッチだけがこの場で『使徒』という言葉に敏感に反応した。老女は一瞬振り向いたものの、気を取り直し再び目を閉じ魔術を組んだ。
「ヤツが使徒だって今頃気付いたかい? まだ可愛げがあるんだねぇ。その展開している魔法陣は、自分の体に刻まれた刻印と繋がっているんだねぇ。よく考えるもんだよ。そしてよくやるねぇ、そんなこと。自分で自分の体をナイフで削いでいるような痛みだと思うんだけどねぇ」
顔を歪ませるフチクッチは、カイムの言葉に耳を傾ける仕草は見せず、右腕から展開された魔法陣に、己の体に刻まれた刻印に、魔力を流し続けていた。冷や汗なのだろう。雫が頬を伝いポタポタと床に落ちる。
言葉を発しながらも封印の解封を試みていたカイムに、イオカステの巨大な剣が強襲する。質量に耐え踏ん張り、横薙ぎに剣を振り回す大男。だがカイムの体に到達する前にぴたりと止まった。魔法の盾に防がれたのだ。
食いしばる歯を剥き出しに悔しがりながらも、腰砕けになりよろけるイオカステ。避けられる事は想定し準備していたものの、止められる事は予想の範囲の外側だった。瞬時に制動され慣性に抗いきれず、体中の筋肉が張る。骨が軋む。それに先ほど一帯を襲った謎の衝撃で負った疵が重なり、身体が痛む。
それに抗い、今度は右下方に構え直す。 臍を噛みながらもとったその構えは、一振の剣を両手で握ってはいるものの、クーロンが普段見せるだらりとした構えにどことなく似ていた。
左足を前に強く踏む。ダンッと床が鳴る。ゆっくりと吐く息を止めると同時に巨剣を振り上げる。ブンッと空気が低く鳴る。だがまたしてもカイムに届かない。魔術の盾が使い込まれ傷付き擦れた刃を、その場に押し留めた。
イオカステは勿論それを想定していた。反動なく静止する剣を力任せに弧を描く軌道を描きながら構え直し、もう一撃浴びせる。しかし同様に止められる。そしてもう一撃。愚直に、まるで鍛錬しているかのように何度も何度も繰り返すものの、カイムに触れることすら叶わない。だがそれは無意味な行動でもなかった。カイムの集中が途切れ、封印を解く手が休まる。
「時間が惜しいから放っておこうと思ったんだけど、さすがに煩わしいから大人しくしてもらうよ」
途端、イオカステが両膝を突く。空に向く顔、目は虚ろ、汗と涎とが混じり頸筋に流れる。倒れそうに揺れる巨体。耐えるも、握力は維持できず、巨剣を手放す。鉄塊は響かせるはずの金属音を衝突した木製の床に吸収され、どすんと落ちた。
「これで気を失わないなんて、大したものだよ。だけど暫くは動けないだろうから……」
と、ここでカイムは意表を突かれ、言葉を失う。イオカステがやおらに立ち上がったのだ。篭もるはずのない震える膝に力を込め、動くはずもない震える両手は剣を取ろうと辺りを弄る。
カイムは再度、イオカステに『負の感情』を流し込む。だがそれをものともせず、イオカステは剣を担ぎ構えた。辿々しい構えだ。腕力が剣の重みに逆らえないのだろう、右肩に鈍い刃が喰い込み血が滲む。表情も定まってない。顎が落ち、口も半開きに開かれ未だ唾液が垂れていた。
円の軌道を描くように巨剣がカイムに向かう。カイムは魔術を展開させず、頭上からゆっくりと真下に振り下ろされる巨剣の腹を拳で弾いた。急激に軌道を変えた剣に振り回されるように体制を崩すイオカステ。それをカイムは憐れみ見下ろしていた。
「可哀相にねぇ。理由はわからないけど、そんな大きなモノ、体に刻まれて。キミも利用されただけなんだねぇ。楽にしてあげるよ」
カイムはイオカステの体に刻まれた刻印を、その発動と同時に視認した。そして刻印の形状から効果も認識した。これは体が動かなくなるまで戦い続ける、所謂『呪』の類だ。クーロンの体の刻印と同一の方向性を持つものだった。
「騙されたのか、それとも弱みにつけ込まれたのか……。どちらにしても悲しいよねぇ」
ただこの刻印は、自意識の芽生える前の子供の頃に刻まれたものなら例外であるが、発動には本人の同意が必要だった。幼い子供に刻むと言う行為も、肉体が耐え切れず死に至る。クーロンやシーロン等の『龍』は例外中の例外なのだ。
カイムは大凡魔神らしからぬことを呟き、そして止めとばかりに腰に吊ってある新式聖剣を抜き放ち、棒立ちのまま腕力だけで横に振った。筋も立っていない素人の一振り。だが紅に光る刃の斬れ味をもってすれば、巨漢の太い首を斬り落とすにはそれで充分だった。
ごろんと転がる大きな頭を見下ろす。そしてカイムはふうっと長い息を吐いた。
「残念だけどキミの勝ちのようだね」
『器』に手を添える老女は既に意識なく、ただ立っているだけの人形のようだった。
「勝ち、は言い過ぎだねぇ。キミも『器』に取り込まれてしまったようだしね」
操り人形の糸が突然切れたように、膝から崩れ落ちる老婆の体。そこに『生』は感じられない。姿形は変わらないものの、全ての生命活動が役割を終え、抜け殻のように倒れていた。この時カイムには、この老婆がどこか満足気に映った。
「愚かだねぇ。愚かだけど、大したものだったよ、キミは」
そう言いながら一歩遅れて封印を解いた魔神は、背中まで伸びる長い銀髪を湛えた『器』の鋭く紅の眼光を見据え、不敵に笑った。一か八か、分の悪い賭けにハラを括った笑いだった。
その足元ではニースの傷が急速に癒え、見るにほぼ完治と言える状態となっていた。そして肩まで伸びていた細い金髪は、その長さを腰までに伸ばし、小さな頭を中心に、円を描くかのように放射状に広がっていた。だが未だ目を覚ますこと無く、その場に横臥していた。
彼女の上空では、女口調の男が空中をひっきりなしに飛び遊ぶクーロンに、またも斬り刻まれ、その身を幾つもの肉の塊に変えられていた。血飛沫と肉片が辺りに飛び散る。女口調の男の無残に刈られた首に付いた二つの目は、大きく開き紫の血管が細かく浮き出る。それは、自分自身もまだ気づいていない恐怖の感情を顕していた。




