episode 5 膳立
中空に出現しては消滅し、消滅しては出現する数えきれないほどの波紋。その間を縫うように二枚の薄刃が蒼白い残光を引き、複雑に動き疾駆する。さながら文様を描くかのようであった。
腕を組み余裕の笑みを浮かべ、その様子を見ていた女口調の男は、程なくしてその顔をヒクヒクと引き攣らせた。
「あなたっ! 何をしてるのよ!」
地響きのような声で怒鳴られたクーロンだが、俯き加減で神事で使われる仮面宜しく表情を失したまま、作業に没頭するように淡く光る聖剣を突き出し、二枚の薄刃を操っていた。そして仕上げと言わんばかりに聖剣を右斜め下に軽く薙いだ。斬先が床に触れる。
途端、屋敷を包み込むように襲い来る衝撃は、凪いだ海のごとく消え去り、爪痕だけが生々しく残った。
「『式』を解いたって言うの? 本当に何者よ」
当然と言うべきか、返事は返ってこない。だが女口調の男もそんなものは期待してはいなかった。苛立ちを顕にしながら、右腕を差し出しクーロンへと向ける。そして、中指を弾く仕草を見せた。直後、鋭い円錐状に型どられ歪み渦巻く空間が形成され、クーロンめがけて飛ぶように進んでゆき、そのまま通り過ぎる。その軌道上の床が一直線に抉れ、そしてそこに居たはずのクーロンの姿が消え失せた。
女口調の男はいらだちの表情を深め、見上げる。男の視界の中央には、波紋を足場に空を駆け降りようとする一人のオッサンの姿があった。
女口調の男は口惜しさに、ぎりぎりと音が鳴るほどに歯噛みする。当のクーロンは、感情を失った瞳で男を見定め、その頭上に魔剣を鋭く振り下ろしていた。
「無駄よ」
黒い剣身が何かの力に阻まれるように動きを止める。その様子を目に収め、女口調の男の口角が上がる、笑みが戻る。が、それもつかの間だった。
出来の悪い鐘が鳴らされたような鈍い金属音を響かせ、黒刃に蒼刃が叩きつけられた。その勢いを借り、黒刃は遮る力にめり込んでゆく。クーロンはまたも聖剣を大きく振りかぶり、もう一度魔剣を打つ。
見開かれた男の目に映るは、己を斬らんと向かい来る黒き刃。とっさに顔を左に逸し右手を掲げ、直撃は避けたものの、左の頬が縦にぱっくりと割れ鮮血が流れた。
「乙女の顔を創モノにするとは、いい度胸じゃない」
そのまま足元に着地したクーロンに鉄槌を浴びせようと、わなわなと震える右の拳を固く握り頭上に大きく振り上げる。しかし、その感覚が乏しい。男はふと自分の右に目を遣る。と、そこにあるはずの右腕が存在していなかった。何が起こったのか、この一瞬では理解できず再び足元に視線を向ける。とクーロンの右足元にごろんと横たわる物体が目に付いた。振りかぶっていたはずの右腕が、肩から鋭利に切り落とされ無造作に転がっていた。
男の目が血走る。口元が歪む。体中の毛が逆立つ感覚がする。それは怒りの感情がもたらしたもの、そう思い込んでいた。だが違った。それは男が初めて得た感情に依るものだった。
二人の戦いを尻目に、カイムは己のやるべきことのための行動に移った。
ゆるり余裕を持った動作で、フチクッチの前に立つ。だが、そこは先程とは様子が変わっていた。彼女の足元に臥していた『器』が彼女を護るかのように直立していたのだ。カイムは右手を『器』に差し向ける。すると『器』に触れる寸前で、伸ばした右手は弾かれた。その右手を伝い、体中に落雷を受けたかのような衝撃が走る。だがそれでもカイムは、痛みや感情を表に顕すことはしなかった。差し出した手を寸刻じっと見て、大したことではない、と言いたげにその手をすっと下ろした。
「いくらオヌシとて短時間でこの結界を破るのは無理じゃよ。この体はワシが引き受けよう」
「人間如き、扱えるとは思わないけどねぇ。無茶なことはやめて、素直に諦めて欲しいんだけどねぇ」
「ワシは長いこと魔族についてあれこれ調べておったのじゃよ。そして愕然とした。人類の天敵とも呼べる魔族が、使徒の使いっ走りのような存在だと知ってしまったからの」
カイムの忠告とも捉えることができる提言に、フチクッチは己の思いを打ち明けた。
「憎かった。憎くて堪らなかったわい。世界はワシら人間をどれだけ蔑ろにしようというのか。どれだけ軽く見ておるのかと」
「なんかの教旨かい? 正直付き合っている暇ないんだけどねぇ」
カイムはその独白を興味なさげに気怠い声で切り捨てる。だがフチクッチはカイムの言葉などまるで聞こえていないかのように、とつとつと話を続けた。
「カロリス山脈に張っていた『目』にニースがかかった時、ワシは狂喜したわい。じゃが、同時に魔族と結託した魔術師共にも見つかる始末。これにはヒヤヒヤしたわ。お陰でこれ以上ない程の形でニースを手元に置くことが出来たのじゃから、結果良しとしなければならない訳じゃがな」
カイムは引き結んだ口角をそのまま、深みのある碧の瞳でフチクッチを見詰めた。今はそれしか出来ないからだ。だが視線の先の老女はカイムのその視線を受け止めず、俯いたまま口を動かす。
「またとない機会じゃからの、ニースを利用させてもらうことにした訳じゃ」
と、ここでフチクッチは視線をニースに向けた。カイムは釣られること無く、瞬きもせず老女を凝視している。
「女神とは言えこやつも神じゃ。今は大人しくしておるが、ちょっとの気紛れで世界は滅ぶ。そんなものに情けや罪悪感など、かけらも持ちあわせてはおらぬよ。オヌシにもな」
そう言うと、ここで初めてカイムを見上げた。
「抜け目ないヤツじゃの。そろそろ結界が破られそうなんで、話は終わりじゃ。ワシは魔神の体を取り込み、陰ながら人間を護ることに専念するわい」
『器』に張られた結界、それを解きつつ話を聞いていたがさすがにそう甘くはない。だがカイムは、それがさも当然とばかりに表情ひとつ変えず、言葉を割りこませた。
「取り込まれるだけだよ」
静かな口調で再び忠告する。
「覚悟の上じゃ。ワシの意識が僅かでも残っておったら、それで良いのじゃ」
そしてフチクッチは自らの体に刻まれた刻印に魔力を込め始めた。ただの皺のよった皮膚から白き光を帯びた文様が浮かび上がる。
「自己犠牲は美しいなんて言うけれど、今はそうは思えないねぇ」
だが為すすべなし。今はただ結界の境界で、事の一部始終を見守ることしか出来なかった。
人間の寿命を遥かに超え弱り果てた体に、魔族の急襲で負った怪我。フチクッチは機敏に動かすこと叶わず、両足を交互にゆっくりと進め『器』へとふらつきながら近づく。己の残り少ない命を燃やし尽くすかのように。
刻印の光が増す毎に、苦悶の表情が深く濃く、険しくなってゆく。顔全体に冷や汗が浮かび、歯がガチガチ鳴らされる。そして、耐え切れなくなったのか膝を突きかける。だが、それに耐えた。よろけながらも一歩を踏み近づき、『器』の細身ながらも逞しい背中に右手を添える。そこに展開される白色の魔法陣。小さいものの、その模様の複雑さ、精緻さから、かなり高度な魔術ということは確かであった。
「準備万端って訳かい」
カイムの声がフチクッチの耳の届く。それはいつもの鷹揚な口調。だがそんなことフチクッチは知る由もない。ここに来て何か手があるのか、それとも諦めか。フチクッチの頭にそのような思考が過りもしたが、することは一つしか無いと思い直す。フチクッチは迷うこと無く魔法陣に魔力を込めてゆく。
宿願叶う。フチクッチがそう確信した矢先の事だった。背後から強い魔力を感じ、体の自由を奪われた。
「好きにはさせないよ、おババ様」
振り向いた先には、破れ草臥れたローブを纏い、どちらも光沢なくくすんだ色合いの黒髪黒瞳と無精髭を湛えた細身の魔術師が、指から伸びる十本の糸を、生き物を宥め使役しているかのように自在に操っていた。
「結界の対象を人外の者に絞ることで、その効果を増す。よく思いつくものだね。そしてそんな複雑な術、よく組めたものだよ。だけどこうして人に邪魔されるとは思ってなかったようだ」
鋼糸に五体を巻かれ、蓑虫のようにされた老女が突如現れたカリュケとイオカステを睨みつけ、力の限り声を張る。
「離せ! 離さぬと人類は滅びるわい」
「悪いね。直感に従ったまでだよ。その直感はおババ様の好きにさせてはいけない、そう言っていてね」
感情無き皮肉めいた笑顔。変わり果てたカリュケの顔貌にフチクッチの背筋が冷えた。
暫くは、二人そうして動かず、互いを警戒するように視界の中心に収めていた。だがフチクッチの口角がニヤリと上がると、その均衡が脆く崩れる。
非ぬ方向から不意に殺気を感じ、見上げるカリュケの視界を鉄の塊が覆い尽くした。それはいつも見慣れ、頼もしく思っていた巨大で粗雑な剣。
「何故?」そう言い終える時間も、自分の甘さを憂う余裕も、当然受けたり避けたりする隙も与えられず、体は無残にも熟れ過ぎて地面に落ちた果実のようにぐしゃりと潰れ、寸刻前までカリュケだったものは、ただの粗雑な肉塊に成り果ててしまった。
カイムは当然カリュケのこともイオカステのことも知らない。だが今起きた一部始終を凡そ理解していた。そしてぼそり呟いた。
「全ての物事がキミの掌の上ってことかい」
「三百年、三百年ずっとこのことばかりを考え仕込んできたのじゃ。相手が神とて後れを取るつもりはさらさら無いのでの」
熊のような巨漢の戦士が敵意の視線を向けながら、疵だらけの身体をカイムの横へとじりじり進め、両足を開き腰を深く落とす。そして、その体に見合った大きくぶ厚い剣を右肩に担ぐように振りかぶった。




