episode 17 波紋
「なら話は早えな。その後どうなったか聞かせてくれ」
「知らないよ」
あの時、意識を手放してから何が起こったのか。オレにとっては、喉から唾だの手だのが出てきてしまう程、欲していた話だった。だが、カリュケはたったの一言で切り捨てやがった。聖剣を持つ右手にぐっと力が入り、斬先がぴくりと反応した。投げかけられた怒りを敏感に察知し、慌ててカリュケは両手を肩まで挙げ、改めて降参の意を示す。
「本当に知らないんだ。なぜなら帝国は、その後すぐに多くの犠牲者を放って撤退したからね」
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幼い少女は虫の息だった。全身の力が抜け、瞳孔も開ききっていた。
沸々と込み上げる怒り。それが溶岩のようにどろりと流れだす。帝国での任を解かれ『塔』戻ったカリュケが、最初に持った感情が、それだった。
これが自分の娘の成れの果て……。カリュケは己の目を、己の耳を、己の意識を疑った。
既に安らかかどうかは疑問が残るものの、とうにこの世に居ないものと思っていた。祟るなら祟って欲しい、そう思った。そして、ここではそれが幸せだとも。
だが、彼の思惑は外れていた。娘が『龍』として苦しみながら生き抜いてしまっていたことを、カリュケは今この場で知ってしまった。
くそっ、くそっ、くそっ。何度も心の中で繰り返す。そしてカリュケは、少女の首に手を添えた。
自分も『塔』も、もうどうでもいい。魔族もクーロンも知ったことか。自分がすべき事、それは娘への償い、そう心に言い聞かせた。
歯を食いしばる。ぎりりと擦れる音と共に口元から血が零れた。両手に力を込めようと筋肉を緊張させる。その時だった。
「た……す……けて……」
色の失った小さな唇が震えるように動いた。瞼を閉じる力すら残されていない少女が、振り絞り発した最後の言葉。忘れかけていた記憶が鮮明になる。
シーロンとシオン。方や死を嘆願し、方や生を哀訴する。互いに正反対の言葉を絞りだした似ても似つかない二人の少女。その姿がカリュケの中で何故かぴたりと一致した。二人とも、同じことを言いたかったのではないか。カリュケはそう思えてならなかった。
「ああ、分かった。助けるよ」
カリュケは腕の力を抜き、そのまま彼女の背中に回した。頬を寄せ、そして、涙ながらに優しくそう呟いていた。
『塔』は帝国、王国の目を上手く盗み、魔族の肉体を手に入れることに成功していた。両国に派遣された魔術師が、なりふり構わず動いた結果だった。
カリュケは少女にそれを使った。悪魔の処業とは分かっていた。だが、それでも彼女の小さな願いを叶えたかったのだ。
そしてその日から、カリュケは娘のために生きる、そう誓った。幼き日の後悔を拭い去ろうと必死に抗っていた。
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「そう言うこと……」
諦めたのか、大人しくなったシーロンがぼそりと呟いた。俯くその顔は、喜怒哀楽のはっきりしない形容し難い表情に固定されていた。
「で、今更こんな話を聞かせてどういうつもり? シオンって娘のフリして礼を言えばいいのかしら。それとも、お父さんって呼んでもらいたいわけ?」
「どちらでもないよ。ただ聞かせたかったんだ。君は周りが憎しみばかりと勘違いしているようだったからね。愛されていることを、知って欲しかったんだ」
娘に盛大に皮肉られたカリュケ。だが、その口調は相変わらず低く緩やかに、表情も悲壮感が滲むものの比較的穏やかだった。
「その愛しているって人を縛り付けて抜け抜けと。それともそう言う趣味なのかしら?」
「もう……止めよう。止めて、誰も居ないところで静かに暮らそう」
「虫唾が走るっ!」
急に張られる声。同時に辺りに不穏な空気が走った。
「魔術だ。気を付けろ」
カリュケが娘との会話を切り、短く諌める。そのカリュケは勿論のこと、オレ、イオカステ、そしてシーロン。この場全員の顔が強張った。
オレは瞬時に能力を開放する。どこだ、どこだ、どこだ。緩やかに流れ始めた時の中で、魔力の源を辿る。シーロン? いや違う。魔術を行使している奴がいる。それはどこだ。そして奴らの狙いはどこだ。
「まずい……」
ぼそり呟く魔術師の低い声が、何倍にもなって腹に響くと同時に、気配を察知し感覚神経が勢い良く爆ぜる。とっさに反応し、踏み込み、剣を薙ぐは深紫に光る魔術の矢。一本、二本、三本……。二振の剣を繰り魔術を砕き、飛来する全ての矢を霧散させた。
この単純で脆弱な魔術はおそらくは魔術師のもの。そう当たりをつけ、取り敢えずは糸を斬りシーロンを開放する。そして一旦、能力を収めた。
「中々に嫌われてるみたいだな、アンタ。悪いが自分の身は自分で護ってくれ。どうやらオレ一人じゃ手に負えそうもないんでな」
狙われたのは、あろうことかシーロンであった。そのシーロン、まだ痛むのだろう、右肩をしっかり押さえ俯き無言で佇んでいた。相変わらずその表情は、読めない。
「クトゥネペタムと言ったか。あの女の腕、アンタが喰ったのか?」
【欲たがるはんで、まねんず。わ、なんも悪ぐねはんで】
脳に触れるクトゥネペタムの女性にしては低く少し掠れた声。やはり、分かりそうで分からない。取り敢えずオレは無意識に鼻を掻き、この話を一旦棚に上げ、再び能力を開放する。魔術特有の意識の集中を再度感じたからだ。
【なんぼな】
「すまんな魔剣。オレにはアンタが何を言いたいのか、さっぱり分からんよ」
【お前、言葉も分かんねんずな】
「…………」
自分の意思が伝わらない不満、そのような感情だけが闇色の剣身から朧気に伝わる。オレは、内心引っ掛かりを覚えつつも魔剣を適当にあしらい、辺りの気配を探った。
風に乗り、微かに臭う魔術師特有の薬品臭、遠く聞こえる衣擦れの音、重なる呼吸音。既に囲まれていることをオレは悟る。横目に眺めるカリュケは見開いた目のせいであろう、瞳孔が小さく見えた。そして少し口を開き、現状を理解しがたいとばかり思考が止まっている、そんな石膏で固められたような表情を浮かべていた。似たような顔をしているかもしれない。オレは自分自身をそう思った。
再び魔術の気配。それも辺り一帯からほぼ同時に浴びせられる。狙いはおそらくシーロン。果たして……。
「なぜ……」
未だ色をくすませた表情から、消え入りそうな声がした。だがそれは少女の悲痛な叫び声、オレはそう感じた。
次々と弾けるような感覚がオレを刺激する。魔術の発動だ。背後をすり抜ける深紫の光。オレは上半身の捻りだけで魔剣を振った。布を裂いたような音を発して、最初の一矢を斬り落とす。そのまま前方に大きく踏み込み聖剣を振り下ろし、二矢目を消した。そして魔剣の刃を立てたままシーロンの脇を抜け、腕は振らず剣の移動だけで三矢、四矢と消した。
頭を低くとったオレは、眼球だけで見上げる。そこは、一面に深紫に染め上げられた光が、オレ達を覆っていた。
思い出すは、あの時の……。魔術師が無表情で詠唱を唱えている横で、ドス黒い血がべっとりと付着した斬先をオレへと向け、シュナイベルトが嘲笑う。オレが左目を失ってしまったあの光景も、深紫の光が慣れない片目に映るオレの視界を埋めていた。心の奥が怒りで蠢く。膨れ上がる闇。それが不安定に漂う精神を徐々に浸し、底へと引きずり込もうとしている。
【マスター。能力を収めるのです。早く……】
クテシフォンの甲高い声が遠のく。それに取って代わるように、低い声が地響きのようにオレの神経を震わせた。
【喰へろ……喰へろ……喰へろ……】
ごそり。精神が持って行かれるような感覚がオレを襲う。どっぷりオレの心を満たしていた闇が、すうっと退いてゆく。
【旨……旨……旨……旨……】
寸刻ぼやけた意識の輪郭が、像を結ぶかのようにはっきりと認識した。そこには見たこともない現象が起こっていた。空が歪む。揺らぐ。宙に浮かぶ幾重にも重なった幾つもの波紋。それがオレ達を覆い護っていた。
【旨……旨……旨……旨……】
魔法を……喰らっているのか? 間断なく浴びせられる深紫の矢が、円を為した歪みにすうっと吸い込まれ、消えゆく。
皆、呆然としていた。当然オレもその一人だった。瞬きすら忘れていたかのように、数えきれない程の魔法の矢が無効化される様子を、各々目に収めていた。
なにが起こっているクトゥネペタム! オレは心話で呼びかける。
【旨……旨……旨……旨……】
だが返事はない。一心不乱に何かを貪っているような、そんな感覚だけが脳内を駆け巡った。
【怒りを媒介にマスターの闇を喰らって暴走しているようなのです。おそらくは満足するまで収まらないのです。そして……】
そして何だ? 焦りの感情に載せ、オレはクテシフォンに問い詰める。
【そして誰かさんにそっくりなのです。変人】
うるせえよ、ナマクラ。と、心話で返すも、その憎まれ口をよそに、蒼刃からも焦燥が伝わってきた。怒りで食欲を刺激したってわけか。つくづく訳が分からん。だがそのお陰でオレ達は助かったってのは事実。そしてその何とも言えない禍々しさに、背筋が薄ら寒くなったってのも事実であった。
突然だった。宙に浮かぶ波紋が魔術を貪り、視線はそこに釘付けにされていた。その時、不意に強い気配がオレの皮膚を刺激した。身に覚えのある刺激。苦み走った嫌な刺激。それが脳へと伝わり、脳が振り向けと指示を送る。映る視線の先には、銀髪紅眼、黒の導師服を纏った一体の男が、カリュケの頭頂目がけ、剣を振り下ろそうと肩口に振りかぶっていた。いや、一体ではなかった。似たような男がもう一体、カリュケの命を奪おうと剣を薙払う構えをとっていた。ここに来て魔族殿のご登場である。
ちっ。気配までまるごと喰らいやがって、おかげでこんなところまで接近を許しちまったじゃねえか、この悪食が。舌打ちと同時に、心話で一言文句をたれ心を落ち着かせると、目に付いたのは、蹲り動かない何体もの裏返だった。そうかよアンタ達、アレをエサにしたってのか。魔族は魔獣と同じく瘴気を喰って現世に顕現する。そのための瘴気を裏返から掻っ攫っていったのだと予想した。裏返が急に動きを止めたのは、別にシーロンが捉えられてのことではなかったのだ。スッカラカンになるまで便利に使われるヤツ達が、少し不憫に思えてしまう。
間に合わない。緩やかに流れる時間の中でカリュケと魔族を纏めて目に収め、オレはそう悟った。
違和感、とでも言えばいいのか。今までにない感覚が目覚めたのは、その時だった。




