episode 15 糸使
「そしてオッサン、お前の力に魅入られ、畏怖した者の一人だ」
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薄汚れた顔、やせ細った腕、肋は浮き出し、お伽噺の子鬼の様に腹だけが丸く膨れていた。まるで醒めない夢でも見ているかのような虚ろな目で、とぼとぼ何処へ向かうともしれず歩く。それが、戦に巻き込まれ身寄りを失った幼いカリュケの姿だった。破れ、汚れ、赤黒く染まった衣服から覗く深い切創と夥しい熱傷が、ここで起こったことの凄惨さを物語っていた。
カリュケは運良く、と言って良いものかどうか今となっては疑問が残るところであるが、偶然通りかかった魔術師の目に止まり『塔』へと連れて行かれた。その魔術師は感傷的になったわけでも慈悲深かったわけでもない。彼には、『塔』には、カリュケが必要だったのだ。いや、厳密に必要だったのはカリュケ本人ではない。幼い子供が必要だったのだ。
『塔』に着いたカリュケは何人もの子供と共に、一つの部屋に押し込まれ、そこで新たな生活を開始することになった。部屋は、粗末に設えられた石製の壁が四方を覆っていた。窓はなく、いかにも頑丈そうな木製の大きな扉が一つ、それがその部屋に存在する唯一の『物』だった。魔術によるものだろう、昼夜を問わず橙色の薄明かりに照らされ、壁に空いたいくつか隙間からは、カリュケにとっては嫌な気分の風、と言うよりかは微かな空気の流れが、絶えずそよそよと吹きこまれていた。
ここでは特に何かをするわけではなかった。朝起きて、食事を摂り、自由に遊び、夜は寝る。子供達が与えられたもの、それは清潔な衣服と生きてゆくために必要な食料、そして履き違えられた自由だった。自分の布団や遊具、空や星を仰ぐ権利すら与えられなかった。だが、子供達は何一つ疑問を持たず、幼さゆえの柔軟性を存分に発揮させ、徐々にではあるがその生活に慣れていった。
時には喧嘩にもなった。だがそれを止めるものは、自分たちの他に誰もいなかった。法も規律も秩序もなく、子供達はただなおざりにされていた。
だが、そんな代わり映えのない日常は、そう長く続くことはなかった。にじり寄るように、ぎらつきを増してゆく双眸。これがこれから起きる出来事の始まりだった。
その少年は体は大きく比較的年長の部類だった。世話焼きで優しく、喧嘩の仲裁も積極的にこなしていた。開いているかどうか見極めが難しい細く小さな瞳は、そんな彼を象徴するかのようにおっとりと目尻を下げ、カリュケのような小さな子供達にとって、この狭い無法地帯で数少ない安心のできる事柄の一つであった。だがその少年は、徐々にではあるが苛立ちを顕にすることが増えてきた。きつく睨み大声で怒鳴る。彼を慕う子供達も一人二人と離れていった。
事件は唐突に起きた。喧嘩をした幼い子供達の仲裁に入った少年。ここまでは単なる日常の小さな出来事であった。だが、その日得られた結果はそれまでとは違っていた。成敗にしては度が過ぎた。一人は腕の関節が一つ増え、一人は口から赤く染まった液体を吐き出し、二人仲良く呻きながら蹲っていたのだ。
事の一部始終を目の当たりにし、カリュケは部屋の隅で縮こまっていた。見ると近くに数人、同じように膝を抱える子供達がいた。
この恐怖は数日続いた。だがそれもあっさりと取り払われた。魔術師により少年は、この部屋から無理矢理退室させられたのだ。高熱を上げ、もはや虫の息となっていた二人の幼い少年も一緒だった。
カリュケは少年が何処へ連れて行かれたのか、知ることはなかった。気にはなったものの、頭の隅に追いやった。
それからというもの、同様の事件が頻発。同様に魔術師たちが介入することで、事無きを得ていた。それが何度も何度も続いた。
そして一年ほどの月日が流れた。その時は既に、カリュケとシオンと名乗る幾ばくか年上の少女だけがこの部屋の住人となっていた。
ある日のことである。
「ねえカリュケ、お願いがあるの。私を殺してくれない? 私もなんか、おかしくなっちゃったみたい」
シオンはそう言って苦しげに笑い、顎を上げ首元をとんとんっと人差し指で軽く叩いた。ここを絞めろ、そう意味していることは幼いカリュケでも判断がついた。
カリュケは指示されるがまま、その細い頸筋にそっと手を添え目一杯力を込めた。喉がひゅうひゅうと鳴った。彼女が震えているのが分かった。顔は紅潮し、口と目がぱくりと開いた。
カリュケは、ふと視線を下げた。彼女の両手は苦しみに耐え、抵抗を拒むかのように、必死に握られていた。そこで限界が来た。
幼いカリュケには、彼女を絞め殺す握力も度量もなかった。疲労が募り心が折れる。喘鳴を繰り返し苦しむシオンにカリュケは耐え切れず、徐々に弱まってゆく力を抜き、とうとう両手を離してしまった。
彼女の顔は、零れた涙と唾液に塗れ、ほぼ全体が濡れていた。だがカリュケはそれを汚いとは思わなかった。なぜだか美しいとさえ思った。彼女は、何度も何度もげほげほと嘔吐にも似た咳を繰り返し、それが暫く続いた。カリュケはそんな彼女を、黙りじっと見つめていた。
カリュケが眠りにつく頃、彼女が落ち着きを取り戻した。そして、ぼそり、呟いた。
「ごめんね、カリュケ」
この時のシオンの泣きはらした腫れぼったい目と、涙を伝った跡がカリュケの記憶にずっと残った。そしてそれが彼女の最後の言葉となった。後にカリュケはこの時寝た振りを決め込み、何一つ言葉を返さなかったことを悔やむこととなる。
翌日からシオンは別人となった。最初は食事も摂らず、黙って部屋の片隅で膝を抱え蹲り何かに耐えている様子が続いた。だが数日後、それはカリュケが寝静まった頃だった。寝苦しさに目を覚ますと、自分の上にシオンが跨っていた。二人の視線が対向して重なった。すると彼女は怯えたように飛び退り、再び膝を抱え沈黙してしまった。
幼いカリュケはそんな彼女が恐ろしかった。声を掛けることは疎か、近寄ることすら避けてしまっていた。
翌日は何も起こらなかった。しかしその翌日、眠っていたカリュケの上に再びシオンが馬乗りになっていた。そして、あの日の返礼とばかりに、その手をカリュケの青白い頸筋へ添えた。指にぐっと力を込めた時、カリュケは苦しさに目を覚ました。見上げた顔は、泣いていた。泣きじゃくりながら、両手に非ぬ限りの力を込めていた。その目に宿す感情は狂気と、そして悲しみ。カリュケが後に嫌というほど見せつけられることになる目つきであった。
カリュケはふと思った。あの時殺してあげることが出来なかった、だから今度は彼女の思うようにしてあげよう。
力尽き意識が遠のく。だがそこで、シオンの指が外れた。
意識を取り戻した時、彼女はもうその場所には居なかった。そしてそれ以降カリュケはシオンに会うことは決して無かった。
一人になったカリュケはその数日後、魔術師に連れられ部屋を後にした。螺旋を描く階段を登り、辿り着いた先でフチクッチと名告る一人の老婆と対面した。老婆はカリュケの頭にそっと手を置き、優しく告げた。
「カリュケ、お主は魔術師になるのさ」
カリュケは幼いながらに、この老婆は自分に謝罪をしているかのように感じていた。
カリュケは後に知る。人間は濃い瘴気に晒されると裏返る。だがごく僅かだが、魔術師の資質を持つ者が現れるのである。カリュケはそれから他に選択肢も与えられず言われるがまま、魔術師として生きてゆくこととなった。
『塔』はその後も幼い子供を連れてきては、瘴気に晒すことを繰り返した。そして少しづつ、カリュケのような魔術師を増やしていった。
ある日のこと、『塔』は偶然、人の意識を保つ裏返を捕獲した。そしてその裏返りは地下深くの鉄格子の奥で赤子を出産した。
その赤子は、どれほど瘴気に晒しても裏返ることがなかった。拷問にも似たあらゆる苦痛にも耐えきった。『塔』はこの子を『龍』と呼び未来を託した。
だが、その子も母親の喪失にだけは耐え切れなかった。逆上した五歳の子供に『塔』は壊滅寸前にまで追い込まれたのである。カリュケは運良く生き延びた一人だった。だがその恐怖は、その後も彼の心の奥底に大きく長く巣食うこととなる。
『塔』は組織の立て直しに着手した。時に王国と帝国の大戦のまっただ中、子供の調達は容易であった。『塔』は精力的に暗躍し、戦争を長引かせ着々と人員を増やしていった。
組織再建も落ち着きを見せ始めていた頃、『塔』は新たな『龍』の誕生に着手した。『塔』最大の存在理由、魔族に対抗する手段の模索。それは避けて通ることの出来ない事案であった。『塔』が築き上げ蓄積した歴史上、瘴気に晒して裏返ることなく一歳を迎えた赤子は僅か九人。二歳を迎えたのは前の『塔』を壊滅寸前にまで追い込んだ九番目の『龍』ただ一人だけだった。そしてその九番目の『龍』は『塔』存続の危機と引き換えに『塔』に可能性を与えてくれた。魔族に対抗できるかもしれないということを……。
普通の赤子では瘴気にとても耐えられない。総結論づけた魔術師達は『普通』ではない赤子を産み出すことから始めた。
まずは九番目に肖った。身籠った女性を瘴気に晒したのだ。だがそれは尽く失敗に終わった。裏返った妊婦は例外なく、お腹の我子を異物と見做したのである。ある者は己の腹を食い破り、ある者は引き裂く。それは凄惨な光景となった。
裏返の男女を番にしようともした。だが、そうはならなかった。
ならばと『塔』が考えたこと。それは瘴気に耐性を持つ魔術師同士に、赤子を産ませることだった。かくして魔力の強い男女が数名集められた。そこにはカリュケの姿もあった。彼ら彼女らは望まぬ形とは言え赤子を産み、そしてその子を『塔』に捧げた。だがやはりと言うべきか、その多くは裏返り、弱り、姿を消していった。
一年が過ぎる頃、一人の女の赤子だけが裏返ることも命を落とすこともなく、生き残ることに成功した。それがカリュケの子、十番目の『龍』、シーロンであった。
その頃、当のカリュケは『塔』からの指示で帝国に所属、従軍していた。大戦は、開戦こそ両国の利権に関わる問題だったのだが、今となっては『塔』に操られ茶番と化していた。だが茶番とは言え、いくら魔術師といえど命を落としかねない。『塔』は鋼糸『ニウト』を操り、戦闘的な魔術を多く扱い、己の護身にも長けたカリュケを帝国に派遣したのだった。
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ここでカリュケは小さく一息つき、乾いた唇を舌で湿らせた。瞳孔が開いた漆黒の瞳は、何も映していないかのように、いや、ただ何かを映しているだけ、そのように思えた。
「この時はまだ自分の子供が生きているなんて思っても見なかった。人でなしだよ」
そして、体に『ニウト』が絡み藻掻くシーロンにその視線を向けた。
「折角の親子の再会がこのような形となって済まなかったね、シーロン」
だが彼女は聞いているのかいないのか、何事もないかのように身体をくねらせ糸を解こうとしていた。が、その度糸は複雑に彼女の体に絡みつき、その動きを阻害してゆく。
カリュケは再び視線を自分の足元に戻し、低い声で訥々と言葉を紡ぎだし始めた。




