episode 14 張巡
だが、取り敢えずは妹とやらの始末が先決である。オレは魔剣の声を一旦頭の隅へと追いやり、再び目の前の少女へと意識を向けた。
その少女は木陰で腰を落としていた。だが右脚は何時でも踏み込めるよう膝を折り、足裏はしっかりと大地を踏んでいた。
少女はちらり視線を左に背けた。それは一瞬。そして脹脛の筋肉が少し盛り上がる。それも一瞬。
オレは間髪入れずに、彼女の視線の先へと飛んだ。
まるで稲妻のようだった。あまりの速さに自分の身体を持て余す。これが聖剣に上乗せされた魔剣の力なのだろう。
彼女が視線を向けたそれは、獣のように四足で走る一体の裏返であった。だが馬や鹿のような洗練された動きはなく、実にちぐはぐに四肢を動かしていた。喰うにしろけしかけるにしろ、この粗末な紛物に活路を見出そうとしたのだろう。
瞬きする間もなく、その裏返がオレの目の前にいた。いや逆だ。オレがそれの目の前へと躍り出たのだ。
剣を振る間もなかった。オレは已む無く勢いのまま、裏返の顎を目がけて右膝を繰り出す。どすんと鈍い衝撃が膝から体に伝わると同時に、涎を滴らせながらだらしなく舌を出し歯を剥いた大口は、強制的に閉じられる。裏返は反応する仕草すら見せず、その体を起こし、仰け反り、倒れた。オレはすれ違いざま体を反転させ、声を上げる間も与えず、その胸と腹に二振の剣を突き刺し止めをさす。黒い剣身が触れた周囲が黒ずみ干からびる。魔剣に喰われているのであろう。背筋に軽い寒気を感じた。
最後、ごふっと喉から音を出し、裏返の体はその機能を全て止めた。
オレは、両足を踏ん張り後退を止め、地面に向いた顔をあげる。視線の先には少女が目も口も大きく開き、はっと呼吸を止めながら、勢いのついた自分の身体を制動していた。
彼女の足元から泥が跳ね、オレへと届く。それが疵口に入り込み僅かに滲みた。
少女は崩れた体勢を立て直し、力なく佇む。そして小さな声を発した。
「あなたは何故、こんな世界を護ろうとするの? この世界の人間はあなたに何をしてくれたっていうのよ?」
逃げ道を塞いだこと、それ以上に魔剣を奪われたことで、万策尽きたのであろう。オレへ問いかける少女は、酷く怯えているように思えた。そして諦観しているようにも思えた。
「こんな七面倒な世界なんざ正直どうでもいい。滅びるなら滅びてしまってもいいとさえ思うよ。だが、まあ、オレにはやることがあってな、とにかくそいつを片付ける。そんだけだ」
「窮屈な生き方ね」
「ははっ。奇遇だな。オレもそう思うよ」
微妙に口角の上がった皮肉げな笑顔を向けられ、同様の笑顔を返す。オレが経験したなかでは、最低に気分の悪い笑顔の交換だった。
「あなたほどの力があれば、皆、簡単にひれ伏すわよ。あ〜あ、くだらない。あなたって本当にくだらないし、つまんないわ」
そして、彼女は吐き捨てるように言った。だがオレはその時、ヤーン、カイム、サクヤ、カムラン。そしてニース。皆の顔が頭に浮かんでいた。
オレのやること。そう、それは柄にもない約束だ。昔の自分なら彼女の言う通り、くだらんとばかりに肥溜めあたりに捨ててしまうであろう。ところが今やそれを背負おうとする自分がいる。いや、違う。それに縋ろうとしている自分がいるのだ。
自身の甘っちょろさに、鼻から大きく息を吐き呆れ顔を浮かべたオレを、何を勘違いしてかシーロンがぎりっと睨みつける。
オレは表情をそのまま、クテシフォンを振り被り、左を一歩じりっと踏み込んだ。湿り気を帯びた柔らかい土に、左足が少し沈む。
「訊きたいことがある。皇帝はどうした?」
「裁判人気取りね。虫唾が疾走る」
それでも十四歳の少女である。立ちはだかる自身の死がいよいよ迫ってきたからであろう、その言葉とは裏腹に大きな瞳には涙が浮かんでいた。
「答えないのなら、それでいい。たいして期待はしていなかったしな。そして悪いが、オレはアンタを裁く権利はねえし、その気もねえよ」
「じゃあ……」
か細いが明るい声音。彼女の表情を覆っていた翳りが少し晴れる。
「だが邪魔だ。もう、楽になんな」
オレは聖剣の構えそのまま、無慈悲に告げた。さぞかし憎しみ深いであろう彼女は、敢えてオレに聞かせるかのように、口元を歪ませ大きく態とらしい舌打ちを一つ鳴らした。
「裁判人じゃなく下品な執行人ってわけ。最低ね、あなた」
「同感だ」
「まあ、いいわ。生きることなんて、別にどうでもいいもの。それに運命なんて最初から決まっているのでしょうし」
シーロンは面白くなさ気に、にやり、投げやりな笑みを零し、在り来りで薄っぺらな哲学を語りだした。が、そんなもんに付き合う義理も興味もない。オレは、軽く吐き捨てた。
「物分かりいい妹で助かるよ」
「好きであなたなんかの妹になったわけじゃないわ」
上っ面を滑るかのような空虚な会話に嫌気が差したオレは、黙り右脚に力を込めた。己の最期を悟ったのか、シーロンの表情が強張る。
と、不意に感じる違和感。オレを取り囲む魔力の気配。一瞬だ。一瞬で何かが起こった。オレは能力を開放し、そして警戒した。
そこでオレの目を捉えたものは、既にオレを取り囲んでいた糸だった。だが、それは問題ない。前に広範囲に張り巡らせたものだろう。ただ、その糸は魔力を帯び、オレに襲いかかる動きをしていたのだ。シーロンが操っているのか? だがその気配は感じ取れない。今、彼女は魔力すら発してはいない。なら誰が?
オレは周囲の糸を斬り、魔力の残滓を辿った。そして驚かずにはいられなかった。付き従うように巨剣を構えるイオカステの影で、カリュケが己が指先から伸びる十本の鋼糸『ニウト』に魔力を注ぎ操っていたからだ。
同時に糸はシーロンに絡まり、彼女の体をも拘束しようとしていた。藻掻くも、片腕を失い弱った今の彼女に、ニウトから逃れる術はない、そう思えた。
オレはカリュケとの距離を詰めた。イオカステの肩当てを蹴飛ばし、聖剣の斬先をカリュケの喉元に突きつける。ヤツにしてみたら刹那も感じなかったであろう。
そして能力を収める。
イオカステはたまらずその巨体を無様に転がしていた。オレは視界の隅にシーロンを収め、彼女へ魔剣を向けながらカリュケに問い詰める。
「何故そんなふざけた真似をする」
「ふざけた真似って、彼女を取り押さえたことかい?」
斬先が皮膚に触れ、つうっと血が流れた。これは恍ける男への、オレなりの警告である。
「それと、オレを簀巻きにしようとした真似だ」
カリュケの喉元が動く。オレはもう一度静かに問い詰めた。
「何故だ……」
そして、魔剣の斬先をすうっと傍らへ動かし、巨剣を握りしめながら片膝を突くイオカステへと向け、睨みつけた。視線の先の大男も、オレの隙を窺うように睨みつける。その視線には、今までこの男からは感じたこともない程の憤りが篭っていた。
オレは、イオカステに見下すような笑顔を一つくれてやった。安い挑発である。だがこの程度でも、この男の気性から、しっぽを出してくる可能性があった。すると男はびくりと全身に力を込める。が、カリュケの喉元に視線を送り、体勢を維持したまま、ぎりぎりと歯を鳴らすに留まった。よくも調教されたクマである。
「オッサン、彼は関係ないよ。イオカステもやめるんだ」
落ち着き払った低い声に諦めをの感情が載る。じりっと半歩後ずさり、小さくため息を吐くカリュケは、シーロンへと視線を送った。
「もう辞めよう。頃合いだ」
諭すように告げられた当の本人は、怒りの矛先をオレから細身の魔術師へと変えていた。俯き黒曜石のように重く艶めいた黒色の長髪が、滝のように垂れる。その隙間から僅かに覗く紅の唇はわなわな震え、瞳に滲んでいたであろう涙が、次々と尖った顎を伝い滴り落ちた。
クテシフォンを握る手に力が込り震えた。斬先に触れる青く血管の浮き出た白い頸筋。それを、今すぐに割斬ってしまいたい衝動を抑え、オレは、二、三度深呼吸を繰り返す。そして、ゆっくりと言葉を選びながら口を開いた。
「説明しろ。アンタとこの女とどういう関係だ。そもそもアンタ、何者だ? 一連の騒動はアンタが仕組んだ、は、言い過ぎかもしれんが、アンタが一枚噛んでいる。そう見ていいんだな」
カリュケは目を閉じ、自分を嘲るかのようにふっと笑った。妙に様になる仕草がオレを苛つかせる。そして漆黒の瞳でオレを見据え、無精髭が疎らに生えた口元を引き締めた。
「ああ。ある意味では、そう取れるかもしれないな」
その一言にいち早く反応したのは、オレではなくイオカステだった。雄叫びを上げ、立ち上がり巨剣を大きく振りかぶる。そして鉄製の足甲に包まれた大きく太い足を、威嚇するかのようにどんっと踏み込んだ。
「止めろっ!」
オレは向けた魔剣をそのまま、イオカステに怒鳴りつけた。
「まずはこの男の話を聞いてからだ」
そして宥めるような口調で大男を諭した。イオカステは肩の力を抜き、ゆっくりと巨剣を下ろす。がその大きな体に似合わない小さな両目は未だ力を込めたまま、カリュケに向け睨みを利かせていた。
と、カリュケの口から、この場に相容れないような穏やかな低い声が発せられた。
「何から話せばいいのかな。まずはこれだけは言わせてもらおうか。シーロン、彼女は自分の娘なんだ」
オレの妹の父親? ならばカリュケはオレの……。
【アホなのですか。今までの状況を鑑みるのです】
【んだねし】
甲高い声と低い声。二振の剣の声がオレの頭に響いた。




