episode 11 双龍
少女は梢から細っそりとした体を宙に投げ出し、すとんと軽快に降り立った。
この場にそぐわない漆黒のパーティードレスの裾がひらりと舞う。それは宝石もリボンも金糸の刺繍も、装飾らしきものは何一つなかった。少女のきめ細かい真っ白な肌が、一切他の色に染まる気配すらない単純な黒に映えた。
オレは彼女に向けた視線を次々と動かした。最初は整った顔に、次に華奢な体に、そして右手に持つ黒く巨大な戦鎌に、最後に腰に差されたものに。
視線に感づいたのであろう、少女は含みのある笑顔をオレに向けた。
軽く自身の身の丈を上回る大鎌を片手で軽々とくるくる回し、とんっと左肩に担ぐ少女に、オレの鼓動はけたたましい警鐘のように激しく打ち鳴らされた。
掌にはなんとも嫌な汗が滲み出ている。そんなオレをよそに少女は表情をそのままに、値踏みするかのように、視線でオレを舐めまわしていた。
「誰だよアンタ」
憮然とした態度を維持しつつも、生唾を気づかれないように飲み込み、恐る恐る尋ねる。
「人に名を訊く時は、まず自分から名告るのが礼儀ではなくって? 相手が淑女ならなおのことでしょ」
少女はおちょくるように口端を吊り上げ、空を指した人差し指をくいっとオレへと向けた。その一連の動作に小さな苛立ちを覚えたオレは、似たような表情を返し嘯いた。
「淑女だあ? ションベン臭えガキのくせに能書きは一丁前なんだな」
軽く俯き拗ねたように唇を尖らす仕草は、まるでただの少女のように見えた。が、すぐにその愛らしい容姿からは想像もつかない、鋭く尖った刃物のような視線がオレの隻眼を穿った。
緊張が抑えられない。口から漏れでる呼吸音が耳につく。じとりと湿った両手に収まる聖剣に心地の悪さを感じ、探りながら握りを直した。
「いいわよ。答えてあげる」
と、少女の姿が霞む。そして頭上から殺気。闇雲に振り上げたクテシフォンが、衝突音を発し戦鎌の進行を遮った。
鈍い音とともに衝撃が振動となって右手に伝わる。目の前には両手で戦鎌を振り下ろし、呆れたように口を開く少女の姿があった。
初動がまったく見えなかった。予測も出来なかった。今は運良く防いだに過ぎなかった。疾すぎだ。
少女は充分に間を置き、その呆けた口を動かした。
「あなた何者? まさか本当に名告ることになるとは思わなかったわ。私はシーロン。あなたは?」
言い終わるやいなや、飛び退り距離を取る。そして大鎌を再び左肩に担ぎ右手を腰に当て、余裕の構えをとっていた。
なるほどコイツが十人目の『龍』で、『塔』を殲滅した張本人で、今や魔族と結託し帝国を牛耳っているであろう黒幕で、斬り伏せる相手というわけだ。
オウブを持つ手で鼻を掻きながら、オレも彼女に倣い一拍間を置く。
「なあ訊きたいんだが、そういうのも淑女の礼儀ってやつなのか?」
互いに目を合わせ、互いにニヤついた表情を交換した。
「まあいい、オレはクーロン。名前くらいは聞いたことあるだろ?」
オレの顔を見つめる少女の目が一瞬見開き、体の動きが僅かに止まった。初めて顕にしたであろう微かな感情。だがすぐさまそれを隠すように、彼女は嫌味なほどの笑みを作りなおした。
「あら。これは知らぬこととは言え失礼いたしましたわ、お兄様。ご機嫌はいかがです?」
「初めて会った妹が、知らない間に立派なバケモノに成長して、出会い頭にでっかい鎌を振り下ろしてきたんだ。こんなに嬉しいことはないよ」
肩をすくめるオレに、シーロンは手背を口元に当てくすくすと笑った。
「まあ、お戯れを」
お戯れは危なっかしい鎌をぶんぶん振り回すアンタだろ……。
だが、その言動はわざとらしくもあったが妙に馴染んでもいた。
「お気に入りの人形が壊されたから、何事かと思ってきてみれば……。ねえ、お兄様。お願いがあるの」
呪文か何かのように口ごもった低い呟きが、はっきりとした声に変わる。
対するオレは黙り口を引き結んだ。なのに彼女は構うことなく笑みを維持したまま言葉を続けた。
「私の仲間になってくれない?」
「アンタの仲間になることで、何の得があるんだ?」
ぶっきらぼうにオレは言う。彼女は気にする素振りを見せず、さらりとした艶のある黒髪を楽しそうに指に巻きつけていた。
「兄妹じゃない。それに、人間共をメチャクチャにしてやるのよ。お兄様にだって恨み事の一つくらいはあるでしょう? あなたが何をされたかくらい知ってるわよ。おばあちゃんから色々と聞いたもの」
口元が大きく横に開かれ表情の深みが増す。瞳に隠った力が溢れだし、冷たい威圧感となってオレを襲った。
「なるほどな。昔のことをウジウジと恨んでいるわけか。そんなアンタに似合いの言葉がある。折角なんでオレの口から贈呈してやるよ」
「まあ、なにかしら」
互いの駒をやりとりするような会話が続く中、いい加減うんざりしてきたオレは、そろそろ終止符を打つことにした。
靴の中でぐっと足趾に力を込めた。そして見下すような目線を向け、大きく口を開いた笑顔を見せつけた。
「くだらんね」
指に巻きついた黒髪がするりと解け、目の前の少女が気配ごと消失した。
オレはすかさず能力を開放する。予告もなく急に『呪』を押し付けられたクテシフォンから、驚き、そして非難じみた感情が流れこんできた。
全ての感覚が一気に跳ね上がり世界が唐突に変わる。急激な変化が悪酔いしたような嫌な気分となり、オレに覆い被さってきた。
目を瞑りたくなる気持ちを、気持ちで抑え周囲に感覚を張り巡らせた。
右後方から近づく気配。少女のものである。この一瞬でそこまで移動したと言うのか。
魔族も疾かった。人形と呼ばれた鈍色の裏返も疾かった。だがこの少女の疾さは常軌を逸していた。
先程はオレにまっすぐに攻めて防がれた。まぐれに等しいそれを、彼女はそうは思っていなかったようだ。だから今度は搦手で攻めてきた。
オレは視線だけ動かして彼女の姿を視界の隅に収めた。そして腕の振りと軽い腰の回転でクテシフォンを横に薙いだ。刃も立っていない気の抜けたひと振り。だがそれで良かった。これはシーロンの前進を止めるためのひと振りだったからだ。
少女は自身の行動を見透かされ、表情が一瞬にして失せる。オレは動きを止めた彼女の頸筋めがけてオウブの斬っ先を向けた。見極められることを恐れたオレは、初動を極力抑え自然体からすうっと攻撃に転じた。
彼女は腰を落とし左足を大きく踏み込んできた。突きを避けあわよくばオレをなぎ倒す、そんな意図を察した。悪いが罠にかかったようだ。オレは右足を、踏み込んだ彼女の左足に重ね、そして突きの軌道を少女の頸筋へと合わせ直した。能力のなせる業である。
だが、さすがに頸を取らせてくれる程甘くはなかった。躱すも護るも封じられた少女は体を捻った。頸筋の代わりに華奢な左肩が紅刃の餌食となり突き刺さる。オレはそのままオウブを押し込み、そして接近したみぞおちに左膝を食い込ませた。たまらず腰を折る少女。体がくの字に曲がった。
見下ろすそこにあるは小さな背中。軽く過る躊躇いを噛み殺し、そこにクテシフォンを振り下ろした。
戦鎌がくるりと回った。
そして少女の背後を覆う。
背中を僅かに斬りつけたところで衝突音が響く。蒼刃が太刀打ちを滑り、軽く肉を削ぎ通り過ぎた。
危を脱した少女は転がりながら遠ざかり、左膝をつきオレに正対した。
先ほどまでの余裕を持った笑顔はどこへやら、口元を歪ませ、そこから僅かに覗く歯はぎりぎりと擦られる。目元を吊り上げ、憤怒に苦痛と焦燥を滲ませたような表情を浮かび上がらせていた。
警戒しながら一歩、二歩、三歩、少女へとゆっくりと近づく。だらりと両手を垂らす構えを維持したまま、いつ何時でも間合いを詰めることのできるよう体勢を整えていた。
不意に周囲が紫紺の光に包まれる。下草が茂り不規則な地面に浮かび上がる規則的な幾何学模様の魔法陣が、オレの足元を中心に展開された。見るとシーロンは痛むはずの左腕を前へと伸ばし、オレに向け掌を翳していた。術を組んだのであろう。耐え難い痛みを隠し切れずに、今まで崩されることはなかった薄く整った唇が歪められる。その形相に彼女の執念を感じた。
オレは顔を前に向けたまま視線だけで足元を見やる。そして魔力の流れを視認、両聖剣を肩の高さまで持ち上げ魔法陣めがけて突き刺した。魔族のものとは違う、魔術師由来の脆弱な魔術はこの一撃であっさり相殺され、光はランプの油が切れるかのようにすうっと消えていった。
「くっ、あなたこそバケモノじゃない」
シーロンは初めてお目にかかったであろう『魔術砕き』によって、いとも簡単に術を解体され、驚き目を剥いていた。だがそれでも次の行動は迅速だった。




