episode 9 裏返
戦況を広く見渡すとそこは、只々混乱していた。敵と味方、怒号と叫声、血と泥、そして魔獣とが入り乱れ、陣形、秩序、規律などという組織的なものは、なにもかも打ち砕かれ木っ端微塵の様相となっていた。なかなか目にすることが出来ない、歪で不細工な戦場だった。
ただ明らかなことが一つ。裏返の群れが、この醜い場を演出し支配していたことだった。
「らしい戦だな……」
裏返の醜悪な姿形を頭に浮かべ、一人呟く。そして静かにクテシフォンに告げた。
「突っ込む」
【分かったのです】
オレに倣い静かな言葉が、頼りになる相棒から返ってきた。安心にも似た感情が湧き上がる。オレは深く呼吸し、左に握るオウブに意識を集中した。すると決まって右手に収まる大きな青白い剣身を誇る聖剣クテシフォンから、ちくっとした感情が流れこんでくるのである。
「また嫉妬か?」
【し、し、嫉妬のわけがないのです。バ、バカにしないで欲しいのです】
小鳥のように甲高い声でどもる聖剣に、自然と溢れるは嫌味な笑顔だった。我が事ながら、これまたいい性格をしている。だが交わす言葉に居心地の良さを感じていた。
【こ、こんなガラクタに頼らなければならないマスターが、不甲斐ないだけなのです。本来ならワタシだけで充分なのです、ノータリン】
クテシフォンをしてガラクタと言わしめたそれは、銘をオウブと言った。皮肉にも聖剣クテシフォンを模し、王国の魔術と技術の粋を集め、人の手により作られた聖剣『新式聖剣』、その十五番目なのだそうだ。
元は王国将軍シュナイベルトの腰に吊られていたのだが、前の反乱騒動の際カドゥケイタ率いる西側陣営に接収され、そして今、オレの左手に握られ薄っすらと赤い光を放っていた。
両聖剣の恩恵を受け底上げされた筋力は、疾風の如くオレを戦場へと運んでくれる。否応なく相対する魔獣を蹴散らしたオレは、裏返共がひしめく戦いの庭のど真ん中へと我身を置いた。
そして迷いを断ち切り覚悟を決めるため、腹の底から叫ぶ。
「能書きは後だ。『呪』を受け止めろっ、クテシフォン!」
【了解なのです】
この『能力』は『空間』と『時間』の歪み。フチクッチとニースはそう言った。いまだに何のことだかは理解できない。だがその話は、どうやらオレに何らかの影響を与えていたようだった。いつものように『能力』を開放するも、いつもとは何かが違う感覚に襲われる。
【マスター、何かおかしいのです】
その違和感は、クテシフォンにも伝わったようだった。
鞣して濡らした革を擦り合わせるかような、ぐぐぐっと来るいつもの抵抗が感じない。オレの精神は滑らかにすんなりと闇に沈み、意識を保てるギリギリの位置を難なく保っていた。
「考えるのは後だ。歯ぁ食いしばれよ」
暴力と混乱が支配する空間に身を投げ出す。
槍を避け、剣を捌く。裏返とて一つの命。その命の流れを二振の聖剣が無情に分断していく。一体、二体、三体……。だが、襲い来る裏返を、事も無げに葬ってゆくオレの姿を目にしてもなお、狂気を孕んだ視線は容赦なくオレを捉え、赤黒く斑に染まった銀色の刃は容赦なくオレに押し寄せてきた。
体中のあらゆる関節が、絶えず複雑に繊細に屈伸と旋回とを繰り返す。その動作が、剣と体、互いの重心を制御し軸を定め視点を安定させてくれる。そうすることで蒼紅二振の聖剣はオレの意のままに疾り、盛大に血煙をあげ累々と屍の束を築きあげていくのである。
いつしかオレの周囲は、血と肉と瘴気で溢れかえる始末となっていた。咽返るような臭気が、感覚が研ぎ澄まされた鼻腔に遠慮なく侵入し、肺腑を淀ませる。吐き気にも似た気分がオレを見舞った。
そこにさらなる一体がオレに迫る。赤く充血した目をひん剥き、黄ばんだ歯をむき出す。節々はあらぬ方向に曲がり、操り人形のように不自然に動いていた。だがそれは人より遥かに速く、遥かに力強かった。
不細工極まりないその姿から伝わるは、怒りと、そして怯え、悲しみ……。人非ぬ者から、一端に人の性を見せつけられ剣筋が躊躇った。横に薙ぐ青白い巨大な刃が鈍り、銀色の分厚く無骨な長剣の刃に受け止められる。だがそれは、あまりに無意味な行動と言えた。受け止めたはずの長剣が、何の抵抗も見せずに二つに分かれた。そのまま青白い光は裏返の胸元に収まる。程なくして自身の持った剣と同じ運命を辿り、片や鋭く片や鈍く、地面へと落ちた。
一息つき、『能力』を収めたオレの足元に、不格好に切断された上半身が転がってきた。裏返のものだ。切り口はまるで挽き肉のようである。振り返ると、返り血を浴びた大男がどっしりと腰を落とし、自身の体躯程もある得物を肩に担ぎ、力任せに振り回す姿がそこにはあった。裏返が一体、頭が熟れ過ぎた果実を握りつぶすかのように拉げ潰される。血が飛沫となって飛び散り、風圧がオレに届いた。頑強な裏返も、さすがにこれは溜まったものではないと見える。首から上を失い、無意味にのたうち回り痙攣し、程なくしてその動きを止めた。
「無慈悲な剣だな」
返答はなかった。イオカステの灰色の瞳が、オレの足元に広がる周囲とは異なる血腥い地面を見据え、面白くなさ気に鼻を鳴らした。
「何か文句あるか?」
オレは無視を決め込む大男に、ニヤけ面を浮かべ問う。
「いや、無い」
今度は返事が返ってきたが、その言葉とは裏腹に文句で表情筋を動かしているような、見事な顔を作りあげていた。全くもって可愛げのない、可愛いやつである。
「ぼーっとしていたら喰われちまうぞ」
不意の剣撃がイオカステを襲った。オレの声に反応し、それを巨剣で受け競り合う。だが、然しもの大男も裏返との力比べは分が悪いと見えた。徐々にだが確実に押し込まれる。イオカステが膝をついたその時、オレの右手に収まる大剣が裏返りの首を狩った。巨剣とその持ち主は、吹き零れる血を盛大に浴びてしまう。顔を真っ赤に染め上げたイオカステは、何事もなかったかのように目だけを拭った。
「はっはっは。そっちの方が男前だよ」
「いい加減、黙れっ!」
大男が声を荒らげたその時である。嫌な気配が辺り一面を覆った。魔術である。砕こうと思い見るも、かなり大規模に張り巡らせている。果たして無効に出来るか。冷や汗がぶわっと吹き出た。
「驚いたよ。一人で戦局をひっくり返すなんてね。前の大戦で『血塗』と聞いてみんな逃げ出したわけだ」
無精髭を蓄えた口元を小さく動かしながら近づくは細身の魔術師。その滑舌滑らかな低い声は、それほど大きいものではないのにも拘らず、戦が生み出す音を振り切りオレの鼓膜に届いた。ふうっと肩の力が抜けると同時に、男の言葉に引っ掛かりを覚える。しかし熟考する隙は与えてはくれなかった。
「二人のお陰だ。感謝するよ」
低い声が続く。
オレ達の周囲には過剰に繁殖した蔦のように、糸が張り巡らされ、それが危険を察知した海蛇のようにうねっていた。
そんな中、カリュケは注意を促す。
「そこから動かないことだ」
魔術で紡いだ十本の鋼糸『ニウト』、これが魔術師カリュケの武器に相当する。一本一本は低度ながらも思考するらしく、簡単な命令を送ることで自在に操ることが可能だとか。まさか魔術だけで糸に思考を組み込んだのではあるまい、そうカリュケに尋ねたら、彼独特の曇り空のように湿り気を帯びた雰囲気は変わらなかったものの、その口は閉ざしてしまった。言葉を探しあぐねているというよりは、暗に疚しさを隠しているようであった。
万能のような気もするが、十本同時に扱い、更には大規模な魔術を展開するためには、その規模に見合ったタメが必要であり、オレとイオカステが裏返の群れを蹴散らしたお陰でこうして術を組めたのだという。
カリュケは呼吸でもするかのように造作もなく自然に魔力を流す。男にしては華奢な指に繋がる糸が一瞬動きを止めた。その時、世界から切り取られるように、そこだけ場の持つ空気が変わった。いやそれを感じ取れたのは、極小数の人間だけだったであろう。まとわりつくような嫌な感じが薄れてきていた。
同時に魔獣が一体、また一体とその姿を霧へと変え消失していく。辺りから瘴気が消えているのだ。
「この陣はね、別に漂っている瘴気だけを吸収しているわけじゃないんだ。裏返の体に溜まる濃厚な瘴気も吸い取るんだよ」
「瘴気がなくなると裏返はどうなる?」
オレはカリュケに問いただす。静かだが威圧した声にも拘らず、カリュケは流してみせた。
「動かなくなるよ」
やはり知っていた。だが今はそんなものに感けている時ではない。
カリュケの言葉に反応し、見回した景色はその様相をがらりと変えていた。猛威を奮い、恐怖を振りまいていた裏返が、建付の悪い扉のように関節を軋ませ。すでに歩くことすらままならない。だがその闘争心は未だ健在なのだろう。それらにとっての敵に向かい、武器を片手に這い擦っていた。だがそのかすかな前進も、カリュケの糸が阻む。ニウトが裏返の両四肢に絡みつき、食い込み血を滴らせていた。
「さすがに硬いね」
呆れたようなカリュケの低い声。だがそこには焦りも含まれているように聞こえた。
次々と陣に侵入してくる裏返。だが、それすらも罠に掛かった兎のように、その動きを止めていった。鈍った裏返にウラヌシアス公国兵が、蜜に群がる蟻の如く殺到した。そして、ここぞとばかりに刃を突き立てる。歩調を合わせるかのように、首元にもニウトが巻きつく。動きを封じられ苦悶に顔を歪めながらもなお、裏返の生命の灯火は未だ燃え盛っていた。
「不味いね」
ここにきて、もともと青いカリュケの顔色が更に青みを増した。声にも苛立ちの色が濃く浮き出る。
斬っ先を向けられた裏返りは守りを固めた。自身の体幹を傷つけられないよう、腕を固め膝を畳む。
その様子を見たオレは右手に持つ聖剣に呟いた。
「仕事だ。存分に働け」
【言われなくても分かってるのです】
「働き者だよ、アンタは」
いつものようなやりとりを堪能したオレは、そのまま赤く染まった大地を目がけ、構えた。
【マスターは……怠け者なのです】
「はは……言えてら」




