episode 7 解明
まずは『感覚の拡張』である。開放したと同時に空気が肌にまとわりつき、萎える。衣服が皮膚を擦ると、それが粘膜にでも触れたかのように軽い痛みとなった。
そして、今までは聞こえなかったあらゆる音が、耳朶に濁流のごとく流れこむ。緩やかな空気の音、建物が僅かに軋む音、フチクッチの呼吸音と脈打つ音、汗がじわりと腺から溢れる音、筋肉が僅かに硬直する音、聞いたことのない雑多な音の数々。
ニースは……静かだ。微動だにせず、ただ起こることを、じっと見定めようとしていた。
視界には光が溢れ返り、ぼやけた。瞳孔が素早く反応し、視覚を取り戻した時、見える世界は別のものとなっていた。空気の流れ、物体の僅かな揺れ、光の反射や屈折、今まで全く目にできなかった様々ものが視認できる。舞う埃の一つ一つ、踊るように揺らぐ極々小さな生命、普段は目にすることがない物体が、空中を気ままに漂っている。毛羽立つ繊維、壁面には微小な凹凸と、同時に見える壁の向こうの景色。だがそれだけではない、意識を集中すれば、その物体の微細な構造や、臓物、骨格、筋肉等、体の内部までもが鮮明に映り、さらに、それらが動くときに発する意思の流れのようなものまでが確認できた。
だがニースは……ニースの姿のまま、何ら変わらなかった。
次に一拍おき、『思考の加速』を開放した。足元に見える魔法陣にゆっくりと流れる魔力。今なら爪先で踏みつけただけで、この脆弱な魔術を、消滅させることが出来るであろう。動いているものは全て緩慢になり、自分自身の体もひどく重くなる。肌を撫でる空気もドロリと粘度を上げたように感じた。
『能力開放』の副作用、その最初の症状である頭痛を僅かに感じる。眉間に皺を寄せながら、能力を己の内に収め、ため息混じりにゆっくり息を吐きだした。いつもよりも潜りが深い。それは戦いに意識が向いていなかったことによるものか、はたまた慣れてきているのか……。
急激に襲ってくる世界とのズレ。捻れたかのような感覚が、オレの思考を撹乱させる。覚悟はしていた。だが、こればかりはいつまで経っても慣れることがない。
既に視界に収まっていたフチクッチを、脳が認識に至るまでに短時間だが遅れが生じた。
その老女は目を閉じ、何度も確認するかのように口の中で何事かを呟いていた。
「そんなにブツブツ言ってると、ただでさえ辛気臭せえ面構えをしているってのに、魔獣ですらそっぽを向いてしまうよ」
嘯くオレに返してきたのは無言だった。だが開いた目蓋は釣り上がり、ぎろりと眼球だけをオレに向けた。
「睨むなよ。まあ、それはそれでお似合いの仕草かもしれんな。『塔』がどんなところかは覚えちゃいねえが、きっと今のアンタが好みってヤツがゴロゴロしてるんだろ」
挑発じみたからかいにも動じず、再び目を閉じたフチクッチは、思考に耽るように口元だけを動かす。その奇妙な振る舞いに滑稽さを感じ、鼻で小さく笑ってみたが、つまらんとばかりに一瞥されただけに終わった。
しばらくの後、何かしらの結論に至ったのであろう。不明瞭だったつぶやきが明確な声へと変わる。
「ニース。オヌシ何が起きたか分かっていたのか?」
「予想はしていました。ですが確信には程遠いです」
「フンッ。こんなこと、誰も考えが及ばぬわ。『塔』は恐ろしいもんを生み出したもんじゃわい」
そして二人は沈黙した。勿体ぶらずに何が起こったか聞かせて欲しいところではあるが、こうも神妙にされるとやや怖気づき聞きたくない気持ちも膨らむ三十八歳独身男。我が事ながら情けない。
「よくもまあ、今まで飄々としとったわい」
沈黙を破るフチクッチのゆったりとした声音は、奇っ怪さに呆れが大いに混ざっていたのだろう、若干上ずっていた。
「そうでもない。何度も死にかけたよ。運が良かっただけだ。それより『能力』とは一体何なんだ。教えてくれ」
「慌てるでない」
慌てます……。
「ニース、アンタなら何か知っているんだろ?」
「あははは……」
この場面ではぐらかしの苦笑い。これは地味にキツイです……。
「化け物じみたヤツじゃわい」
「ええ、まったく」
三百年生きてるあなたと、三千年生きてるあなたが、口を揃えて言う言葉ではないと思うのですが……。
「『式』で同じことは出来るのかい?」
「出来るには出来ます。ただ時間や空間のような根源に近いものの操作は、ほんの些細なことでも膨大な矛盾を生みます。辻褄を合わせるのはそう簡単ではないでしょう」
「出来ない、と言うことでいいのかい」
「はい。おそらくは……」
オレも含めた三人の表情は、沈んではいなかったものの浮かないものであった。ただオレだけがその表情の意味が違っていた。
またしても黙する魔術師と女神。いい加減、焦らすのは勘弁願いたいところではある。しかし、何が飛び出しても怯まない、そんな覚悟を決めるには調度良い間、だったのかもしれなかった。
フチクッチはコホンと小さく咳払いをし、時間をかけて息を吸った。そしてその息を、吐き出しながら躊躇うような声を出した。
「オヌシのその能力の正体は、己を境界に空間と時間の歪みが生じた結果得られたものじゃ」
老女の淀んだ重い表情がふっと軽くなった。なぜならオレの目が点のようになっていたからであろう。『空間』『時間』、そしてまたしても『歪み』。だがオレには、何のことだかさっぱりだった。
ニースは毎度のことで慣れているのだろう。それじゃあ伝わらないよとばかりに、困った笑顔でカラッカラに乾いた笑い声を上げていた。
「クーロンさん、いいですか? 何をどうしたらそうなるのかまでは分かりません。ですが、あなたの体の中の世界と外の世界は違っているんです」
はて……? 脳に浮かぶはその単語のみ。ニースは子供に説明するようにゆっくりとした口調ではある。だがその内容が内容だけに、そうそう理解できるものではなかった。
「今はクーロンさんの内と外、二つの世界は、ほぼ一致してます。ですけど『能力』を使うとクーロンさんの内だけ、時間も空間も歪みます」
それでもニースは話を続けた。輪郭がぼやけてはいるものの、理解してきたオレは、小さく二回首を縦に振った。具体的にオレの身に何が起こっているのか。オレは生唾をごくりと飲み込み次の言葉を待った。
だが、待てど暮らせどニースの口元は閉じたまま動かなかった。
「で、オレの体はどうなるってんだ?」
ニースに尋ねる。彼女は小首を傾げオレに笑顔を向けた。
「以上ですよ」
こっから本題じゃなかったんかいっ! オレはがくりと透かされた肩を落とした。『龍』だの『闇』だの、そんな禍々しい話の後だっただけに、余計に当惑していたのかもしれない。結局は雲を掴むような話で終わるのか、そう思った矢先、フチクッチのしわがれた声がオレの耳に届いた。
「空間と時間。今の魔術では手に届かない領域じゃ。それを成すことがオヌシにどのような影響を及ぼすか、想像もつかぬ。『塔』が手に負えなかったのも当然のことじゃ。これからオヌシがどうなるか、誰も何も分からぬ。それだけは覚えておくのじゃな」
ニースはフチクッチの言葉に同調させ、こくりと頷いた。笑顔ではあるものの、彼女の表情は真剣味を帯びていた。「以上です」と断言したあとすぐの態度ではない、そう思った。
まあ、正直分かったような分からなかったような、オレにとっては取り留めのない話だった。
だがまたしても『歪み』ときたもんだ。正直オレにはあつらえ向きの能力に思えた。いくら取り繕おうが歪むものは歪む。綻ぶものは綻び、崩れるものは崩れる。
今までと何ら変わらない、歪んだまま生きていくだけだ。
気付くとオレは、皮肉めいたように口角を陰気に上げていた。要は覚悟、ただそれだけの話だとオレの本能が理解したように思えた。
「若造、魔剣を手に入れたがっているようじゃが、何とするつもりじゃ」
思索に沈み込みそうになったところを我に返すフチクッチの唐突な声に、オレは慌てて返答した。
「魔人の器ってヤツを、この手で葬ってやろうかと思ってな」
「なるほどの。なぜ魔人の器を? まあそんなことはどうでもよいわ。利害はワシと一致する、と言うことかの」
何かが引っかかる。フチクッチの言動から時折感じるちくりとした感覚。今まさに胸に小骨のようなものが刺さっている。
違和感の元をオレは探す。そしてすぐさま突き止めることができた。
「なあ、今、少しきな臭いと感じたのはオレだけか? 今だけじゃねえ。オレはアンタがいると、後ろ髪が何かこう、ざわめき立つんだよ」
フチクッチは一瞬だけハッとしたように見えた。オレは口を開きかけた老女に言い訳の隙を与えず、畳み掛ける。
「ニース、器のことをこのババアに話したことは?」
「ありません」
「何故、魔人の器のことをアンタが知っている?」
聞こえたのは通り過ぎる風の音だった。会話が寸断される。しかし、既に心に防壁を張り終えたのであろう。フチクッチの立ち振舞に違和感は見られなかった。
「ワシとて、伊達にただ長いこと生きながらえてきたわけではないからの」
「それが答えになっていると思ってるのか?」
「受け取り方次第じゃて」
フチクッチの口調は変わらない。それでも受け答えに現実感が薄れてきているように思えた。
「シーロンは器を欲っしておるのでな。ヤツに渡ったらこの世は終わりじゃ。それだけは阻止せねばならぬ」
聞きもしない理由を述べる。何かを煙に巻こうとする意図を感じた。
「それ以外にも欲しがってる奴がいるんじゃないのか?」
「そうかもしれぬのう。どれ、ワシもそろそろお暇するかの」
あからさま過ぎた。だがそれでもここから去ったほうがマシと考えたのだろう。フチクッチは挨拶もそぞろに部屋を後にした。
オレはニースに向けて肩を竦めてみせた。だがニースは自分の心の内に傾倒しているのだろう。オレに目をくれてはいなかった。
「クーロンさん、少し話をしても大丈夫ですか?」
「ああ」
ニースはそのままの姿勢を保ち口を開く。
「フチクッチさんは理解しているのか分かりません。ですがその『能力』は世界を崩壊させるかもしれない可能性を秘めています。『空間』と『時間』に手を付けるというのはそういうことなんです。今まで何も起きなかったことが不思議なくらいですよ」
「ならオレはどうすればいいんだ?」
「思いのままに。大丈夫ですよ。私があなたを護りますから、絶対に」
俯きクスリと笑う。彼女の微笑から伝わるは、ほんのりとした温かさ。だが今の彼女に一体何が出来るというのか。『力』を失い深手を負った。今や立つことさえ覚束ないではないか。普通に考えれば、出来る事など殆ど無い。にも拘らず理解しがたいが、彼女の「護る」という言葉は不思議とオレに安心感を与えてくれた。波立った心が、凪いで静まってゆく……。
「それともう一つ、いえ、二つですね。助言をさせてもらいます。『空間』と『時間』は同じものなんです。それを頭に留めておいて下さい。そしてあなたの心の奥底には小さな光が存在します。それを信じて下さい。世界を本当に理解し、小さな光に手が届くことが出来れば……」
── あなたはどのようなものにも負けません。決して ──
何ら変わらない普段通りのニースの声。紡がれるは酔っぱらいの戯言のような意味の分からんことばかり。だがそれでも強く心に響く声だった。




