episode 5 九龍
作者のもりです。
今回の話は、今までにない残酷で過激な描写が含まれています。
苦手な方は『episode 5 九龍(ダイジェスト版)』を読んでいただければと思います。
フチクッチが感情を消し去ってしまったかのような抑揚を抑えた口調で話す。
閉めきった窓と扉。空気の淀みを感じ、息苦しさにどちらも開け放ってしまいたく思えた。だが堪えてじっと聞く。オレとニースの二人の意識は徐々に老婆の話に惹き込まれていった。
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三百年前、カドゥケイタ・メルクリウス一世の命を犠牲にして、魔族を葬り去ることに成功した一行は、それぞれの居るべき場所へと帰っていった。
雷帝エウロペア・ジュピトリスは帝都へ。聖者クウェイトはニース神殿へ。第一次対魔族部隊に属した精鋭達も、それぞれの国元へと帰っていった。そして女神ニースは聖剣クテシフォンを携え、どこへともなく消えていった。
一人になったフチクッチは考えた。今回は幾つもの幸運が重なっただけだったということを。たまたま同時に聖剣と魔剣の適性者がそれぞれ現れた。そして、たまたま現れた女神ニースに導かれ、一度は剣を交え、憎みあったこの二人が、魔族という強大な敵を前に手を取り合った。
いつしか起こりうるであろう魔族の再来。次は今回のように都合よく物事が進むとは思えない。手を打たなければ人間は滅んでしまうことは、彼女の中では火を見るより明らかだった。
魔術師であるフチクッチに出来ることは何かを自分に問う。答えは決まっていた。それは魔術を以って魔族と渡り合うこと、それが自分の道であった。そしてその術を模索した。
まず彼女が取った行動は、できるだけ多くの魔術師を同胞として集結させることだった。しかし、当時も今と変わらず、魔術師のほとんどが国に召し抱えられている状況である。それは困難を極めた。
だがそれでもフチクッチは諦めなかった。そうして根気よく活動を続けているうちに、一人また一人と徐々に協力者が現れ始めた。
五十年ほど経った。魔術師は十二人を数え、おぼろげながら組織の体をなしていた。これが、後に自らを『塔』と呼ぶこととなる組織の始まりであった。
彼らが最初に取り組んだ研究は、魔術師そのものであった。己を知ることから始めたのである。そして一つの結論に達する。
瘴気を多く浴びた人間は魔術師の資質を持つ可能性があるということである。逆を言えば瘴気を浴びなければ魔術師にはなりえない、ということでもあった。
彼らは危険を顧みず、積極的に瘴気の濃い場所へと赴いた。そして多くの人間をそこに連行した。
その過程で一つ明らかになったことがあった。浴びる瘴気が多すぎると、後の彼らの言うところの『裏返る』と言う現象が起こったのである。裏返ると『裏返』と呼ばれる、人でも魔でもない存在になった。
裏返には、人間にはないいくつか特徴があった。その最たるものは、魔獣が襲ってこないことだった。
その研究と同時に、突発的に発生した瘴気に、飲み込まれた町や村の探索も行われた。
そして、あらゆる観点からの研究が粛々となされた。
二百五十年ほど経った。
ある日、彼らはとある瘴気に飲み込まれた村の話を聞きつけ、そこを訪れた。そこは魔獣の大発生により、見るも無残な様相を呈していた。建物は破壊され、魔獣に喰われた残りカスが赤黒く変色し辺りに散らばっていた。だがそれは、彼らにとって見慣れた光景でもあった。
調査を進めたところ、倒れて意識を失っている一人の女性を発見した。だが彼女に魔獣は見向きもしなかった。裏返か。そこに居る誰もがそう思った。
しかし妙だった。裏返は通常、人としての意識や記憶は消失してしまうものだとこれまでの研究で判明していた。しかし、その女は裏返りつつも、意識は人間側に保たれていたのだ。
『塔』の魔術師たちは急ぎ原因を調べた。
そして一つの事実が判明した。彼女は子を身篭っていたのである。子に対する深い愛情が彼女を踏み留ませている、フチクッチはそう考えたという。だが多くの魔術師はその考えに否定的だった。
裏返の女は地下に幽閉された。そしてそこで子を産んだ。
最初はどこにでもいる普通の赤子だと判断された。だが違っていた。母親の胎内とは言え濃密な瘴気に晒されたからなのだろうか、傷の治りが異常に早く、苦痛に強い。そして瘴気に強い耐性を備えていた。
『塔』では、出生間もない赤子の実験体を『龍』と呼んでいた。残酷を極めた所業であったものの、彼らからしてみれば、大きな期待が込められた証であった。だが、ある者は力尽き、ある者は裏返る。一年耐えられた『龍』はそれまで八人、二年耐えられた『龍』は残念ながら存在しなかった。
しかし、その赤子は耐えきった。濃密な瘴気に晒されても裏返らず、あらゆる環境を生き抜いた。
赤子が一歳を迎えた時、魔術師達は記念に名前を付けることにした。そして彼は、古代語で『九番目の龍』を意味する『クーロン』と、そう名付けられた。
ありとあらゆる実験が毎日繰り返された。それは目を覆いたくなるような施術の数々であった。赤子から子供へ。その頃になるとクーロンは泣く喚くといった行動を、一切しなくなっていた。全てを諦めたような虚ろな目をしていた。その原因を探ると、彼の中で不思議な現象が起こっているのが分かった。精神が二つに分裂していたのである。
乖離した人格を副人格とした。その副人格はまさに闇そのものだった。魔術師たちはそれを『呪』と呼び蔑んだ。
朝、幽閉先を後にし苦痛を伴う魔術の施術がなされ、夜、母親の待つ幽閉先に戻る。クーロンの毎日は、それだけの繰り返しだった。
施術は日に日に残酷さを増していった。体のありとあらゆるところに、目には見えない魔術の刻印がなされた。それだけでも苦痛を伴うものだったのだが、それにとどまらず、魔術の刻印は腹を割っ捌き臓腑の隅々にまで及んだ。
体に刻まれる傷が増えるに連れ、彼の『呪』は深い深い闇の底へと堕ちていった。
クーロンが五歳の時だった。仕上げに、副人格『呪』を主人格に埋め込む試みがなされた。そのころ『呪』は計り知れないほど強い力だということだけは分かっていた。その強力な人格で以て肉体を制御しようと考えたのである。
果たして試みは成功と言えた。魔術師達は歓喜した。だがフチクッチは、どうもそう言った気分に浸ることができなかった。逆に、取り返しのつかないことをしでかしたのではないか? クーロンの以前にも増して曇る、灰暗い瞳を目の当たりにして、そう思った。
そのころになると、母親の意識は徐々に蝕まれ、完全に裏返るのは時間の問題となっていた。
裏返のもう一つの特徴、それは人間を襲うことにある。しかも能力は人間のそれを遥に上回り、痛みなどの苦痛をものともしない。
『塔』は既に使い道のないこの裏返を危険とみなし、処分を決定した。
拘束され、幽閉場所から引きずり出された母親の姿に、クーロンは久々に大声を上げた。かくして彼女は処分された、息子の目の前で……。
クーロンの様子が変化したのは、その後すぐの事だった。それまでも乏しかった表情ではあったが、その時は完全に消失していた。
いつもは何をされても反抗することなく従順だった態度が一転、繋がれた手を振り払い、あろうことかその魔術師の腕を捻じ切ったのである。その魔術師の悲鳴が惨劇の始まりの合図となった。
『塔』はたった一人の子供に翻弄され、混乱を極めた。血が辺り一帯に撒き散らされ、屍が累々としていた。
二日が経った。休むことなく暴れまわったクーロンは、急に力尽き壁にもたれかかったまま意識を失った。五十人以上いた魔術師は、その時フチクッチを含め八人になっていた。
当然『塔』はこの子供を放っておくことは、危険と判断し、処分が決定した。しかしフチクッチの考えは違っていた。魔族に対抗するにはこれしかない、そう考えたのだ。その時『塔』で魔族と相対したことのある魔術師は、既にフチクッチ一人となっていた。その差が認識の差がとなって表れたのだ。
フチクッチはクーロンの処分に抵抗した。だが生き残った魔術師は八人とはいえ、多勢に無勢であった。魔術師たちは皆、クーロンの凶手に怯えきっていたのだ。仕方のないことだった。
それでも、フチクッチは諦めきれなかった。処分の前日、とある男にクーロンを託すことを決めた。コートと言う門番の男である。コートは優しく勇敢な青年だった。そこにつけ込んだ。コートは、この幼い子供が殺される、と聞くと二つ返事で引き受けてくれた。
行き先は決まっていた。ジェイクトと言う剣豪の許だった。フチクッチは密かにこの老剣士と交流を持っていた。魔の眷属のことを話し、剣の道から魔族に対抗してほしいと願い出ていたのである。そして魔術というもの、その理論を徹底的に教えこんだ。
それから、フチクッチはコートと彼に連れられたクーロンの消息を掴むことが出来なかった。
そしてそのまま月日は流れた。
十年前、アブ・ヌワス砦で魔族が現れたとの報を受けた。
その頃には『塔』の規模は大きくなり、魔術師も百人を越えていた。にも拘らず、魔族に対処できる術は未だ持ちあわせてはいなかった。
万事休す。フチクッチは諦めの色を、その老いて濁った瞳に浮かべていた。そんな彼女のもとに信じられない報告が耳に入ってきた。
クーロンと呼ばれる一人の王国の傭兵が魔族を葬った。と言うものだった。
『塔』は急ぎ男の消息を追った。そして、王国の裏から手を回し、男を罪人へと仕立てあげた。魔族から自分たちを救ったであろうこの男を、今度こそ葬り去ろうとしたのである。
追い詰めたはずだった。だが一手及ばなかった。クーロンは王国と『塔』の目を掻い潜り見事逃げ切ったのであった。
それから十年、フチクッチの目の前にその男が女神を伴って現れた。
運命。老女はその浮ついた言葉を信じてみよう、そんな気になっていた。
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ニースがきつく睨む。その迫力は空気までも凝固させてしまっているようだった。
「なぜです! なぜそんな残酷なことを」
「ワシは魔族というものに囚われておった。そして魔術師共は可能性と言う悪魔に魅入られておった」
オレは、そこで躊躇いつつも口を開いた。




