episode 1 照準
くすんだ銀色の巨大な塊が眼前を覆った。なるほどさすがの威圧感である。オレは燻る恐怖心を一呼吸で抑えつけ、右斜に構えを取りながら、右に踏み込み既で躱した。
振り下ろされ、鈍い風切り音を立てながら、体のすぐ脇を通過した巨剣が、踏み固められ岩のような地面を穿つ。振動が地面を通じ足裏に伝わるも、それに構わず瞬き一つせずに相手を見据え、踏み込む足を右に、同時に体勢を角度のついた左斜へと変えた。移動した左足から土煙があがる。
だらりと垂れ下がったオレの両手に握られるは、刃を滑らせた一対の長剣である。左に握るその一振は斬先が地面すれすれに位置していた。体勢を変えた勢いそのまま大股に一歩踏み込み、下段から脛への一撃と見せかけて、今やがら空きとなった腋下から首筋へと弧を描くように斜に薙ぎ上げる。
男が両手に持った巨剣は窪んだ地面を支点に下肢を覆っている。丸太のような腕っ節はサスガであるが、力を込める暇は与えない。手詰まり。そうも思ったが、大男は目と口を大きく開き咄嗟に反応した。受けを諦め柄を手放し、急ぎ体を後方へと反らす。いい判断、いい反応である。気分の良くなったオレは、軽快に口笛を一つ鳴らしたい気分になった。
斬撃を文字通り首の皮一枚で躱す大男。だが、体は完全に死んでいた。詰めが甘い。
足をよろめかせながらも踏み留まり、不格好なダンスを踊りながらもなんとか転倒を堪えたが、反して巨剣ががらんと音を立てた。
程なく大男はバランスを取り戻す。直後、彼の眉間には、オレの右腕から伸びた長剣の丸みを帯びた斬先が、こつんと添えられた。
大男は肩を落とし跪く。俯き、そして大きく溜息をついた。纏っていた殺気が削ぎ落とされたのだろう。大きな体躯は一回り小さくなったように感じた。
「ははははっ! よくあれを躱したな」
「寸止めせずに振りぬいていたら、躱せなかった」
膝をついた巨剣の剣士イオカステは、健闘をたたえたオレを、苦虫を噛み潰したような顔で見上げた。
「よく見えているじゃないか」
「見えてはいない。そう思っただけだ」
「褒めているんだ。素直にハイと言っとけ、若造の分際で」
「オッサンのお前からしたら全員若造だ。堪ったもんじゃない」
ああ言えばこう言う。
「まあ、いい汗かかせてもらったよ」
「軽くあしらっておいてよく言う」
「そんなことはないさ。実際チビリそうになったしな。用を足してなかったら互いに嫌な思いをしていたよ」
イオカステは、無言で、面白くなさそうに唇を尖らせた。からかわれていると判断したのだろう。まあ、半分はそのとおりだ。だが残り半分は、割と本気なのだがなあ。
右に握った剣を腰に立てかけ、跪く大男にその手を差し出す。しかし男はそれを無視し、のっそと立ち上がった。やり場にこまったオレの右手は、宙をまさぐりそのまま頭を掻きむしる。同時に自然と苦笑いが浮かんできた。
「クソガキが」
クソガキ。体はデカイが尻の穴の小さなこの男にぴったりな言葉である。
「いい大人相手にガキはないだろ」
「人の好意を平気で突っぱねるような奴はガキだよ。それもタチの悪いクソガキだ」
だがこのクソ生意気な男を、オレは可愛げに思えていた。何気に自分の昔と重なったのである。
オレは長剣を壁に立て掛け、代わりに、カロリス山脈越えでさんざん世話になった聖剣オウブと、銀剣を腰に差す。そして、手をひらひらと振りながらその場を後にした。
ちなみにクテシフォンは、口うるさくて煩わしいので留守番をお願いすることにした。はっきり言えば放置してきたのである。一応アレでも聖剣、番犬程度には役に立つであろう。いわゆる番剣だ。
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「もうすっかり元気なようじゃな」
老いて嗄れてはいるものの、滑舌良く堂々とした声音に、ある種の威厳が感じ取れる。
ゆっくりといたわる老女に、ニースはいつもの笑顔を返した。
「助けていただきありがとうございます、フチクッチさん」
「そう何度も言わなくとも良い」
春を思わせる季節外れの柔らかな風が、開け放たれた窓から訪れる。その風に揺られ、肩までかかった金色の髪が、ふわり、踊るかのように靡いた。
広くもない板張りの簡素な部屋。中央に置かれた、木製の上等とは言いがたいものの作りのしっかりしたベッド。そこにもたれ座ったまま、老女を穏やかに包み込むように向ける笑顔と曇のない蒼碧の双眼。
何も変わっていない。二ヶ月前、フチクッチと呼ばれた老女は、運び込まれた瀕死のニースに目を丸くした。
そして今、女神のごく自然な美しさに、窓から差す光の眩しさも相まって、深い皺に覆われた目蓋を細めた。
「あの男はどこへ行ったのじゃ」
「あはは……。どこでしょうね」
フチクッチは口元を軽くしかめ、面白くなさ気にふんっと鼻を鳴らす。その仕草に懐かしさを感じ、ニースはクスクスと笑った。
「変わりませんね」
笑いながらニースは言う。言われた方は面白くなさ気ではあるものの、悪い気はしていない様子である。
「まあ、良いわ。で、どうするつもりなのじゃ、これから」
「帝都に向かうそうです」
顰めた顔の深度が増し、皺の形が変わった。
そこへ、扉をノックする音がした。フチクッチの視線がドアへと向く。
「ババアもいたのか」
「フン、若造が」
オレがさっき言ったことと同じことを言いやがった。何のデジャブか。なので、先ほど言われた言葉を借りて、ついでに少し味付けを施して返すことにした。
「口を利くミイラみたいなアンタから見れば、みんな若造だろ。まあそこの女神様は別モンだろうがな」
そう言いながらニースに視線を送る。
「いい天気ですね」
オレの視線を感じてか、静かな笑顔で一言呟いた。今の話しの流れで天気は関係無えだろ。そんな脳内お天気もとてもよろしそうな女神サマは、窓の外を眺めた視線をオレへと向ける。
「どこに行っていたのです?」
「いつものようにデカブツと戯れただけだよ。クマを飼ったら、こんな気分なんだろうな」
「仲がいいですね」
ニースはニッコリと笑った。そして静かに言葉を続ける。
「いつ行くのですか? 帝都に」
「じきにな」
彼女の何気ない一言が呼び水となって、頭の隅に寄せておいた後ろめたさが、どろどろと押し寄せてきた。そんな浮かないオレの顔を、ニースは不思議そうな表情で首を傾げて覗き込む。
「まあよい。ワシは戻るよ」
フチクッチはまた鼻を鳴らし、ゆっくりとした足使いで部屋を後にする。扉を開き一歩踏み出す。その時、思い出したかのように老女は振り返った。
「若造、後でワシのところに顔を出せ。よいな」
「了解だ、ババア。」
「早めにな」
「アンタが天からお迎えが来る前には、伺わせてもらうよ」
今度こそ部屋を出て行ったフチクッチを見送る。するとすぐ、二人になる機会を待っていたとばかりにニースはオレへと声をかけた。
「何かありました?」
何のことはない一言である。だがオレは沈黙を余儀なくされた。漠然としていたものの、言わんとしていることは理解できたのだ。
ニースは微笑みを維持したままうつむき加減で目を閉じ、オレの返答をゆっくり待っているようだった。オレに気遣ってのことだろう。
少し考えをまとめた末、オレは静かに口を開く。
「なあ、ニース、オレはアンタをこんな目に遭わせてまで、どうしてこんなことしているんだろうな」
彼女は控え目に笑う。
「そんなことですか。自分で自分が信じられない。そうなのですね」
目を開き、ゆっくりと視線を再度オレへと向けた。優しい瞳だ。
「大丈夫です。私が代わりにあなたを信じます」
そして、その視線に力が籠る。
「あなたは何も間違ってはいませんよ」
「まるで他人事だな」
引きこまれそうになるほど、優しく力強い言葉だった。ただその言葉は同時に納得しがたいものでもあった。
「帝国に来た。だが振り出しに逆戻りだ」
「それがどうかしました?」
「帝国の状況は、もうヤーンの思惑から外れている。帝都に行ったところで国なんて興せない」
「だから何なのです?」
「真面目に聞け!」
何事もないかのように話を流すニースに、苛立ちが募る。それだけオレは焦っているのだということを、改めて実感した。
怒鳴られ、それでも彼女は穏やかだった。何も変わらない。優しい笑みを浮かべていた。
「聞いていますよ。今、クーロンさんが言ったこと、それは全部ただの結果です。結果なんて些細なことですよ。あなたの行動が正しいことには何も変わりません」
よくわからない。またしてもオレを見透かし、哲学的な物言いをする。これだから神ってヤツらは気に食わん。
「迷っているんですね」
「そりゃあそうだろ。指標を失った。何をすればいいのかさっぱりだ」
「あなたの気の赴くままに行動をして下さい。前を向いて、胸を張って。それが正しい道です」
「それが分からん」
僅かな沈黙。だが笑顔は曇ることがなかった。
「大丈夫ですよ」
子供に言い聞かせるように言う。何が大丈夫なものか。オレも、そしてアンタもだ。
「あなたがこれから取りうる選択、それは全て正しい行いです」
「どっかの教祖様のような物言いだな。その辿った道のりのお陰でアンタはこうして寝たきりだ。正しいものか」
「何度でも言います。あなたが悩み、迷い、抗い、必死で見出したその道は全て正しいのです」
じっとオレを見る。母親の温もりなんてものは知らない。だがおそらくはこういう気持ちなんだろうなと思う視線だ。包まれ抱かれ、身を任せたくなる。
気づけばオレも彼女の瞳に吸い込まれるように視線を向けていた。
「いい加減教えろ。アンタのその傷、どうしたら治るんだ」
ここに来てから、何度となく繰り返してきた言葉である。ニースは時にはぐらかし、時に黙り、明確な返答を避けてきていた。だが今日は少し違っていた。笑顔が微妙に歪む。
「力が戻れば、おそらく……」
「どうすれば力が戻る」
問い詰められ、またしてもニースが黙った。オレはそんな彼女をじっと見下ろしていた。
しばらくはそうしていた。互いの呼吸音だけが耳に届く。オレは何故かそれを心地良いと感じていた。だが彼女は居心地悪そうに、布団の上に添えた両手をしきりに動かし、それを眺めていた。
「仕方のない人ですね」
どっちがだ。
「魔神の器の封印を解けば、力は戻るはずです。だめですよ、余計なことを考えては。あれは恐ろしいものです。人の手には負えません」
オレは大きく作り笑いをしてみせた。それは次第に本物の笑顔へと変わっていた。
「カイムは帝都に魔剣があると言っていたな。どうせ行くつもりだったんだ。ついでにくすねてくるよ」
「相手は『式』を使う使徒です」
「だから何だ。オレの進む道は正しいんだろ? アンタこそ余計なことを考えるのはよせ」
「現金な人ですね」
彼女はふうっとため息にも似た息を吐いた。だが今、オレは見定まった。女神を守る。オレの目的はもともとそれしかなかったのだ。悪いが後はついでなのだ。
「一言だけ、忠告させてもらいます」
彼女は重ねた両手をぐっと握る。口元を引き締め、真剣な顔つきでまっすぐにオレを見上げた。
「生きることに意味を見出して下さい。あなたはどうも死ぬ意味を求めているようですから」
そうして、また再び柔らかく微笑んだ。
「私を守るんでしょう? なら、ちゃんと生きて下さい」
彼女の笑顔は、この部屋を吹き抜ける風のように心地よく、そして儚く感じた。




