episode 18 恩義
そこにはいるはずのない魔獣の群れが、既に屍となった兵士に群がり喰らい尽くそうとしていた。その様子に目を疑いながらも、すぐその場を後に短剣を握り魑魅魍魎が跳梁跋扈する中、急いで階段を駆け上がった。
「ニース……、ニースは無事なのか?」
シンメーの口から激しい息遣いと焦慮する声が漏れる。彼はボレリアス領主であるカスティリオーネの配慮のもと、ボレリアス城からここまで従者として付き従ってきた。自分はクーロンの代わりにここにいる。ニースの身に何か危険が迫った時、自分の身を挺してニースを守る、シンメーはそう心に決めていた。自分の慕うオッサンならこうするであろう、そう考えてのことである。
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カドゥケイタ・メルクリウス二世の突然の婚姻宣言は、周囲をごたつかせるという一点に於いては、充分効果的なものだった。彼の心に大きく横たわる野心がそうさせたということもあったが、今まで見たこともない神々しいまでの美しさに、女神を独り占めにしたいという幼稚な支配欲が、彼をその行動に掻き立ててしまったのである。
そして、彼ならではの身勝手な宣言が招いたものは、ただの混乱だけではなかった。図らずも彼の周囲にくすぶっていた悪意を燃え上がらせるにも、効率のよい燃焼材となったのである。
婚姻宣言から三日後、カドゥケイタは、トリスメギスティ、ボレリアス、両家の部隊を吸収し倍に膨れ上がった軍勢を引き連れ、王都へと帰還のため出発する。
その間、カドゥケイタは夜な夜なニースに接触を図ろうとした。しかしニース本人の頑なな拒絶と、本来女神は婚姻より先に国王への謁見を済まさなければならない立場から臣下の反対を招いたため、実現はしなかった。
そして何事もなく、要衛であるアントニアディ要塞へとたどり着く。ペンタス村を離れて十七日目の事だった。
晴天とも曇天とも言えない曖昧な空模様の静かな午後のひとときのこと、豪奢な装飾を御大層に並べ立てられただけの、品性が欠如した一室にニースを招き入れ、これまで何度も繰り返してきた昼食会が開催されていた。
そこではこれまで何回も繰り返してきた会話……というよりかはカドゥケイタの一方的な発語が、その部屋の雰囲気よろしく無闇に並べ立てられる。だがいつもどおり滞りなく薄れゆくように終わりを迎えるはずの食事会だったはずが、その日は何の前触れもなく唐突に終わりを迎えることとなった。
その異変を最初に感じとったのは、当のニースだった。
「もうすぐ魔獣が発生します。ここは危険です。すぐに逃げてください」
「何を言ってるのさ。魔獣がここに出るわけがないじゃないか」
昼食会で久々に口を開いたニースの口調は、静かだが充分緊張の伝わるものだった。
へらへらと笑い肩を大げさに竦めるカドゥケイタを視界から外し、周囲の衛兵へと、泉に落とした二つの宝玉のように透き通った瞳を向ける。視界の中心に置かれた兵士は、一瞬息を止め、頬を染めるも、只事ではないことを瞬時に察し、いそいそと部屋から出て行った。
「何も起こらないね。可愛い新妻の悪戯にしては度が過ぎると思うわけだけど、どう責任をとってもらおうかな」
カドゥケイタは立ち上がりかけたニースを制止すると、上品な口元を下品に広げた。その時、どこからか悲痛な叫び声が聞こえた。
「ま、魔獣だ! 魔獣がでたぞ!」
それを契機に至る所から同様の叫声が飛び火する。そして部屋にぞろぞろと衛兵が押し寄せてきた。
「殿下、要塞内に魔獣が発生しました。じきここにも押し寄せてくると思われます。退路を確保してありますので我々と一緒にここから脱出して下さい」
「分かったよ。行こうかニース」
だがカドゥケイタから差し出された手をニースは拒んだ。
「あなたと行動を共にするつもりはありません」
辛辣な言葉を投げつつも、それでも自然体に振舞っているニースに苛ついたカドゥケイタは、その口元に力がこもり震わせた。
「連れて行け」
カドゥケイタは踵を返し衛兵の後へと続いた。
「女神様、失礼いたします」
「大丈夫ですよ」
緊張に顔を強ばらせ恐る恐る自分の肩を掴む衛兵に、ニースは優しく微笑みかけながら彼らに促されるままに従い部屋を後にした。
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足をふらつかせながらシンメーは、激痛を拒み、遠のく意識に抵抗し、己の無力さに歯噛みしながら、それでもニースの許へと一歩一歩を進めていた。肘から先を失った右腕から、生温い液体が止めどなく流れ落ちる。強い鉄の臭が鼻をつく。それを嗅ぎとったのだろう、魔獣が殺到した。
「結局何も出来ないんだな俺は。すまねえオッサン、すまねえヤーン、すまねえニース」
目を虚ろに開きながら、うわ言のようにつぶやく。そして左手に短剣を構えた。アレンカールを出るときに、クーロンから手渡された一振である。
「だが最後にてめえだけは道連れだぜ」
目の前に迫ってきた魔獣に深々と短剣を突き刺した。霧散していく一体の魔獣を目に収めながら、へたりつくようにその場に腰を下ろし、壁へと凭れかかった。もうすぐこの恐怖と痛みから開放される。シンメーは自分の最期を覚悟した。そして思う。オッサンならここでも足掻くんだろうが俺には無理だ、と。
その時視界が銀色に染まった。すぐに訪れてくるはずの死がなかなか来ない。意識を失いかけながらも不思議に思ったシンメーの耳に、ぶっきらぼうだが折り目の正しい声が滑り込んできた。
「貴殿は確かシンメーとか言ったな。意識を保て。今助ける」
顔を上げると銀鎧を纏った騎士が、自分と魔獣の間に立ち塞がっていた。
「アミルカン……なぜ……ここに?」
「あの時、コートが命がけで魔族と戦ってくれなければ自分も死んでいただろう。あの男に救われた命。その精算に参った」
アミルカンは振り返らずにシンメーに答え魔獣の群れに応戦する。しかしそれでも一人で迎え撃つのは戦力不足甚だしい。あっという間に守勢に回り、銀盾と銀鎧に傷が増えていく。
「俺はいい……逃げてくれ……」
しかしアミルカンはその場を動かない。自分の体を魔獣に晒し、四肢を踏ん張り、必死でシンメーを守っていた。
「バカ野郎が……」
このままだとアミルカンも道連れになってしまう。そう考えたシンメーはアミルカンの前に踊り出て潔く散ろうと両足に力を込めた。しかし何者かにがしっと両肩を掴まれ、そのまま床に倒されてしまった。
「今止血します。痛みますが耐えて下さい」
声はリュードのものだった。アレンカール公道で偶然出会い、上官に殺されそうになったところをクーロンに助けられたトリスメギスティ兵の一人である。見ると周囲にはトリスメギスティ軍と思われる兵士が数人、アミルカンと連携を取り魔獣と戦っていた。見た顔もいれば初めての顔もいる。
「あなたを見かけた人がいて一隊を引き連れて来ました。上官に知れたら大目玉でしょうね」
そう言ってリュードは笑みを零した。兵士にあるまじき優しい笑顔だった。しかし戦局は停滞したに過ぎなかった。シンメーを守るのが精一杯で、ここから逃げられる状態ではなかったのである。
「確実に……全員死ぬぞ……。悪いことは言わん……行け……」
シンメーの右肩に帯が巻かれ、グッと締め付けられる。その痛みに耐えながら、声を振り絞って忠告した。だが当のリュードはどこ吹く風とばかりに、治療の手を止める気配はない。
「この機会は逃せません。やっとあなたに恩を返すことが出来ますから」
「返すならオッサンにだぜ……」
「あなたです。そしてあなたを助けることであの人にも恩を返せます」
止血と洗浄を終えたリュードは立ち上がり笑顔でシンメーを見下ろした後、魔獣の群れへと突き進んでいった。
だが依然戦局は膠着状態のままだった。突破口を見いだせないまま時間だけが過ぎていく。そして時間は残酷なまでにみるみる疲労を蓄積させていった。
「アミルカン! 遅くなった」
徐々に押され始めたその時、また一人シンメーの元へと駆け寄る兵士の姿があった。
「ははは。ざまあ無いな。生きてるか! シンメー!」
笑い声とともに現れたのは、バルザック・ダリオ。アレンカール公道で、リュード達トリスメギスティ兵に追われているところを助けた、ボレリアス家の三等武官である。
「姫様には報告した。今、一部隊が編成され向かっている。もう少しだ。踏ん張れ」
バルザックの激が飛ぶ。その場にいる全員が、水を得た魚のように息を吹き返した。
「シンメー、あの男に会ったら姫様も俺も、少しばかり恩を返したと伝えてくれ。できるだけ恩着せがましくな」
クーロンが殺されたという報告を受けてなお、バルザックはそう言い残した。そして三等武官はその階級が見合ったかのように、偉そうに振るまいアミルカンの前へと立ちはだかった。
今までさんざん使い捨てのように扱われてきた平民一人の命である。有事の際、真っ先に見捨てられるはずのその命を守らんがため、多くの人が動いている。しかも逃げるよう指示されたが、それに従わず勝手な行動を取りこのような事態を引き起こしたにも拘らず。
ここにいる人は皆クーロンに関わり、クーロンに助けられた人達である。傍にいなくてもなお自分の命を救ってくれた人がいる。恩を返す、たったそれだけのために命がけで駆けつけてくれた人々がいる。それらの想いを全身で感じ取ったシンメーは、子供のように泣きじゃくっていた。
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「もう一度言います。私はあなたと行動を共にするつもりはありません」
ニースはその場で立ち止まる。そして衛兵に囲まれながら階段を下りるカドゥケイタを見下ろし、静かな微笑みを向けた。
「理由は聞かないよ。だけど君は自分の立場がぜんぜん分かってないよ」
女神の声に後を振り返ったカドゥケイタもその場に立ち止まる。
「僕は知っているんだよ。君が神の力を失っていることを。今の君は女神とは名ばかりの年を取ることのないただの人間だよ。そんな君がこれからどうすればいいか。自分でわからないのかな」
ニースはもう話すことは何もないとばかりに表情を変えず、黙ってその場を後にしようと振り返る。その態度にカドゥケイタは怒りを顕にした。
「待て! 僕は君のことを知っているんだよ。助けてくれる人なんかいやしない。僕がいなければ君は一人ぼっちさ。君を助けてやれるのは僕だけさ。それともまた一人でずっと隠れてこそこそと生きていくつもりなのかい? ゴキブリみたいにさ」
ニースは立ち止まった。そしてハッと美しい双眸をこれでもかというくらい見開く。カドゥケイタの言葉に反応したわけではない。感じ取ったのだ。儚く今にも消え入りそうな小さな光。だけど暖かく美しい光を。同時にニースの頭の中に愛らしい少女のような声が響く。ニースは目を閉じその声を心の中に大事に仕舞いこむように聞き入った。
「わからず屋の女神さんでも、ようやく理解してくれたようだね。さあ、こっちへ来るんだ」
その表情の変化を肯定の意思と捉えたカドゥケイタは、ニースに再度手を伸ばす。だがニースはそんなことには目もくれず珍しく少し不機嫌な顔を見せた。いつも静かな笑みを湛えていた女神のこの表情に、ニースの周囲で護衛の任務についていた兵士はやや怖じける。そして一つ小さな溜息を漏らす。と、そこには満面の笑みを浮かべたニースの姿があった。自分に向けられた笑顔と考えたカドゥケイタもこれでもかというくらい甘ったるい笑みを返す。
「またあなたは、一人になろうとしている私の心を強く揺さぶるのですね……」
何かを思い浮かべているかのように目を閉じ、ニースは小さくつぶやく。周りの喧騒にかき消され、カドゥケイタの耳に今の言葉は届かなかった。しかし次の瞬間、今度ははっきりと凛と澄んだ声が彼の耳に届いた。
「私はもう、一人ではないようです」
この状況下で、満開に咲くひまわりのような表情を向けられたカドゥケイタは、初めて目にした女神の心からの笑顔に見惚れてしまっていた。




