episode 16 剣誇
食事会が終わり充てがわれた部屋へと連れて行かれたニースは、片隅に置かれたベッドに、灯りも灯さず俯き加減で腰を下ろしていた。窓から差し込まれる青白い月明かりにニースは既視感を覚える。クーロンの部屋で一晩を過ごしたあの夜もそうだった。窓から差す澄んだ光だけが彼の安らかな寝顔を浮かび上がらせていた。少し前の出来事であるにも拘らず無性に懐かしく思えてしまう。
あの心穏やかな時間に、戻れない所まで来てしまっているのかも知れない。懐かしさの原因をそう悟ったニースは、誰もいない部屋に一人寂しく微笑んだ。
【やっと見つけたのです】
不意に脳内にカナリヤのように可愛らしく甲高い声が響き渡る。大勢の見ず知らずの人々に囲まれ、その中でたった一人大きな流れに飲み込まれようとしている自分。胸の中にひしめいていた心細さが、その一声で払拭されたような気がした。
「クテシフォン? 近くにいるんですか? もしやクーロンさんもそこに?」
クテシフォンとの会話に発声は必要としない。しかしニースは近くにクテシフォンがいることを確かめるかのように、誰にも聞こえない小さな声を発していた。
【いえ。ここにマスターはいないのです。マスターはアナタを助けるためにワタシを手放し、自ら捕まったのです。最後に見たのはボレリアス城だったのです。あのトンチンカンは、全く以って愚かな行為をしてくれたものなのです。執行対象なのです】
「どういうことか詳しく教えてくれますか?」
【そのつもりなのです】
クテシフォンは、ニースと別れてからこれまでの出来事を丁寧に説明した。シンメーとともに夜の森を抜けたこと。幾人の人との出会いと別れ。ここまで辿った道のり。そして最後にこう締めた。
【マスターはニース、アナタのことだけを考えていたのです。確かに、あの何とかって町を救おうと、奔走していたのは事実なのです。でもニースの命が危ぶまれるなら、その町ですら見捨てるつもりだったのです。今ワタシは、偽カドゥケイタの部屋にいるのです。そこにいればいずれマスターの情報が流れ込んでくるはずなのです。その時はニース、ワタシをマスターの元へと運んで行くのです。聖剣は常にマスターの傍らにあるものなのです。そして女神は常に聖剣のマスターによって、護られるものなのです。それがあるべき姿なのです】
ニースは無言で頷いた。そして訪れる静かでゆったりとした時間。その少しの沈黙に終止符を打ったニースの言葉は、クテシフォンにとって意外なものだった。
「羨ましい……」
この一瞬ニースの胸中を去来した感情は、クーロンのいない寂しさでも、これからのことを見据えた決意でもなかった。心話という能力のおかげで、クテシフォンは自分が知り得ないクーロンの心の内を理解してしまう。そして、それ以上に真っ直ぐに自身のマスターを想う彼女のひたむきさに『羨み』を覚えたのである。
自分が眠っていた三百年の間、ニースに何が起こったのか? クテシフォンは黙考する。
人間にとっては長久とも呼べる時の中を、ニースとクテシフォンは共に過ごしてきた。その頃のニースは常に心穏やかに、いつも静かに笑っていた。
しかし今のニースはどうだ。確かに今までと変わらず慈愛に満ちた笑顔を湛えてはいる。しかし時折見せる強い感情の発露は、今までにないニースの姿であった。切なさに涙を流し、恥ずかしさに頬を染め、羨ましさに俯く。それだけではない。一時の衝動に流され、自分を危険に晒す浅はかさは、以前のニースには見られない行動だった。女神などではない。これでは単なる人間なのではないか。クテシフォンはそう思わずにはいられなかった。
【ニース、アナタに一体何があったのです】
思わず発した、捉えようのないクテシフォンの言葉。しかしすぐにニースはその意図を理解した。
「五年前、美しい光を見ました。その光を追って、私はダメと分かっていたんですけど、あなたの傍から離れ、再び人の世界に足を踏み入れました。あの光に近づいて触れたくて我慢できなかったんです。だからあの人の傍にいた時は、本当に幸せでした。ずっとこのままでいたい、そう思っていました。そんなこと許されないと、分かっていたんですけどね。あははは……」
【…………】
力なく笑うニースにクテシフォンからの言葉はなく、感情の波だけが届いた。
「その結果がこれです。これが人ならざる者が人の振りをして身勝手な感情に身を任せた結末なんです。これから私、どうすればいいんでしょうね」
【ニース、やっぱりアナタはマスターの傍に居るべきなのです】
クテシフォンは秘めた決意を言葉として紡ぎだす。
【こんな陳腐なものが結末なわけがないのです。ニース、アナタは心の赴くままでいいのです。マスターの許へ行き、そしてその想いを遂げるのです。いいのですか、神に過ちはないのです。神は常に正当なのです】
少しでもニースの心に届いて欲しい、その思いで言葉を重ねた。しかし返ってきたのは感謝の一言と寂しげな笑顔、そして長い沈黙だった。
クテシフォンは聖剣としてではなく、ただ一つの武器としての誇りがあった。今でもそれはある。だが違う感情が芽生えてきていることも自覚していた。剣でしかない自分、動くことも歩くこともままならないこの姿がもどかしくて仕方がなかったのである。しかしその心に揺らぎはなかった。絶対に譲れない想いがあるのだから。クーロンを探し出し、その手に収まる。ニースと共に。
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気の遠くなるような長い年月、森は人を寄せ付けずにその存在を維持してきた。
一度そこへ足を踏み入れた者はその意図、善悪、あらゆる柵は全く無視され、等しく森の洗礼を浴びる。人間の都合などお構いなしに、そこに巣くう魔獣に襲われ食いつくされるのだ。
月明かりすら届かない森の奥深く、辺り一帯を覆う暗闇。小さな灯火と、飢えた肉食魚のようにそこに群がる血に染まったかのような紅の光の数々。オレとサクヤは、いつ終わるとも知れない魔獣の襲撃を、それでも危なげなく迎え次々と葬り去っていった。
森に入って五日目の夜を迎えていた。眠る前になると未だ塞ぎこむことはあるものの、日に日にサクヤは十代の少女らしい無垢な明るさを取り戻してきていた。
「ハアハア、あらかた片付けましたね」
「ああ、瘴気も大分薄くなってきた。しばらくは魔獣も襲ってはこないだろうな。オレが辺りを警戒する。少し休め」
「だ、大丈夫です。ハアハア。もう少しで何か掴めそうなんです」
額にかかる大粒の汗を拭おうともせず、肩を大きく上下させながら強がる少女は、なおも剣を振っていたい欲求に抗わず、両手の構えを解かずにいた。
「いや、休め。休んで頭を冷やせ」
ここにきてサクヤは、明らかに必要以上に動いている。何かを確かめ、実践し、反芻し、身に馴染ませる行動を繰り返していた。要は鍛錬である。それがサクヤを必要以上に消耗させていた。だがその効果は明白だった。サクヤの剣技が日を追うごとに冴てきているのだ。あれほどの技量を持ちながらも、なおもあまりある糊代の存在に、末恐ろしいものを感じてしまう。
「ハイ……分かりました」
水晶の刃から紅の光が消える。しぶしぶサクヤは剣を鞘へと収めた。そしてオレとサクヤによって、さんざん踏み固められ丁度よい硬さに落ち着いた地面に、ゆっくりと腰を下ろし、筒の水を呷るように飲んでいた。オレはサクヤが落ち着いた頃を見計らい、今まで考えてきた幾つかの疑問を投げかけることにした。
「サクヤ、ちょっといいか?」
「ダ、ダメです! 私まだ十四歳なんですよっ!」
サクヤは何を思ったのかオレを睨みつけ、警戒の姿勢とばかりに自分の胸元をバッと両腕で押さえる。
待て待て待て。どうしてそうなる。有無を言わせぬサクヤの行動に、大きなため息が漏れた。
「今日はもういい……。疲れたよ……」
この五日間で分かったこと。お互い二剣使いということもあるのだが、この娘の剣筋はどうもオレに似ているということ。そして天然だということだ。それも非常に疲れるタイプである。
今なら、あの黒髪の隊長とは楽しく酒を酌み交わせそうな気がした……。
オレ達二人は目的地を王都に見据えることにした。神撃部隊が国王直属の部隊と聞き、そこに活路を見いだせるのではないかと考えたからである。いや、そんな上等なもんじゃない。そこに縋るしかなかったと言える。
森を突っ切り安全な場所で街道に出る。その後は馬でも馬車でも調達して王都を目指す。街道に出るのは途中に横たわる大きな関所を越えてからと決めていた。シュナイベルトの手の者が先回りしている可能性を疑ったからである。そのためかなりの日数を森の中で過ごすこととなってしまった。
「クーロンさん、時間です」
木にもたれかかり仮眠を取るオレの肩を、あどけない黒髪の少女が揺すった。鞘の先端で……。しかももう一振の剣は既に抜剣済、その切先は明らかにオレへと向いていた。準備のよい事この上ない。
数日間、共に戦い共に助け合い互いの背中を預け合ったその相手にこの扱いである。だが信用するなと言った手前、何も言えん。ある意味オレの忠告を生真面目に守っているとも言えよう。
「大丈夫ですか? もう少し寝ていた方が……」
心配そうにオレの顔を覗きこむ。切先をそのまま維持しながら。言動がちぐはぐ過ぎてそろそろ混乱しそうだ。
「いや、いい。大丈夫だ」
そう言えば毎晩見ていたニースの不思議な夢が、ここ数日パタリと止まってしまっていた。余談だが、今朝はアレンカールの『まんぷく亭』のオバちゃんに迫られる夢だ。そのフォルムたるやもちろん満腹、もしくはてんこ盛りって感じだ。大迫力の淫夢に魘され目を覚ますと、眼前には鋭い形状をした紅の光。
王都まで持つのだろうか、オレの精神力は……。
「では、今日も張り切って行きましょう!」
サクヤは何事もなかったかのように朗らかな声に合わせて、意気揚々と一歩を踏み出した。でもその前に一言、言っておかなければならないことがある。オレは後からサクヤの細い肩をガシッと掴んだ。サクヤはビクッと肩を跳ね上げ、そして振り返ろうと試みる。しかしいくらサクヤといえども、大の大人にガッシリ掴まれては思うように体を動かせない。やむなくサクヤは恐る恐る首だけを背後に立つオレに向けてきた。
「な、何でしょう……」
サクヤの目に色濃く浮かび上がる緊張と不安。オレは構わず親指で自分の背後を指し言葉を続けた。
「そっちはボレリアス城。王都はこっちだ」




