episode 15 絶望
「ニース、聞いてもいいかなぁ」
まるで祭りの後のように先ほどまでの喧騒がひっそりと静まり返ってしまった洞窟の奥。松明の明かりが消え聖剣の淡い光だけが、薄い雲に覆われたおぼろげな月明かりのように弱々しく辺りを照らしている。その青白い光に照らされたカイムは珍しく真剣な面持ちであった。
意識を失ったクーロンの元へ駆け寄り膝を突いたニースは、そのカイムの表情に意表を突かれたのか小さくコクッと頷くに留まってしまう。
「彼は一体何者なんだい」
【ワタシも聞きたいのです。ニースはマスターのことを傭兵でオッサンと言ったのです。ですがただの傭兵のオッサンがワタシのマスターに認められ封印を解いて、あろうことか魔族をここまでねじ伏せてしまうなんてとても考えられないのです。いえ傭兵とかオッサン以前に人間として普通じゃないのです。あれほどの歪み、とても人間一人が内包できるようなものではないのです】
カイムの詰問とも取れるような問いかけにクテシフォンも追随する。ニースは黙ってクーロンの寝顔を愛おしそうに見下ろしたまま思考を巡らす。
初めて彼を目にしたのは五年前、雨の日の夜の事だった。魔獣に襲われ命からがらここに辿り着いたのだろう。ずぶ濡れでボロボロになりながら結界の境界付近に倒れていた彼を見つけた。その時のほんの僅かでも触れてしまうと壊れてしまいそうな弱々しく儚げな美しさに、ニースは心を引かれてしまう。ニースは長い間少しずつ溜めていたなけなしの『力』を使い、今まさに力尽きようとしていた彼に癒やしの手を差し伸べた。そしてその二年後、自身を守りぬいた結界を後にし町へと下りる。
その後もニースは彼と何度も言葉を交わした。しかし強靭な外殻を持った精神に、脆く崩れ落ちそうな心はその姿をはっきりと見せることはなかった。先ほどの魔族の男との戦いまでは。
「私にはわかりません」
ニースは愛しい人のことをまだ充分に理解できていない口惜しさからクッと口元を引き締めて答える。
「おそらく私が生み出してしまったこの世界の犠牲者の一人ではないかと思います」
ニースの答えに、納得がいかないとばかりに眉をひそめたカイムは質問の矛先を変える。
「聖剣のお嬢ちゃん、歪みってなんなんだい?」
【お嬢ちゃんではないのです。クテシフォンという名前があるのです】
「そうかいそうかい。ごめんねぇ。じゃあ改めて聞くよクテシフォン。彼の歪みって一体どういうことなんだい?」
【このワタシをおちょくっているのですか。まあいいのです。普通の人間は心の表層と深層に、それ程差はないものなのです。ですがごくたまに、その二つが上手く噛み合っていない人がいるのです。それをワタシは歪みと言っているのです。歪みを持っている人は自覚のあるなしにかかわらず、何かしら力が備わっているものなのです。魔術師なんかはそのいい例なのです。ただ大抵の人は正気ではいられないのです。マスターはその歪みが極端なのです。表層は普通なのですが、心の深層は真っ暗闇で何もないのです。言葉にすると『絶望』が近いのかもしれないのです。怒りとか悲しみとかそういった何と言いますか感情自体が本当に何もないのです。魔族と戦った時のあの姿がその『絶望』に近いのかもしれないのです。マスターは『呪』と言って拒絶しているようなのですが。ワタシもここまでとは見誤ったのです。はっきり言ってこの状態でどうして正気でいられるのかが理解できないのです】
「……そうかい」
一言そう言ったカイムは与えられた情報を整理するかのように、自身のつま先に焦点の合っていない視線を向ける。そして目線を戻しいつものようにニッとおおらかに笑った。
「なるほどねぇ。ボクは彼と魔族が戦っているところを見ていないからよくわからないんだけど、彼はこの世界に絶望していると言うことなのかい? だから強いと」
【おそらくはそうなのです】
ここでニースはクスッっと笑った。
「大丈夫です。クーロンさんは絶望なんてしていませんよ」
蔑んだわけでも皮肉めいたものでもなく本当にただクスッと笑ったのである。
「先ほどの戦いを見て確信しました。この人は絶望に覆われたまま強く生き抜こうとしています」
そしておもむろに立ち上がり膝を払う。
「さて、いつまでもここでこうしていられませんね。これからどうするかは置いておくとして、とにかく森から出ましょうか。と言ってもクーロンさん起きる気配が無いですけど。あはは……」
「ボクが背負っていくよ。それともニース、キミが背負うかい? 」
「いえ、私の小さい背中じゃこの人も心もとないでしょうから」
ニースは俯き、僅かに頬を染めた。
「なんだよ随分としおらしい女神様じゃないか。よいしょっ」
カイムはクーロンを背負う。
「ボクが彼なら選択の余地はないんだけどなぁ。女神様に負ぶさるなんてめったに経験できるものじゃないからねぇ」
「ふふっ、魔神様もですよ」
「いやいや彼はもうボクの背中は飽き飽きしてるよ、きっと。ははは」
そして短剣と聖剣、それと魔族の銀剣を回収した。そしてゆっくりと帰路につく。
「ボクは改めて思ったよ。ニース、今のボクではキミに敵わない」
「あはは、何を言っているんですか? 私はこの通り『力』を失ってしまっているんですよ」
「だけどコート? いやクーロンかい? このオッサンがいる。彼は絶対にキミを裏切らないよ」
【ワタシもそう思うのです。マスターの心の闇の中にニース、アナタがいたのです】
その言葉にニースは俯き沈黙してしまう。それに構うことなくカイムは言葉を繋げる。
「残念だけどねぇボクにはそういう仲間がいないんだ。それにねニース。この歪んだ世界で何の力もないキミが、三千年もの間知恵を絞ってこうして生きてきたんだ。このことは驚愕に値するんだけどねぇ」
「それはカイムさん、あなたもですよ。小さな欠片からこうしてここまで力を身につけた。封印から逃れたこともそうです。あなたは私の想像を遥かに超えています。はっきり言わせてもらえれば、恐ろしいとさえ思っています」
「ボクはそのことを理解しているよ。だけどねぇキミは自分の凄さを全然解っていないんだよ。神々に恐れられた、天才ニースの名が泣くよ。ははは」
おおらかに笑うカイムに、ニースはしかめっ面を向ける。
「やめてくれませんか。そういう言い方」
「ところでこれからどうするんだい?」
「わかりません。とにかく町に帰ります」
「そのあとは? 前にも言ったけど一緒に旅をするってのはどうかな」
「ふふっ、それもいいかもしれませんね」
ニースはこのつかみ所のない魔神に感謝に似た気持を覚えていた。
神世を追放され数多の神々にその命を狙われ、最後には自分により死よりも残酷な封印を施されてしまった不憫で可哀想な神の一柱。いつも余裕をもった態度をとってはいるが、ここまで常に死と隣り合わせだったに違いない。しかしそのことは意に介さず笑って旅をしようと救いの手を差し伸べてくれる。
魔神とは呼ばれているものの、その大凡魔神らしからぬふるまいが少し笑えて思わずクスクスと小さな声を上げ笑っていた。カイムはそんなニースに怪訝そうな表情を向ける。
森を抜けるとそこは、朝日が昇る直前の青みがかった空気に彩られた景色が広がっていた。遠く見下ろすと少しだけ懐かしいアレンカールの町並みが見える。ニースは久々に味わう開放感に全身を使って大きく息を吸った。
「誰だい? こんな所で何しているのかなぁ?」
その時カイムの静かな声が響く。するとガサッと茂みが揺れそこから一人の男が現れた。
「よう、ニース元気だったか?」
声の主はシンメーだった。シンメーは警戒し辺りを見回しながらおずおずとニースに近づいていった。
「はい。私はおかげさまで。ですが……」
「あーあ、オッサン、また無茶しやがったのか。世話ねぇなまったく」
カイムの背中に視線を送り苦笑いを浮かべ肩をすくめる。そしてすぐに口元を引き締めここまで来た理由を告げた。
「ニース、町に戻ったらダメだ。少し危険だがこれからすぐに俺達と一緒にボレリアス城に向かう。あの貴族のボンボン、とんでもないことをやらかしやがった」
「どういうことでしょうか?」
昇ったばかりの朝日が不安げに笑みを浮かべるニースを照らしていた。
ー 第2章 封印の洞窟編 完 ー




