episode 14 泥沼
頭の中に何か靄のようなものがかかる。目に映るもの、耳に入る音、肌に感じる冷たさ、全ての感覚が曖昧になって溶けていく。まるで底なし沼にゆっくりと沈んでいくようでそれでいて、それは不快ではない。そしてオレは意識の殆どを手放してしまった。
【ワタシとしたことが見誤ったのです。人の身でありながらこれほどの歪みを内包しているとは、アナタは一体何者なのですか】
だがいつものような皮肉たっぷりの憎まれ口は、クーロンの口舌どころか思考からも発せられない。クテシフォンは焦っていた。このまま意識の泥沼にどっぷり浸かってしまった男を引き上げることができないのではないかと。『呪』を引き受けると言ったもののその『呪』を受け止めきれない自分に苛立ちを覚えた。
【この男を意識の底から引き上げるのです。ニース、アナタにしかできないのです】
姿形だけを見れば、今まで通りまごうことなきクーロンそのものであった。しかし、ニースの目に映るそれはまるで別の何か、先ほどまでとは全く違う、クーロンの形状を保っているだけの何かだった。愛おしい人が目の前で消滅したような、そのあまりの残酷な光景にニースは放心してしまう。
その間も魔獣は次々と襲いかかってきていた。それを完全に表情を失いおぼろげな目つきを浮かべたクーロンが、二振の剣を振るい淡々と迎撃していく。その動きは今まで以上に洗練されていた。
クテシフォンは声を荒らげ再度ニースに詰めよる。
【何をしているのです。この男の意識の片隅にはアナタの姿だけが小さく映っているのです。この男を元に戻す鍵はアナタなのです。声をかけるなり抱きしめるなり何とかして呼び戻すのです】
しかしクテシフォンの必死の叫びとも取れる声は、ニースに届いているようには思えなかった。呆けたまま、彼女は立ちすくんでいた。
【いえ、このままでいいのです。今のこの男なら魔族と互角とまではいかないのでしょうが、何とか戦えるかもしれないのです】
クテシフォンは賭けに出た。まずは魔族と戦うことを優先する。そしてクーロンを元に戻す。しかしそのどちらもそううまく行くはずがないとも思っていた。
【分が悪い賭けなのです。ですが配当はそう悪くはないのです】
クテシフォンは敢えてクーロンが言いそうな皮肉がかった言い回しをする。そうすることで少しだが心が落ち着いたような気がした。
【こういうのも悪くないかもしれないのです。いつもいつも魔族共の思い通りにはさせないのです】
そして三人は魔族と相対した。視界に入る銀髪紅眼の男。
クテシフォンは、三百年もの長きに亘り待ち焦がれていた己が敵を前に、幾分か高揚していた。
「また貴様……。ん? 以前と雰囲気が違う。右手のあるのは聖剣? 収穫が一つ増えたな」
現れたのはまたしても、あの時の魔族の男のようだった。しかしその声にクーロンは一切の反応を示さず、周囲の魔獣を何事もなかったかのように片付けていく。
路傍の石のごとき扱いを受け、魔族の男はいらだちを隠せずにいた。右手に持つ自身の長髪のような銀の光沢を帯びた片刃の長剣をクーロンに突きつけ、引きつった口を開く。
「今回は準備してきた。あの時のよ……」
発する言葉の合間に鈍色の短剣が割り込む。疾く鋭い。その鋭さに魔族の男は回避しきれず、左腕を犠牲に後方へと逃げる。
短剣に斬りつけられた男の左腕から血が滴り落ちていた。短剣だから耐えられたもののこれが聖剣だったなら、肘から先が体から離れていたことだろう。
見るとその聖剣はクーロンの後方にいる魔獣に突き刺さっている。
魔族である自分が低俗な魔獣などと同等の扱いを受けている。そう感じた魔族の男は、激昂に歯噛みしながらクーロンに斬りかかる。クーロンはそれをなんなく躱し、今度は右手に持つ聖剣を、魔族の男めがけて振るった。
襲い来る青白い光の威圧感に男は萎縮する。
男は既のところで銀剣で受ける。しかし同時に鳩尾に鈍い痛みを感じ呼吸が詰まった。
クーロンは左足で魔族を蹴りつけ、そのまま顎めがけて短剣を振り上げた。短剣は美しい弧を描き、男の顎を掠める。その剣筋にたまらず魔族の男は仰け反ってしまった。
と、そこには頭上から振り下ろされんとする淡い光。巨大な水晶の塊が男の視界を覆う。
受けることも避けることもできないと判断した魔族の男は、止むなく簡単な魔術を組み上げ自身の顔前で小さな爆発を起こした。その勢いで聖剣が弾かれクーロンは後退を余儀なくされてしまう。しかし魔族の男も頭部に少なくないダメージを負って倒れてしまった。手放した銀剣が岩肌と衝突し、金属音を響かせた。
【な、何なのですこの男。常識外にも程があるのです】
クテシフォンの姿が人間のそれだったなら、目を見開き全身を震わせていたであろう。思えば過去に二人の魔族を見てきた。そのどちらも聖剣の力をもってしても単独で戦いを挑むことは馬鹿げている、それほどの存在であった。
そしてその二人の魔族によって自身が忠誠を誓った二人のマスターを失っている。どちらも集団で挑み、隙をつく形で辛くも相討ちに持ち込んだ結果である。魔族という存在はそれ程に脅威の対象なのだ。
ところがだ。この男はなんだ。魔族と正対して斬り結び、あろうことか押し気味に戦いを進めている。いやそれどころではない。圧倒している。クテシフォンにとって、及びもつかない光景が目の前で起こっていた。そして今まさに決定的な勝機を迎えようとしている。
爆発の影響で一時的にではあるものの、視覚と聴覚そして身体機能のほとんどを失った魔族の男は、自身の敗北を覚悟した。しかしクーロンは全く表情を変えず一時だが脅威の去った魔族の男に背を向け、再びニースに襲いかかろうとしている魔獣の掃討に入る。
「本当にあの時の男か。まるで別人。これが聖剣の力なのか」
魔族の男は、虫けらのようにしか考えていなかった、ひ弱でちっぽけなはずの人間の男に戦慄した。だが、それ以上に憤怒した。
硬く握った拳を震わせ、むき出しにした歯を軋ませる。
「だがそんなことはどうでもいい。あくまでも魔獣ごときと同じ扱いをするとは、許せん」
少し回復した魔族の男はふらつきながらも立ち上がり、魔術を組もうと右腕を前にさし出し構えた。その時右肩に痛みが走る。見るとそこには短剣が突き刺さっていた。クーロンが投擲したのである。術を組む隙も与えられず、膝をつき痛みと怒り、そして恐怖に震える。
「狂戦士だな」
魔族の男は思った。怒りも悲しみも何もない。戦いに支配されたあの男にとって、自分との戦いは単なる作業に過ぎないのだと。
周囲の魔獣をあらかた霧散させたクーロンは聖剣をだらりと構え、再度魔族の男に襲いかかる。
一直線。疾い。何と向こう見ずな戦い方だろう。しかし男は、そこに付け入る隙を見つけた。
突進してきたクーロンに対し、魔族の男は闇雲に横へ跳んだ。右大腿が聖剣の切っ先に触れ、肉がごっそりと持っていかれる。そして駆け抜けたクーロンと魔族の男の位置が入れ替わった。苦痛に顔を歪めながらも千載一遇の好機に口角を上げ、ここぞとばかりにクーロンに魔獣をけしかける。そして自身は反転しニースに襲いかかった。
「女神の命、頂く」
ニースを盾にするように背後に立った魔族の男はその首筋に手刀を叩きこもうと左手を振り上げた。そして躊躇なく振り下ろす。
しかし、振り下ろすはずの腕がそこには無かった。驚き見下ろしたその先には、今まさに聖剣で薙払おうと腰をかがめ溜めをとっているクーロンの姿があった。彼の左手に握られるは、先ほどまで自分が握っていた銀剣。それが自身の血に塗れ朱に染まっていた。
間髪入れずに背後から襲いかかる水晶の剣。その時クテシフォンが叫んだ。
【マスターやめるのです。ニースを殺してしまうのです】
脳内を直接かき乱すかのような叫び。クーロンのおぼろげな目つきに僅かだが光が戻る。その網膜を支配していたのはニースの瞳から流れ落ちている涙だった。今まで人前で涙を見せるどころか笑顔を絶やすことのなかったニース。
クーロンは泥沼に浸かっていた意識から這い出た。
ニースは肩を震わせ手の甲で涙を拭っている。
オレは『能力』を開放したのか。記憶がスッポリと抜け落ちている。十年前のあの時と同じだ。いや、十年前は十日ほど記憶が抜け落ちていた。うまく聖剣が『能力』の負の部分『呪』を受け止めてくれたようだ。
現状を把握するためにオレは辺りの様子を見回した。しかしその行動が決定的な隙につながってしまった。魔族の男は右肩に短剣、背中には聖剣が刺さったままオレを蹴り飛ばしたのだ。地面に転がされそこでもんどり打つ。
「アバラが何本かやられた」
オレは一度は口にしてみたかったセリフを言い終え、少しだけ満足する。そして膝をつき魔族の男に向き直る。
魔族の男はニースを盾にする格好で、痛みに苦悶の表情を浮かべながら術を組み終えるところだった。ニースに向け、掲げた右手には拳ほどの大きさの火球がうなりをあげている。
狭い洞窟であれば、術者自身も巻き込まれるはずだ。いやそういうハラか。見ると男も満身創痍だ。
今ならまだ間に合うかもしれない。オレは今一度『能力』を開放する。先ほど蹴られた痛みが倍増し、僅かな時間、意識が途切れる。感覚が研ぎ澄まされ、辺りに充満した血の嫌な臭いが鼻腔を襲う。この低く脈打つ音はニースの心音? 肌に空気が絡みつく。そして魔力の流れを全身で感じ取る。聖剣の恩恵はもうない。時間は十秒。オレはニースと火球の間に入り込み、火球に銀剣を突き刺そうと立ち上がる。しかし魔獣の群れがオレの行く手を遮った。その瞬間、術が完成する。
ニースの背後であとは爆発を待つだけの火球。だがその爆発は一向に起こる気配がない。しかも徐々に火球は収束し今やその灯火は消えかかろうとしていた。
「いやいやみんなお疲れ様だねぇ」
その時、洞窟の暗闇から緊張感のない声が反響する。と同時にあたりの魔獣が次々と霧のように虚空に溶けこみ、そして消えていった。
「探して探してやっと見つけたよ。ボクだけ仲間はずれかい。ズルいねぇ。まあでもねぇ今度はちゃんと間に合ったからよしとするよ」
「き、貴様か術を邪魔したのは」
「いやだねぇ。ボクは何もしていないよ。そこにいる可憐なお嬢さんじゃないのかい」
現れたのはカイムだった。そのカイムの言葉に、そこにいる全員が俯いているニースに視線を集める。と言っても魔族とオレ二人だけなのだが……。しかも俺片目。実質一.五人……。
「私のすぐそばで魔術を組むなんて少し不用意でしたね」
目を腫らし明らかに泣きっ面のニースだが、それでも口元には不敵な笑みが湛えられている。
「私には魔力がありませんから自分で魔術は扱えません。ですけどこんな私でも術に干渉するくらいのことはできます。私が逃げずにおとなしくしていたのは、あなたに魔術を使わせないためです。あなたはもう何もできませんよ。おとなしく自分の世界に戻って下さい」
「おっと。残念だけどねぇそれはボクが許さないよ」
穏やかだったカイムの笑み獰猛さが際立つ。
「キミはボクの糧になってもらうんだからねぇ。ニースもボクに負い目があるんなら邪魔しないで見ててねぇ」
カイムはそう言うと、先ほど斬り落とした魔族の左腕を手に取る。すると消滅する魔獣のように、霧散し消えいった。
「腕一本でこれほどの魔素とはねぇ。今までの努力がバカらしくなってしまうよ」
そしてカイムは魔族の男にゆっくりと歩いて行く。魔族の男は痛むはずの右肩をかばうことはせずカイムに殴りかかった。しかしカイムはひょいと躱すと左手で頭を鷲掴みにする。
「カイムさんやめて下さい。この方もこの世界の、そしてあなたの犠牲者なのですから」
「ニースの頼みでもこれだけはダメだねぇ。だって考えてもみなよ、今逃したらまた来るかもしれないよ彼。そしたら今度こそあのオッサンが殺されてしまうかもしれない。ボクは嫌だねそんなこと。それにねぇ、この人、魔術師と何か良くないことを考えているようなんだよ。残念だけど見過ごすわけにはいかないねぇ」
カイムは言い終わる前に魔族の男を消滅させてしまっていた。
【ニースあの男は何者なのです】
クテシフォンが投げた問いかけにカイムはニースを手で制し自分で答えた。
「取り敢えずははじめまして、にしておこうかな。ボクの名はカイム。魔神の欠片のようなものだと思ってくれればいいよ。可愛いらしい聖剣さん」
「アナタ、ワタシの声が聞こえるのですか?」
「そうみたいだねぇ。これからもよろしくねぇ」
【…………】
終始つかみ所のない態度を崩さないカイムに戸惑っているのだろう。クテシフォンは無言になってしまった。そこで『能力』の反動がオレを襲う。オレは激しい頭痛と思考の混濁に襲われ意識を保てなくなってしまった。
ちなみにオレのアバラは一本も折れてなかった。




