episode 16 贖罪
「高度生命体・一、消滅。『神鎚』消滅。消滅過程を解析します。解析完了。判明。九層以上の高次空間に吸収されたと判断します」
「にわかには信じられませんね。人間が深層に到達するとは」
「何かの間違いじゃ。たとえ主神のお言葉とあっても、余は信じぬ」
ガラス細工が砕けたような甲高い音が、耳の奥の深いところで鳴り響いた気がした。心が壊れた時も音がするんだ。放心のニースは、まるで他人事のようにそんなことを考えていた。
見上げる高い空。降り注ぐ暖かい日差し。めくれ上がる大地からは土の匂いが風にのる。だが全てが嘘っぽく、全てが偽物に思えていた。ただひとつの確たる現実、それは絶望とも言える今の状況だけだった。ニースは大きく息を吐く。そして見上げた瞳に力を込めた。
護ってくれた。抗ってくれた。クーロンは約束を守ってくれたのだ。使徒にまで戦いを挑んで。
悲観の中に燻る僅かな愉楽。その感情を無理矢理に否定し、心の底に押し込める。
ニースは糸で吊るされ引き上げられるかのように、ぬらりとその場に立ち上がる。カイムの封印が解け力が戻ったはずなのに、その力が遠く感じる。体が重く怠い。辺り一帯に響く主神の抑揚のない声と、慌てふためく神々のざわめきを聞きながら、ゆっくりと周囲を見渡した。
瓦礫の跡。幾つもの血痕。折り重なるように積み上げられた、使徒の抜け殻。その全てに鋭利な刃物が通った痕が残されていた。次に空を見上げる。『鐘』を発動したのだろう。百ニ体の使徒が犇めき合っていた。主神の脇腹から背中にかけて二本の切創が刻まれている。まさか……いや、たぶんそうなのだ。これらは全てあの人が必死で足掻き、必死で生きた痕跡なのだ。と、ニースは確信した。
「たった一人で……、バカな人……」
クーロンが最後に見せた表情を思い浮かべる。悔しさを滲ませながらもどこか満足気な、不器用な行動に見合った不器用な微笑みだった。ニースは俯き口ごもり唇を固く結ぶ。その唇がふるふると震える。巨大な光球に溶けゆくように消えてしまった姿が、目に焼きついて離れない。だがそれでいいと思った。いくら心を抉られようとも、この痛みはだけは消えて欲しくない、と願った。
【ニース。申し訳ないのです】
クテシフォンは、先代のマスター、カドゥケイタ・メルクリウスを失った時も同じことを言っていた。その時は本当の意味での彼女の気持ちが理解できてはいなかった。だが今は違う。張り裂けそうな心のありようを、身をもって理解できた。ニースはすまなそうな聖剣の声に、優しく微笑むことにした。
【わも、迷惑したじゃ。かにな】
久しぶりに目にした魔剣の姿に懐かしさを覚える。そうかこの二振の剣が護ってくれていたのだ。ニースは血の染みこんだ袖で一度だけ目元を拭った。掠れた赤い一線が白磁で出来たような白く滑らかな肌に塗りこまれ、顔を横切った。だがそんなことは一切気に留めず、蒼碧二つの瞳にありったけの力を込め再び空へと向けた。
「クテシフォン、クトゥネペタム。本当にありがとうございます」
彼女たちへの感謝の言葉を告げる。だがそれは謝罪に近いものだった。己の不甲斐なさに後悔の念がこもっていた。だがニースは後ろ向きな言葉を、無意識に拒絶していた。それは彼女の心が不安定にぐらついていた証左だった。負の感情に傾くことを拒んでいた。
二剣の他にも彼女に話しかける者がいた。彼女の視線の先、それは、はるか上空からだった。
「主神はお主を神敵とみなし、排除することを決した。神妙にせよ。かつて魔神を封じ世界を救った。それで大人しくしておれば良かったものを。我等の意思に従わず、安易に封印と解くとは実に愚か。神とて罰を受けなければならぬでな、ニースよ」
一本脚の使徒、エクバタナが紫の宝玉を嵌めた杖を尊大に掲げ、言葉を重ねていた。その声を聞きながらもニースは、それにまるで構うことなく、今自分が何をするべきか何がしたいのかを考えていた。そして決意を固め、いつもは笑顔をたたえていた唇をくっと引き締める。
「クーロンさん、待っていて下さい。私、がんばりますから」
覚悟が小さな声となる。ニースの脳裏を掠めた方法、それは世界を破滅させるかもしれない、それどころか神々が居座り幾つもの世界が点々としている混沌にも影響を及ぼしかねないことだった。神をもってしても計り知れないほど大きな決断、残酷な手段。だが彼女はそれをすんなりと受け入れた。いとも簡単に選択した。クーロンと世界を天秤にすら掛けることはなかった。
直後のことであった。ビリビリと体の中を弄くられる感覚が使徒達を襲い始める。今までに味わったことのない不思議な感触が体の中をかき乱す。ある者は嫌悪感をあらわにし、ある者はおののき、動揺した。回復行動をとっていた主神も危険を察知し、その行動を即中断、解析行動に移行する。
「使徒ニース。『式』を構築しています。式の様相・不明。目的・不明。脅威度・不明。解析を続行します。情況を判断。現状でニースの『式』を最大脅威とみなします。直ちに解体を提案します」
その言葉を合図に、神々は目に見えない攻防を繰り広げ始めた。ニースが構築する『式』に、そこにいる全ての使徒が干渉を始めた。『解式』でもって精緻に組み上げてゆく『式』を乱雑に上塗りし解体を試みる。ゆえに『式』は構築に難く解体に易し。圧倒的に組み上げるのに手間がかかるのである。更には主神を除く百一体の使徒が『解式』を行っている。『式』は一瞬で消滅するはずだった。
だが、あろうことかその状況の中、ニースの『式』は次々と組み上げられてゆく。使徒達は何がどうなっているかすら理解できず、『解式』されながらなおも高く積み上げられてゆく途轍も無く厖大な『式』の威容を感じていた。
「解析。『式』の構築速度が解体速度をはるかに上回っています」
ニースは久しぶり感覚に戸惑いながらも、己の力を探る。そして、今まで見たことも聞いたこともないような煩雑で巨大な『式』を、ひとつの目的のためだけに糸を紡ぎ編むように丁寧に組み上げていた。ただそれが凄まじく速い。手管や搦手などではない。単純に速いのである。魔神カイムをして「天才ニース」と言わしめた。それは揶揄でも比喩でもない。他を圧倒的に凌ぐ処理速度が、天才と呼ばれカイム討伐の命を与えられた一因であった。
【ニース、何をする気なのですか】
クテシフォンの声にニースは一瞥もくれず一心不乱に『式』を組んでいた。だが、急に堰を切ったかのように強い想いがとめどなく流れこんでくる。
―― 早く、早くしなければ、届かないところまで遠のいてしまう ――
ニースの心の叫びが聞こえた。同時に焦燥が駆け巡る。以前ニースから聞かされていたこと、それは、死んだ人間は『式』を以ってしてもどうすることも出来ない。なら今彼女は何をそう必死になっているのか。クテシフォンは自問した。
【時間とば、ねがったことにするんでねな】
ニースの足元で自身と折り重なり横たわるクトゥネペタムの声に、虚を突かれた。時間を戻しクーロンの死をなかったことにする。ありうる話だった。それならば、必死な理由も焦る理由も辻褄が合う。だがしかし、いかに神とはいえ、本当にそんなことができるのだろうか。その疑問は、ニースの表情を見てきれいに霧散した。
【やるつもり……なのですね】
力の篭った顔だった。淡々とした奥底に全てを投げ打つ気構えが、秀麗な顔に顕れていた。その時だった。空から再び主神の感情の波が感じられない、冷たくも温かくもない声が響き渡った。
「『式』解明・因果に干渉しています。時間が歪曲しています。危険度・計測不能。使徒ニース・優先攻撃対象に指定。半数は速やかに使徒ニースの排除をして下さい。解析行動からこの世界の崩壊行動に移行します。更新。行動を開始します」
マスターを失った聖剣、魔剣は力を奮えない。使徒が次々に襲ってくる光景を見ていることしか出来ない。クテシフォンはあらん限りの大きな声でニースの脳に介入した。
【ニース! ニース! やめるのです。逃げるのです。早く!】
だがニースはそのまま『式』を組み続けていた。いつしか微風に揺れる鳥の羽のように軽やかに舞い、水晶のように透明度の高い美しい歌声を発していた。
そこに数体の使徒が降り立つ。先頭の使徒が右腕を水平に掲げ、後ろの使徒を制する。その腕には手のようなものはなく、代わりに身が厚く反りが強い片刃の刀の形状のものがあった。それは見るからに鋭利であった。
「いかに命令と言えど仮にも使徒。尊厳もあろう。小生が話をつけに参る。各方はそこで待たれよ」
使徒の中でも身分があるのか、それとも実力か、奇妙な口調の使徒に従い後続の使徒はその場で足を止め静観する構えを見せた。
髪を後ろに一本に結い、それを頭頂に持ってくる珍奇な髪型をした頭を下げ、深く折り目正しく一礼する。もたげた頭を上げ厳しい表情をニースに向けた。
「良き歌に良き舞。見事なり。一つ伺いたいのだが、その歌と舞に何か意味があるのであろうか」
男の問いかけにもニースは反応を示さず、ただ舞と歌に没頭していた。
「貴殿の目的は皆目見当もつかぬが、そろそろ終わらせてはくれぬか。そうでなければ、この刃の染みにしなければならぬ故。如何いたす」
ニースはちらりと横目で流す。そして申し訳無さそうに眉尻を下げ口角を僅かに上げた。それが男に対する彼女の反応の全てだった。あとはまた何事もなかったかのように歌い舞う。その姿を目にした奇妙な口調の男は、瞑目し軽く俯いた。腰を落とし左斜に構え、左腕を右腕に添える。右腕の先端を腰の高さに置き、切先をニースへと向けた。
「参る!」
一声張ると、カッと目を見開きニースの脇腹めがけ突く。刃が深々と食い込んだ。舞が止まる。ごぷっとニースの口から血が溢れ、歌も止まった。
「何故避けぬ!」
刃を抜き放ち、半歩下がる。そして右腕を肩口に垂直に構え、次の斬撃に備える。と、奇妙な口調の使徒は驚きに目を見開いた。刃が穿ったはずの脇腹の創痕がきれいさっぱり消えていた。ニースにはもう一つ、類稀なる力があった。
「そうか、貴殿が『再生』を司る毘売神殿であったか。なれば遠慮はいらぬ、ということだな」
言い終わるやいなや、間髪入れずに右腕を振り下ろした。ニースの体が二つに分断される。だが直後、何事もなかったかのように切り口がつながり、消えていた。使徒の肉体ともいえる『器』は『楽園』で構築される。この世界に存在しない物質がゆえに、使徒といえど再生はままならない。それをニースは瞬時に行使していた。
だからであろう、敢えて使徒の攻撃を受けることを選んだ。『式』に集中したいという思いもあったにはあったが、もう一つ、まがりなりにも同族である神の猛攻に晒された一人の人間に対する償いの意味も込められていた。贖罪を渇望していたとすら言えた。
痛みをこらえ、ニースは『式』を組み続けた。




