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黄金の帝国  作者: 亜蒼行
死闘篇
46/65

第三九話「第三の敵」

 月は変わってタシュリツの月(第七月)の一日。戦いから一夜明けはしたものの、竜也は休む間もなく後始末に追われている。


「損害を把握しなければ。兵を原隊に復帰させて点呼を」


「捕虜の見張りが足りません、部隊の派遣を」


「白兎族に来てもらわないと捕虜の振り分けが」


「焼け落ちた櫓の再建を」


「敵兵の死体の埋葬が必要です」


「敵兵の生き残りがまだ町にいるとの報告が」


 総司令部も野戦本部も大混乱に陥っている。被害の全容はまだほとんど明らかになっていないが、司令官にも官僚にも死者が出ているようで人手が全く足りていなかった。


「ともかく、優先順位を決めて一つ一つ対処していくしかない。捕虜の処理が最優先、次に敵兵の生き残りの掃討を。港で捕虜の振り分けをやるからできるだけ兵を集めてくれ。白兎族も全員集めろ」


 竜也もまたベラ=ラフマを伴って港へと移動。大勢の官僚が指示を求めて竜也に付いてくる。竜也は捕虜振り分けの作業(の準備)に立ち会いながら官僚から報告を受け、指示を出し続けた。そこにラズワルドやファイルーズ達も合流してくる。


「タツヤ様、ご無事でしたか」


 と安堵の様子を見せるファイルーズ達。だが竜也には無事を喜び合い、感慨を抱いている暇などない。


「ラズワルドは白兎族を指揮して捕虜振り分けを進めてくれ。ファイルーズは太陽神殿の神官を使って住民の慰撫を。疫病が流行らないうちに死体の埋葬をしなきゃいけないんだが、兵が足りないんだ。町の住民を集めてその作業をやってもらいたい、説得を頼む」


 ラズワルドとファイルーズが「判った」「判りました」と頷いて行動を開始する。ミカとカフラにも即座に書記官としての職務に戻ってもらった。

 一方武装解除されたエレブ兵は列を作って港への移動途中で、彼等を連行するのはアミール・ダールだ。その道中、列の後方で騒ぎが起こった。


「何だ?」


 とアミール・ダールは行進を中止させ、列の後方へと馬主を向ける。しばらくすると報告の伝令が到着した。


「何が起こった?」


「捕虜の一部が突然暴れ出し、逃げ出しました。ノガ殿が追っています」


 逃げ出したエレブ兵は百人余り、全員が北に向かって一目散に駆けている。それを騎乗したノガが追い、ノガの後を武装したヌビア兵が追った。瞬く間にエレブ兵の最後尾に追いついたノガは馬上で剣を振ってエレブ兵を斬り、ノガの騎馬がエレブ兵を踏み潰す。追われるエレブ兵は互いに視線を合わせ、頷き合い――逆襲に転じた。十人近いエレブ兵が一斉にノガの馬に飛びかかる。四本の足に二人ずつがしがみつくように体当たりした。


「何っ?!」


 馬は足を取られて転倒し、投げ出されたノガは路上を転がった。もちろんエレブ兵は誰一人として無傷ではいられない。全員が骨を砕かれ、あるいは腹や腰を踏みつぶされた。

 仲間の挺身に感化されたのか、逃げ出したはずの多くのエレブ兵がきびすを返してノガの方へと突進してきている。彼等は素手のままノガに飛びかかり、ノガの剣で斬り捨てられた。


「何だ、どういうことだ? こいつ等何を考えている?」


 何人もの無手のエレブ兵を斬り伏せながらも、ノガは戸惑いを隠しきれなかった。やがてはノガの配下の兵が追いついてエレブ兵を処理していく。路面は流れる血に赤く染まった。立ちふさがったエレブ兵は一人残らず殺され、ノガは追撃を再開する。が、


「……間に合わなかったか」


 ノガは河口に近いナハル川の岸辺に立ち、川を泳いでいるエレブ兵を見つめている。逃げ出したエレブ兵は全部で百人ほど。そのうちの三分の二がノガの前に立ちふさがって殺され、残りの三分の一が川に飛び込むのに成功していた。川面には三十ほどのエレブ兵の頭部が浮かんでいるが、見る間にその数が減じている。次々と水に沈み、そのまま浮かび上がってきていない。


「いかがしますか?」


「――捕虜より溺死を選びたいのなら好きにさせてやればいい。見張りの兵は残しておけ」


 ノガはナハル川に背を向けながら、


「……あの中にどうしても捕虜になりたくない奴がいて、そいつが足止めをするよう部下に命じた。そう考えるのが一番自然だが、いくら命令でもあんな真似ができるのか?」


 百パーセント死ぬことが自明でありながらも、無手のまま騎兵や完全武装した兵に立ち向かい、時間を稼ぐためだけに死んでいく。ヌビア軍の中で兵にそれだけの要求ができるのは、兵がそれに応えるのは、アミール・ダールとマグドの二人くらいのものではないだろうか。


「一体エレブのどんな将軍がここにいたっていうんだ?」


 考えても仕方のないことでありながらノガは疑問を抱かずにはいられなかった。

 一部の捕虜の逃亡は全体に波及しないうちに速やかに処理され、アミール・ダールとエレブ兵捕虜は港へと到着した。エレブ兵は二列縦隊、その両外側から完全武装したヌビア兵の列が挟んでいる。エレブ兵の数は一万弱。多くの者が負傷し、力尽きる寸前といった様子だった。

 強い風に分厚い雲が流れ去り、眩しい日差しが一〇日ぶりに地面を照らした。竜也は顔をしかめながら太陽を見上げた。


「……あと一日早く晴れていたら、こんな奇襲を受けなかったものを」


 そのとき、異様などよめきが港に広がる。見ると、大勢のエレブ兵が力尽きたようにひざまずき、声を上げて泣いていた。警備の兵も戸惑ったように顔を見合わせている。


「な、なんだ?」


 竜也はラズワルドとベラ=ラフマの元へと向かった。二人は竜也の姿を見ただけでその用件を把握する。


「……『神様に見捨てられた』って泣いている」


 ラズワルドの説明は端的すぎたため竜也は返ってわけが判らなくなった。その竜也にベラ=ラフマが補足する。


「皇帝は、彼等が昨晩どのようにして奇襲を成功させたとお考えですか」


「……敵がトズルを突破したって噂が流れていたが、いくら何でもそれは間違いだと思う。そうなるとどうにかしてナハル川を越えたってことになるけど」


 竜也はそのまま腕を組んで考え込む。ベラ=ラフマは少しだけ間を置き、早々にその答えを提示した。


「彼等は真正面からナハル川を越えたのです――何一つ新しい手段を使わずに」


 竜也は一瞬だけ思考を停止させ、


「……それは、いつものように、兵が丸太に掴まって泳いで渡った、ってことか?」


 その確認にベラ=ラフマが頷いた。


「夜に? あの雨の中を? 増水したナハル川を、あの急流の中を?」


「その通りです」


 ベラ=ラフマは断言するが、あまりのことに竜也は容易には信じられなかった。


「……まさかそんな。どう考えても九割方溺れ死ぬだろう。これだけの兵が上陸しているのなら、その一〇倍の兵が昨日溺れ死んだことになる」


「実際そうなっていると見られます。だからこそ彼等は嘆いているのです。『何故もう一日早く降りやまなかったのか』と」


「まさか……そこまでやるのか、聖槌軍は」


 自軍の被害を意に介さない聖槌軍のあり方に、竜也は戦慄する。一方捕虜のエレブ兵も、自軍のあり方と「神に見放された」という思いから、反抗の意欲を喪失したようである。反乱や逃亡を企図する不穏分子は一万弱の捕虜の中から十数人しか見出されず、その十数人はシャッル等奴隷商人に無償で譲渡された。

 なお、この日の夕方ライルがサフィナ=クロイに到着。トズル陥落の危機が知らされ、竜也達を更なる混乱と絶望の坩堝に叩き込む。が、幸いにしてさほど間を置かずにヴェルマンドワ伯のトズル攻略部隊が撤収したという連絡がもたらされた。






 翌日になってもヌビア側の混乱は未だ続いている。

 ラズワルドやファイルーズ達はケムトの大型船に移動して一夜を明かした。イムホテプがケムトから乗ってきた船の中の一つで、トルケマダに対する謀略にも使われた船である。ファイルーズ達はその船を臨時の竜也の公邸とすることにした。だが竜也はその公邸に戻る間もなく徹夜で仕事を続け、サフィナ=クロイを奔走している。


「皇帝、海岸に……」


 朝方、竜也は兵士から注進を受けて海岸へと馬を走らせた。登ったばかりの太陽が海を輝かせている。そして磯辺には何か白いものが無数に漂着していた。


「……あれが全部死体か」


 海岸に漂着していたのはエレブ兵の死体である。渡河に失敗して溺死し、海まで流されたエレブ兵の死体。それが潮流に乗り風に押され、海岸に押し寄せている。ざっと見積もって、見える範囲だけで数万体。エレブ兵の死体は海岸を埋め尽くさんばかりだった。


「……到底全部は埋葬できない。海に押し戻して流してしまうしかない」


 顔を青くした竜也がそう指示を出す。命令を受けた軍団長の一人はうんざりした顔を見せたが、無言でその命令を受け入れた。

 竜也はその足で野戦本部へと向かった。血を大量に喪ったかのように身体が底冷えし、眩暈を覚えている。野戦本部に到着した竜也は血色の悪くなった顔をアミール・ダールへと向けた。


「軍の状態はどうだ?」


「態勢の立て直しの真っ最中です。今しばらくお待ちを」


「今敵の攻撃があったら、どうなる?」


 アミール・ダールがその問いに答えるのに、少し間が開いた。


「……我々は大きな損害を受けましたが、敵が受けた損害も我々以上のはずです。彼等とて態勢の立て直しが必要です。攻撃は当分先になるのでは?」


 竜也は沈鬱な顔で首を振った。


「そうなるかもしれないが、そうならないかもしれない。だがこんな奇襲があった以上奴等にはこちらの常識は一切通用しないと考えた方がいい。自軍の疲労や損傷を無視できるならいつ攻撃があっても不思議はないし、早ければ早いほど効果的だ」


 竜也の指摘を受け、アミール・ダールは真剣な表情で考え込んだ。


「……確かに皇帝の言われる通りです。奇襲を受けることなど二度とあってはなりません」


「頼む。頼りにしている」


 野戦本部を後にした竜也は町中の仮設総司令部へと向かった。ナーフィア商会が自分達の本部として建てていた建物を譲ってもらい、そこに設置されたものである。戻ってきた竜也を待ち構えていたように官僚達が殺到してきた。


「焼失した契約書に代わる再契約書に署名を」


「弾薬の補給計画の修正案です」


「戦闘で家を失った市民の避難場所について指示を」


「各自治会の代表が皇帝に面会したいと」


 竜也はその日も書類仕事に追われほぼ徹夜した。






 さらにその翌日、長雨の戦いから三日目。ようやく軍の損傷の全容がほぼ明らかとなり、そのあまりの大きさに誰もが言葉を失っていた。ナハル川方面はアミール・ダール、トズル方面からはライル。その二人が竜也に直接報告するために仮設総司令部の執務室にやってきている。

 アミール・ダールはまず軍団長クラスの戦死者一覧を竜也に提出した。


「帝都治安警備隊長アラッド・ジューベイ、戦死。ナハル川方面軍・第一軍団軍団長セアラー・ナメル、第六軍団軍団長マアディーム、第一一軍団軍団長タハッディ、戦死。ザウガ島要塞指揮官インフィガル、ツェデク、戦死」


 戦死者一人の名を読み上げるたびに血が一リットル失われるかのようだ。眩暈を起こした竜也はこのまま気絶したいと思ったが、何とか踏みとどまった。だがアミール・ダールの報告はそれで終わりはしなかった。


「治安警備隊の半数が死傷しました。ザウガ島要塞は陥落、生存者はなしです。トズル方面では死傷者五千」


 一つの報告をするたびに、自分で自分にナイフを突き刺しているかのような激痛と消耗を感じている。だがアミール・ダールは超人的な自制心をもって無表情を装い、機械的に報告を続けた。


「……ナハル川方面では戦死者・行方不明者だけで二万。負傷者は三万です」


 それでも全軍の半数が行動不能という結論には、アミール・ダールすらも声を震わせずにはいられなかった。竜也は腰が抜けたかのように執務机に着席し、そのまま頭を抱えてうめき続ける。しばらくして、ようやく目の前にアミール・ダールが立っていることを思い出した。


「その、将軍。お悔やみする」


 アミール・ダールは長男のマアディームと四男のツェデクを喪っていた。アミール・ダールは首を振る。


「敵の奇襲を見抜けずにこれほどの損害を出したのは私の責任です。処罰はいかようにも」


「油断していたのは俺も同じだ、将軍だけに責めを負わすことはできない。それに、今は過去を悔やむよりもこの先どうするかを考えなきゃいけない」


 竜也の言葉にアミール・ダールは「確かに」と頷いた。


「ナハル川方面軍の戦力はほぼ半減しています。トズル方面も同様の状態です。今、以前と同規模の敵の攻撃があれば、両方面とも到底防ぎ得ないでしょう」


 胃痛を堪えているかのような竜也がのろのろと口を動かす。


「……この町と東ヌビアの各町で兵を徴募して補充する。それまで今の兵数で維持できないか?」


「徴募した兵に訓練を施し、使えるようにするまでは時間が、どんなに短くとも一ヶ月は必要です。それまで敵が待ってくれるかどうか」


「トズルでは今すぐ兵を必要としています」


 とライルが口を挟んできた。


「おそらくヴェルマンドワ伯は手持ちの食糧を食い尽くしてそれ以上の戦闘が不可能となったために撤退したのでしょう。ですが、三倍の敵を相手に切り札なしで戦った損害は甚大です。堰を再建するための兵も足りません。今のままでは敵はトズルをほぼ素通りできてしまいます」


 ライルはいつになく必死な様子を示していた。だがアミール・ダールは氷の壁のように冷たい態度を取るだけだ。


「兵が足りないのはこちらも同じだ。一兵たりとも他に裂く余裕などない」


「将軍はトズルが陥落しても構わないと言うのですか?」


「トズルを守ってもナハル川方面が落ちていては意味がない」


 一兵たりとも他所に回したくないのはアミール・ダールのかけ値なしの本音である。だがアミール・ダールほどの男にトズル防衛の重要性が判らないはずがない。彼が頑なな姿勢を示しているのは、


「……工作隊から二五〇〇、他から二五〇〇。何とか工面してトズルに送ってくれ」


 竜也のこの裁定を見越してのことだった。竜也が苦渋の思いで出した指示にライルは喜び、アミール・ダールは渋い顔を作って見せる。


「皇帝、それだけの兵を送ってナハル川方面は」


「市民に最大限協力を仰ぐからそれで何とかしよう。トズルじゃそれもできないんだ、補充を送るしかない」


 アミール・ダールはそれ上抗議することもなく、竜也の命令を受け入れた。これでライルやトズル方面の将兵は、アミール・ダールではなく竜也に感謝や支持を向けるようになるだろう。アミール・ダールのこのような振る舞いはエジオン=ゲベルの宮廷で生き延びるうちに身に付けた処世術だった。

 アミール・ダールとライルが退出し、竜也は一人となる。その途端、竜也は胸を抱えて床に這いつくばった。


「胃が、胃が……」


 しばらく忘れていた胃の痛みを久々に覚える。何とか起き上がった竜也は用意していた薬湯をがぶ飲みした。あまりの苦さに涙がこぼれる。

 竜也は少しだけ休んでから官僚を集め、指示を出した。


「兵が足りない、すぐに徴募を。この町だけじゃなく近隣の町や村でも集めろ。工作隊の補助兵は全部正規兵に回すから、市民から協力者を募って工作隊を充員してくれ」


 指示を出し、仕事が一区切りついたところにベラ=ラフマとディアがやってくる。


「銀狼族とは連絡が取れたのか? 聞かせてくれ」


 竜也はまずディアから報告を受けることとした。硬い表情のディアが竜也に語る。


「……今回の作戦はアンリ・ボケの主導だそうだ。一族の者も他の一般の兵士達も、作戦の直前まで何も聞かされていなかった。あの日の夕方に雨の中兵が集められ、夜中近くになってから渡河を命じられたのだ。あまりに滅茶苦茶な命令だったので抵抗する部隊もあったらしいが、枢機卿派の軍団が督戦隊となって抵抗する部隊に攻撃を加えようとしたそうだ。渡河を強制されたのは全員王弟派の兵で、その数は二〇万……一人として北岸には戻ってこなかった」


 執務室は鉛のように重く冷たい沈黙に満たされる。ディアの歯が軋む音だけが聞こえた。


「……一族のうち一〇人が王弟派の軍に加わっていた。まだ誰も帰ってきていない」


 ディアの瞳に涙が溜まる。竜也は何か言おうとして、何一つ言葉が出てこなかった。


「……その、ご苦労だった。船で休んでくれ」


 ありきたりな慰労の言葉を掛け、ディアを退出させる。執務室には竜也とベラ=ラフマの二人が残された。竜也は重苦しいため息をつく。


「バール人や他から何か情報は?」


「追加報告することは特に何も。情報が錯綜しており、まだ確定的な情報が掴めません。アンリ・ボケが死んだという情報もあります」


 あの男がそんな簡単に死ぬはずがないだろう、と竜也が憮然として呟き、ベラ=ラフマもそれには同意した。


「聖槌軍は王弟派と枢機卿派に完全に分裂しています。いつ両者の衝突が起こっても不思議はありません」


「情報収集とともに両派閥の対立を煽る工作を。王弟派と枢機卿派を相打ちさせて弱体化させ、時間を稼ぐ。それ以外に俺達が生き延びる道はない」


 ベラ=ラフマに指示を出し、執務室から退出させる。竜也は刺すように痛む胃を抑えながら書類仕事を再開した。

 竜也は自軍の多大な損害に打ちのめされながらも、必死に立て直しをしようとしている。そしてそれは聖槌軍側も、ユーグも同じことだった。






 ユーグは近衛だけを伴い先行してスキラを目指し、タシュリツの月の二日にはスキラに帰着した。スキラの聖槌軍は今、完全に分裂し、王弟派は海岸側に、枢機卿派は山側に依拠していた。そしてその境界線では武器を手にした両派の兵士がにらみ合いを続けている。ユーグが王弟派の拠点に姿を見せると、兵士が爆発的な歓呼を挙げた。百人隊長や軍団長は涙すら流している。

 スキラ港の要塞、会議室に使っているその一室に入ったユーグは、その場に集まった将軍の中にタンクレードの姿を認めた。


「報告してくれ。何があった?」


 それを受けてタンクレードが「はい」と一歩前に進み出、ユーグに報告する。


「エルルの月の三〇日の夜、枢機卿アンリ・ボケが渡河作戦を決行しました。動員されたのは全て我々、つまり王弟派に属する将兵のみです。二〇万以上が渡河を強制され……一人も戻ってきておりません」


 室内の空気が真冬の海水になったかのように、冷たく息苦しい。声を発する者は――それができる者は一人もいなかった。


「……なぜだ……どうして」


 長い時間を経て、ようやくユーグが呟くように問う。それだけでタンクレードはユーグの問いを理解した。


「枢機卿は殿下と約束しました。『枢機卿自身が先頭に立たない限りは王弟派の指揮権を委ねない』と」


 その通りだ、とばかりにユーグは強く頷く。タンクレードが続けた。


「そして、枢機卿は約束を守ったのです」


 ユーグがタンクレードへと顔を向ける。ユーグにはタンクレードの言うことが理解できない。推測はできるが、理性と常識がそれを否定した。タンクレードは剣を使って床に線を引いて説明する。


「これがナハル川です。集められた王弟派の軍はこの位置に配置されました。枢機卿派はここです」


 王弟派は川に面した場所に位置し、枢機卿派はその後方。王弟派は枢機卿派と川に挟まれている形である。


「枢機卿はここにおりました」


 タンクレードの剣先がある一点を突き刺す。そこは王弟派と川の間に位置し、王弟派の将兵の誰よりも川に近い場所だった。


「枢機卿はその場所で聖戦を称える説教をし、自ら率先して川に飛び込み、南岸へと向かったのです。枢機卿の鼓舞につられ、先頭の部隊が次々と川へ飛び込みました。殿下の約定があり、また後方からは枢機卿派に押されたこともあり、二〇万の将兵全員が川に飛び込まざるを得なかったのです」


 本来なら王弟派の二〇万に続いて枢機卿派の二〇万も渡河を決行するはずであり、それはアンリ・ボケも約束していた。


「……ですが、枢機卿派の中で渡河を決行した者は一人もおりませんでした。あの連中は我々を川に突き落とすような真似をしておきながら、自分達は身の安全を図って……!」


 タンクレードが歯ぎしりをし、彼の憤怒を全員が共有した。ユーグは深呼吸をして冷静になるよう努めつつ、問う。


「兵力差はどのくらいになった?」


「枢機卿派は三〇万のまま。我々王弟派は、一〇万に満たないかと」


 そうか、とユーグは頷く。つまり枢機卿派はアンリ・ボケ一人を生け贄に捧げて敵対派閥の二〇万を削り、彼我の差を一対一から一対三まで広げたのだ。

 タンクレードがユーグへの報告を終えたところで伝令の騎士がやってきて、ある報告を伝える。タンクレードはそれをそのまま自らの主君に伝えた。


「枢機卿ベルナールが殿下との会談を求めています」


 あの男が、とユーグが呟く。ベルナールは聖槌軍に参加した聖職者の中ではアンリ・ボケに次ぐ地位の持ち主であり、枢機卿派の最高幹部の一人である。アンリ・ボケ亡き今枢機卿派を指導するのは彼をおいて他にはいない。だがユーグにとってはアンリ・ボケの腰巾着でしかなかった。


「判った、応じよう」


 ユーグの判断をタンクレードも頷いて是とした。

 ……ユーグとベルナール、王弟派と枢機卿派の会談が持たれたのはその日の夕方である。場所は例によって太陽神殿跡地の聖槌軍本陣だ。


「会談に参加するのは両派から幹部が三人まで、護衛が一〇人まで。それ以外の両派の兵士は五スタディア後方で待機」


 ユーグの出した条件をベルナールは無条件で呑んだ。自軍内の幹部同士の会談に必要な条件には到底見えないのだが、誰もそれを不自然とは思っていない。


「王弟殿下にはご足労をおかけします。会談に応じていただいたこと、このベルナール、感謝の極み」


 卑屈な笑みを浮かべて揉み手で追従をするのはベルナールだ。ベルナールは司教を一人、ディウティスクの将軍を一人同行している。一方のユーグはディウティスクとイベルスの将軍を同行させており、ユーグ達は無言のまま冷たい目でベルナールを見下ろしていた。


「……いえ、あの、殿下がお怒りなのは当然でしょうが、どうかお聞きいただきたい。あの雨の中、あの急流の中に飛び込んで一〇スタディアも泳いで向こう岸までたどり着いて戦うなど……そのような愚かな作戦は拒絶するのが当たり前ではないですか? 我々は当然の権利を行使して自らを守っただけのこと」


 その言い訳にはユーグも「もっともだ」と頷いたことだろう――ベルナール達枢機卿派が王弟派の将兵を川に追い落としてさえいなければ。

 冷たい目のまま無言を貫くユーグに、ベルナールは冷や汗を流しながら続けた。


「一切の責任を負うべきアンリ・ボケは自分の愚かさに相応しい死に様を遂げました。もうあの男はいないのです! 我々が対立すべき理由はもはやどこにもない、違いませんか?」


 ベルナールは高らかにアンリ・ボケの死を謳い上げる。ベルナールにとってもアンリ・ボケは重しでしかなかったようで、今は雪解けの春のように晴れやかな顔をしていた。


「殿下が奪われていた全軍の指揮権は殿下に元に返されます。当然ながら、軍の指揮においては我々も殿下の命令に服しましょう。ただ、教会の中のことはこの私にお任せいただければ……殿下は俗、私は聖、私達が協力するのは全軍にとって利益となりましょう。私はあの男のように愚かしい真似も、殿下の権限を掣肘するようなこともいたしません」


 ベルナールが求めているのは、アンリ・ボケの後継者としての地位の保証だった。その見返りにベルナールは教会側を率いてユーグに全面協力する。決して悪い条件の取引ではない、両者にとって利益のあることだ――それはユーグも理解できた。だが、


「言いたいことはそれだけか?」


 ユーグの第一声は氷よりも冷たいその一言だった。思わぬ回答にベルナール達は顔を青ざめさせた。


「な……まさか、戦いをお望みなのですか。我々に勝てるとでも」


「彼我の差は三倍にもなるのだぞ!」


 色めき立つベルナール達に対し、ユーグは冷笑を返すだけだ。


「お前達こそ、この僕を舐めているのか? あの男のいないお前達が僕にかなうとでも思っているのか。僕とまともに戦いたいのならせめて五〇万は集めてからにするがいい」


 ベルナール達はあるいは血の気を失い、あるいは怒りに血を顔に集めている。ユーグの回答は半分は虚勢も含めた威嚇だが、半分以上は本音でもあった。


「三〇万を一度に、まともに相手をするのは確かに厳しい。だが枢機卿派だって一枚岩じゃない。あの男がいない今、三〇万いようと烏合の衆だ。タンクレードが引っかき回せばすぐに四分五裂する。その上で各個撃破していけば勝つのは決して難しくない」


 三倍の敵を前にして一歩も譲らない、ユーグは自分の軍才に、タンクレードの謀略の手腕にそれだけの信任を置いていたのだ。


「戻って戦いの準備をしておけ」


 ユーグは席を蹴って立ち上がり、ベルナールに背を向ける。ベルナールが何かわめいているが心も意識も動かされはしなかった。ユーグはベルナール達を許すつもりは欠片もない。枢機卿派と戦ってこれに勝ち、主要な幹部を処刑して枢機卿派を解体する。ユーグの頭にはそれだけの戦略が既に立てられていた。


「――お待ちいただけますか、殿下」


 その声にユーグの頭は真っ白になった。ベルナールとの戦いなど即座にゴミ箱に放り込み、足の腱が切れそうな勢いで振り返る。手は腰の剣にかかっていた。


「……まさか」


 信じられないことが起こっていた。自分の目を疑うことが目の前にあった。これが白昼夢なら飛びっきりの悪夢である。


「ご機嫌麗しく……とはいきませんな、王弟殿下」


「ああ、お互いにな――枢機卿猊下」


 アンリ・ボケが二本の足をもって、今、ここに堂々と立っている。その巨体をそびえ立たせている。どう否定しようともそれが間違いのない事実であった。

 アンリ・ボケは黒い法衣に身を包み、愛用の鋼鉄の聖杖を手にしている。仮面のような柔和な笑みはいつもと全く変わりなく、大きな負傷もしていないように思われた。ベルナール達は完全に腰を抜かし、床に座り込んで「あわ、あわ」と痴呆のようくり返すばかりだ。


「まさか、生きていたとは」


 ディウティスクの将軍の呟きは普通ならこの上ない無礼に当たるものだが、アンリ・ボケは特に気を悪くした様子を見せなかった。


「この生命は教皇聖下の理想に捧げられたもの、この身体は神の栄光の礎となるもの。それが実現しないうちにこの私が死ぬわけがない。神がそれを許すはずもない――それだけのことです」


 アンリ・ボケは恭しくユーグへと頭を下げた。


「殿下の兵を無為に損なう結果となったこと、このアンリ・ボケ、痛切の極みです。殿下のお怒りも全くもっとも。ですが、聖槌軍を二つに割って戦うことだけは避けていただけませんか?」


「ならばその者達をどうすると?」


 ユーグはベルナール達を顎で指し示した。アンリ・ボケがその先へと顔を向け、糸のように細い目がベルナール達に固定される。柔和な微笑み、に見える表情は仮面のように変化がないままだ。だがその内側ではマグマよりも熱い憤怒が渦を巻いている。それはユーグにも感じ取れた。


「……あの日、命令通りに全軍が渡河を決行していれば我が軍は間違いなく勝っていた。我が軍はヌビアの皇帝の首級を挙げ、敵の食糧庫を占拠し、今頃には飢える兵に充分な食糧を行き渡らせていたことでしょう。ですがこの者達が保身のために戦いから逃げ出し、我が軍の勝利を捨て去った」


 アンリ・ボケの歯ぎしりがまるで雷鳴のようにユーグ達の心臓を締め上げた。ベルナールは恐怖のあまり小便を漏らしているが、ユーグはそれを笑う気にはなれなかった。


「敵に与した背教者の末路は一つだけです。この者達の処分はどうか私にお任せを」


 ユーグは少しだけ考える素振りをし、「いいだろう」と頷いた。拒絶する余地など最初からありはしなかったのだが。

 その後、枢機卿派の拠点に戻ったアンリ・ボケは枯れ葉を握りつぶす容易さで枢機卿派を再掌握。長雨の戦いで敵前逃亡した主要幹部十数名の身柄を拘束した。それら幹部の焚刑が執行されたのは翌日のことである。

 ユーグはその処刑に立ち会った。場所はスキラの中央広場。大勢の兵が見物する中、枢機卿派の幹部が杭に縛り付けられ、その足下には薪が山と積まれている。無様に命乞いをする者、泣きわめく者、完全に諦めてただうつむいている者、ひたすらに聖句をそらんじる者、その振る舞いは様々だ。

 やがて、その足下の薪に火が灯された。炎が燃え上がり、泣きわめく声と悲鳴が耳に障る。見物の兵士達の歓声も聞こえるが、それはまばらだった。そしてアンリ・ボケはその光景に何やら満足げに頷いている。一方のユーグは沈鬱な表情のままだった。

 自軍の将兵二〇万を死なせた者達が当然の報いを受けたのだ。少しは気が晴れるかと思っていたが、ユーグの心は吹雪の冬の夜よりもなお暗かった。雪雲よりも重苦しいものが頭上にのしかかっている、ユーグはそれを実感していた。一旦それが消えてなくなったものとばかり思っていたから、なおさらその息苦しさを意識するのだろう。


「神の兵士達よ、聞くがいい!」


 アンリ・ボケの声に兵士達は刹那に姿勢を正す。全ての兵士がそのまま微動だにせず、心臓まで止めるほどの神妙さでアンリ・ボケの説教に耳を傾けた。近衛の精鋭に匹敵するほどのその規律の高さに、ユーグがあっけに取られたくらいである。


「いや、規律が高いわけじゃない。それだけあの男が怖ろしいんだ」


 ユーグにも兵士達の気持ちはよく判る。その恐怖をユーグもまた共有しているのだから。


「異教徒に与した背教者どもは神罰を受けた! これで我々の勝利を妨げるものは何もない!」


 アンリ・ボケは地響きするほどの大声で、一同に告げる。


「先日の戦いでは異教徒どもも大打撃を受けている! 町は焼け、物見台は倒れ、石の壁は崩れ、通りには敵兵の死体が溢れていた! 南岸の要塞などもはや腐った戸板だ、一蹴りで破れよう!」


 アンリ・ボケは愛用の聖杖を垂直に掲げ、高らかに宣言した。


「準備が整い次第、我が軍は今度こそあの川を渡る! その日こそ我等が勝利の日だ!」


 ――思いがけない沈黙がその場を満たした。しわぶき一つしない、小鳥のさえずりが聞こえるほどの静寂。アンリ・ボケの宣戦に兵士達は無言をもって答えたのだ。

 五を数えるほどの間沈黙が続き、アンリ・ボケの表情が変わった。目に見えて苛立ちを深めている。


「か、神の栄光を!」


 誰かが慌ててそう叫び、全ての兵士がそれに続いた。


「神の栄光を!」「神の栄光を!」


 まるで許しを請うように、言い訳をするように、あるいは自棄になったかのように、全ての兵士がその聖句を連呼している。苛立ちや不満は残っているようだがアンリ・ボケはそれを呑み込み、それ以上は表に出さなかった。

 焚刑はまだ続いていたがユーグは立ち会いを適当なところで切り上げた。護衛を伴いユーグはスキラの町を歩いていく。その脳裏には様々な思いが過ぎっているが、元をたどれば考えるべきことは一つだけだった。


「あの男を何とかしないと。このままでは残った四〇万も無謀な渡河作戦に動員されて溺れ死ぬ」


 ユーグはアンリ・ボケ排除の戦略や謀略に知恵を絞った。が、何も方法が思いつかない。 二〇万を動員した渡河作戦の先頭に立ち、たった一人で生還した――こんな人間をどうすれば殺せるというのか。本当に人間なのかどうかを疑うくらいだ。


「枢機卿アンリ・ボケ――まさかこれほどの化け物だったとは」


 ユーグは慨嘆するしかない。アンリ・ボケのことを誰よりもよく知り、誰よりも(ある意味で)高く評価していたつもりだったが、その実ろくに判っていなかったのだ。

 アンリ・ボケだけが戻ってくることができた理由を合理的に説明できないこともない。人並み外れた壮健な肉体を有していたこと。全軍が飢える中でも枢機卿の地位に相応しい食生活を続けていて気力体力を充実させていたこと。不条理までの悪運に恵まれたこと、等だ。


「本当に神の加護があったのかもしれないな――神は神でも死神の方だろうが」


 ユーグは皮肉に口を歪めた。ただ問題は、聖槌軍の中でもユーグと同じ感想を持つ人間はごく限られている、ということだ。枢機卿派に限らず、王弟派に属していようとほとんどの兵士は、


「神様が枢機卿様を守っておられる」


 と素朴に信じてしまっている。神の加護でも持ち出さなければ到底説明がつかないことが起こってしまったのだから、そう信じるのも無理はないだろう。エルルの月の戦い、そして今回と全軍の将兵を死なせる一方でありながらアンリ・ボケの権威は損なわれてはしない。むしろ高まっているくらいだった。


「私が命じたところで兵士達はあの男に剣を向けはしないだろう。最初から戦いにならない」


 ユーグは三倍の戦力差をそれほど怖れてはいなかった。アンリ・ボケも含まれるが、枢機卿派には将才のある者がろくにいない。多少なりとも目端の利いた人間は今日まとめて処刑され、残っているのは木っ端みたいな連中ばかりだ。三倍の兵がいようと互角に戦えるだけの目算があった。

 怖ろしいのは枢機卿アンリ・ボケただ一人――あの男一人の存在が何十万という兵数に匹敵する。


「ただ、枢機卿派にも厭戦気分が広がっているのは唯一の好材料かもしれない。それを理由にして渡河作戦を思い止まらせることはできないだろうか」


 先ほどのアンリ・ボケの説教に対する兵達のあの反応、あの無言は、どんな言葉よりも雄弁に彼等の思いを語っていた。あの沈黙こそ兵達の悲鳴であり、抗議の声なのだ。

 百万でエレブを出立してからスキラに到着するまで三分の一が脱落し、二十数万の兵がナハル川に沈み、挙げ句に全軍が飢餓に瀕している。それでもなお渡河作戦をくり返そうというのだ。どれだけ信心深かろうと嫌気が差さない方がどうかしている。


「揺るぎなき信仰心があればいかなる苦難も乗り越えられる」


 今回の戦いはその信念が正しいことの確たる証拠となった――あの男にとっては。そしてその信念を一般の兵士に押し付けて、自殺行為に等しい戦いを強いることだろう。次の渡河作戦ではあるいは今回以上に兵が死ぬかもしれない。兵達もそれを感じ取っているのだ。


「あの男に剣を向けないまでも、あの男の命令から逃げ出すくらいはあり得るだろう。そこを攻め口にできるんじゃないか?」


 ああでもない、こうでもないと、思案を続けているうちにユーグは王弟派の拠点、海辺の要塞へと到着した。戻ってきたユーグをアニードを伴ったタンクレードが出迎える。


「人払いをお願いします」


 いつもは言わないことまで言うタンクレードにユーグは目を見開いた。アニードは見るからに高揚しているし、タンクレードの目が異様な輝きを湛えている。興奮を無理に抑え込んでいるかのようだった。

 ユーグは寝室に使っている部屋にタンクレードとアニードの二人を迎え入れた。近衛を動員し、ユーグの自室の階全てから人を遠ざける。


「――さて、説明してもらおうか。何があった?」


「はい、これをご覧ください」


 タンクレードは懐から書状を取り出し、ユーグへと差し出した。受け取ったユーグが書状を開き、目を通していく。


「これは……!」


 読み進めるほどにユーグの頬が熱を持った。血が沸き立つのを実感している。それが心地良いと感じている。


「使えるぞ、これであの男に対抗できる、あの男を排除できる……!」


 歓喜を抑えきれないユーグの言葉にタンクレードとアニードが頷く。薄暗いその部屋の中で、三人は同じ高揚を共有した。






 ヌビア側は体制の立て直しに必死の状態が続いていた。竜也を始めとする総司令部の面々はサフィナ=クロイ中を走り回り、様々な問題の処理に当たっている。軍は臨戦態勢で警戒中だが、その監視体制はずさんで穴だらけもいいところだった。


「死体の処理に人手が足りません。軍の方から回してもらうわけには」


「こっちが人手をほしいくらいだ! 物見台だけでも優先的に再建を」


「食糧の配給はどうなっている! あの戦いから全く届いてないんだぞ!」


「皇帝の許可もなしに食糧庫は開けん! 順番と手続きを守れ!」


「そんなことを言っている場合か!」


 竜也も総司令部の面々も倒れる寸前になるまで働き、タシュリツの月の六日頃にはサフィナ=クロイも多少の落ち着きを見せるようになる。が、最大の問題は依然として横たわったままだった。


「この町の市民から兵を徴募し、何とか二万は集めました。ですが、何の訓練も受けていない素人の寄せ集めです。戦力としては数えない方がいいでしょう」


 野戦本部で竜也はアミール・ダールから報告を受けている。いっそ冷酷なその内容に、竜也はため息しか出てこなかった。


「つまり、戦力は半減したままか」


 竜也の言葉にアミール・ダールが頷く。


「今敵の襲来があったら――」


「死力を尽くします。ですが、勝てるとは思わないでください」


 竜也はため息をくり返した。この六日間で一生分のため息はついただろうと思われた。もっとも、その一生もこの調子では予定よりずっと短くなりそうだが。


「我が軍の損害は甚大ですが、それは敵も同じこと。ここは謀略で敵の動きを封じて時間を稼ぐべきではないでしょうか」


「それしかないのは判っている」


 アミール・ダールの進言に竜也も同意した。


「それはこちらで考える。将軍は引き続き態勢の立て直しを急いでくれ」


 野戦本部から仮設総司令部に戻ってきた竜也はベラ=ラフマを呼び出した。聖槌軍に仕掛ける謀略の相談をするつもりだったのだが、


「皇帝、港にケムトの使者が入港しております」


「ケムトの?」


 先制された報告に竜也は思わず問い返す。


「はい。ケムト艦隊三〇隻はすでにガベス港に入港しており、そこから使者が派遣されてきたのです」


 なお、ガベスはサフィナ=クロイの南に位置する小さな港町で、船を使えば一日も必要としない距離にあった。「いつの間にこんな近くまで」と言いたげな顔の竜也に対し、ベラ=ラフマが、


「提督ガイル=ラベクからの報告は届いているものと思いますが」


「……あー、そうだった」


 竜也がその報告を思い出すのに多少の時間が必要だった。


「ケムト艦隊からサフィナ=クロイへの入港許可を求められて提督がそれを却下して、交渉があってガベスに入港してもらうことになったんだったな」


「はい。また、もしもの場合に備えて提督ガイル=ラベクが海軍の軍船をサフィナ=クロイに集結させています」


 よし、と竜也は頷く。もしケムト艦隊が枢機卿派・王弟派に続く第三の敵となったとしても早期に対処し、潰すことができるだろう……味方になってくれるならそれに越したことはないのだが。


「そのケムト艦隊の使者が面会を求めているわけか」


「はい。会談に当たっての条件がこれです」


 竜也はベラ=ラフマの差し出した書類に目を通す。そこには「両国の代表は三人まで」「護衛は一〇人まで」「両国の兵は二スタディアの距離を置く」等の条件が記されていた。


「……判った、この条件を呑もう」


 竜也はその書類をベラ=ラフマに返した。


「どうやら味方になりに来てくれたわけじゃなさそうだな」


 そんな思いを抱きながら。

 ……竜也達とケムト艦隊の会談が開催されたのはその日の夕方である。場所はサフィナ=クロイの港の一角。六日前にはエレブ兵の捕虜の振り分けが行われた場所だ。広大なその草原の中央に陣幕が張られ、テーブルと六脚の椅子が用意された。

 竜也は先にそこに入ってケムト側の代表を待っている。竜也に同行しているのはファイルーズとイムホテプだ。ベラ=ラフマは牙犬族の部族衣装に身を包み、素知らぬ顔でその場に加わっていた。

 さほど待たずしてケムト艦隊の代表が到着する。まず一人は艦隊提督のセンムト。まだ三〇代だがその地位に相応しい貫禄を身につけた男だった。もう一人はセンムトの副官。そして最後の一人は、


「お前は……」


 竜也は数瞬唖然としてしまった。その男――ギーラは竜也の反応を無視して中央の椅子に、竜也の向かいに座る。


「何故お前がここに」


「私は宰相プタハヘテプから信任を受けた特使ギーラだ。宰相から聖槌軍に対処するよう命じられている」


 ギーラは太々しい顔でそう答えた。


「そう言うお前は何者だ?」


「俺はヌビアの皇帝クロイだ」


 竜也の返答をギーラは鼻で笑った。


「ふん、何が皇帝だ。要するにバール人どもに雇われた傭兵隊長だろう?」


 さすがに竜也もやや不快となったが、今は不審の思いが勝っていた。この男が何をしに、何のためにこの場にいるのか、竜也には読めなかったのだ。


「――それで? ケムトの特使様が一介の傭兵隊長に何のようだ? こっちも暇じゃないんだが」


「貴様ごときの指揮で聖槌軍に勝てるはずがない――宰相は全てをお見通しだ。だからこそ宰相は私をここに派遣した」


 竜也の売った喧嘩をギーラは真っ向から買って見せた。竜也とギーラの視線が空中で剣のごとく斬り結び、火花が散る。


「お前だったら聖槌軍に勝てるとでも?」


「ここまで不利な立場に追い詰められて、勝ちも何もないだろうが! 私は聖槌軍総司令官ヴェルマンドワ伯ユーグと交渉し、すでに一時的な休戦協定を結んでいる。ほんの七日間の協定だが」


 まさか、と竜也は我知らずのうちに呟いた。だがギーラは涼しい顔のままで、そこには嘘の気配が存在していない。


「私の役目は七日の間にこれを永続的な和平協定とすること、貴様の役目はそれに奉仕することだ」


「和平の条件は何だ? まさか……」


「まず一つはナハル川より西の西ネゲヴ全体を聖槌軍の勢力圏として認めること」


 ギーラの言葉に竜也は「やっぱり」という思いを禁じ得ない。血よりも苦々しい思いが、ギーラへの百の悪態が竜也の口内を満たした。竜也はそれを吐き出すことをかろうじて堪える。そんな竜也に構わずギーラが続けた。


「そしてもう一つは、私の所有する『モーゼの杖』をヴェルマンドワ伯に譲渡することだ」


 思わず呆然とする竜也に対し、ギーラは勝利を確信した顔を誇示していた。





 「逆襲篇」に続く!!





 ……ということで、本作も全六章のうち第四章まで進みました。残りの二章も現在鋭意執筆中。何とか二ヶ月くらいで更新再開できたらいいなぁと思っておりますが、どうなることやら。

 ですが必ず完結させますので、どうか気長にお待ちください。


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― 新着の感想 ―
[一言] 今のところ主人公は全然役に立ってないから、今後は頑張ってほしいところ。
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