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黄金の帝国  作者: 亜蒼行
死闘篇
44/65

第三七話「トズルの戦い」



 暦は少しだけ遡り、エルルの月の中旬。ナハル川の防衛線で聖槌軍の総攻撃によりザウグ島が陥落した頃のこと。それより一日だけ遅れ、トズルもまた聖槌軍の攻撃に曝されようとしていた。


「――来たか」


 マグドはトズル砦から山の裾野を見下ろす。蟻の群れのように大地を埋め尽くし、蠢いているのは数万の聖槌軍である。エレブ兵は最初の関門を打ち破るべく突撃し、奴隷軍団は矢や火縄銃で懸命に防戦している。

 櫓の上から矢を放ち、銃撃をくり返すヌビア兵。加熱され、火を点けられた原油を柄杓を使ってぶっかけ、エレブ兵を怯ませる。エレブ兵は前回の戦いの時と比較すれば士気が低いように思われた。大して防御力が高いわけでもない第一の関門に手こずっている。

 だが聖槌軍は士気の低さを圧倒的な数で補った。予定よりは時間を稼げたものの、ヌビア側は関門を維持できなくなってしまう。


「第一の関門から兵を撤収させろ。第二の関門で迎撃する」


 マグドの命令に従い第一の関門から兵が退去。エレブ兵が門扉を打ち破っている間に第二の関門まで撤収し、態勢を立て直した。聖槌軍は第一の関門を突破すると、休む間もなく第二の関門攻略に取りかかる。

 石材と木材で築かれた山城にも等しい関門が五つ。馬防柵や土嚢、茨の木を積んだだけの簡易的な関門が一〇。聖槌軍はそれを一つ一つ正面から攻略する他なく、損傷と消耗を強いられた。日が暮れても関門は半分程度しか突破できず、聖槌軍は一旦山の裾野に下がって夜営せざるを得なかった。

 一方トズル砦。砦内の一角には捕虜のエレブ兵が集められている。捕虜は戦闘中に獲得した者・撤収中の聖槌軍を襲撃して拉致してきた者等であり、その中でも地位の高そうな者が選ばれ、マグド達の前に引きずり出されていた。

 縄で縛られ、地べたに座らされているのはかなり地位の高い、指揮官の幕僚と見られる人物だ。その騎士は縛られ、鎧や顔は血や泥で汚れながらも、怯む様子を見せることなく毅然とマグド達と向かい合っていた。


「……今回トズル攻略に動員されている兵はどのくらいだ? 俺の見たところ四万はいそうだが」


 マグドの問いに、その騎士は嘲笑に口を歪めるだけでその口を開くことはない。マグドは自分の背後をわずかに振り返った。そこに立っているのは、夜でありながら顔の半分を隠すくらいにフードを深々と被った、怪しい男である。そして、そのフードの頭頂部に空いた二つの穴からはウサギの耳が突き出ていた。


「将軍、質問は『はい』か『いいえ』で答えられるものでないと」


 ハキーカというその白兎族の言葉にマグドは「思ったより不便なものなのだな」と感じながら、尋問の仕方を変える。


「兵の数は四万を越えるか?」


 その騎士は嘲笑を浮かべたままだったが、その中にわずかに怪訝な思いが覗いていた。ハキーカがマグドに何か囁き、マグドが再度問う。


「もしかしてお前も正確には知らないだけなのか。多分四万は越えているだろう? まさか五万には届くまい」


 マグドがハキーカに視線を送るとその男が頷く。騎士の表情は嘲笑よりも怪訝な思いが強くなった。


「次の質問だ」


 マグドは地面に木の枝で簡単な絵を描いた。


「これが聖槌軍の陣地だ。おそらくここが本陣で、兵は千くらいに分散してこんな感じで夜営をしている」


 マグドがその騎士の瞳を覗き込む。騎士の表情からは嘲笑が消えていた。理解しがたいものを見るかのようにマグドに視線を返している。


「食糧はどの辺で保管している? 俺だったらこの辺に補給部隊を配置するが……」


 マグドの持つ木の枝が陣地の絵の上でゆらゆら動き、ある一点で止まった。その騎士はかすかに冷や汗を流しながらも無表情を決め込む。だがそれは無駄な努力である。


「そうか、この辺か。それじゃ食糧は何日分だ? 少なくとも一〇日分はほしいところだが、そんなにはないだろう」


 マグドは根気よく質問をくり返し、時間はかかったがその騎士が有する情報を全て引き出すことに成功した。尋問が終わった頃にはその騎士は恐怖のあまり半分くらい錯乱状態に陥っていた。知る限り全ての聖杖教の聖句を唱え続けるその騎士を、兵が牢屋へと引きずっていく。哀れな騎士の姿を見送りながら、マグドがハキーカに向き直った。


「お前さんのおかげで色々と手間が省けた。礼を言おう」


「それには及びません。私は皇帝クロイの命令を果たしただけです」


 そう言いながらもハキーカはどこか誇らしげである。竜也は捕虜尋問のために白兎族をトズル砦にも派遣するようベラ=ラフマに指示。ベラ=ラフマが選んだのは、恩寵の強さでは一族の中でも上位に位置するその男だった。


「カントールに伝令だ。聖槌軍の陣地への夜襲を要請する」


 マグドは伝令を呼び、得られた全ての情報を持たせて出発させる。伝令は連絡船を使って聖槌軍を迂回し第三騎兵隊と接触した。そして明け方。夜明けと同時にマグド率いる奴隷軍団とカントールの指揮する第三騎兵隊が同時に聖槌軍の陣地を襲撃。マグド達が敵の注意を集めている間にカントール等騎兵が陣地内深くに侵入。敵の荷駄を破壊・放火し、風のように速やかに撤収した。

 そして翌日、聖槌軍の攻撃が再開される。


「今日中にここを落とす!」


 聖槌軍は保有兵力を総動員して関門攻略を進めていく。元々乏しかった食糧が夜襲により七割方失われてしまい、聖槌軍は追い詰められていた。撤収か、それとも今日明日中にトズルを攻略するか。彼等にはその二択しか残されていない。


「あの砦には食糧が唸るほど貯蔵されている! 砦を攻略できたなら思う存分食わせてやる!」


 聖槌軍指揮官のボエモンはこの状況自体を背水の陣とし、兵に力の全てを絞り出させようとする。兵もそれに応え、死力を尽くして戦っていた。だが関門の攻略は順調には進まない。


「敵はまるで時間を稼ごうとしているかのようだ」


 とボエモンは苛立った。そしてそれは正解である。


「無理に敵を殺さなくていい! 身を守ることを優先させろ、とにかく夜まで時間を稼げ!」


 マグドは部下のそのように命令していた。奴隷軍団の兵はそれに従い、亀のように関門に首を引っ込める。そして散発的に激しい攻撃を行い、敵の気勢をかわして時間を稼ぐことに徹し続けた。

 それでも関門は一つ、また一つと落とされていく。日が完全に沈んだ頃には、砦本体の他に残っているのは最後の関門一つだけとなった。聖槌軍はこのまま最後の関門攻略に取りかかろうとする。だが、


「門が……」


「もしかして……」


 最後の関門は門扉が開け放たれたままになっていた。前回のトズル攻略に参加した兵はこの場には一人もいないが、それでも前回どのようにして負けたかを知らない者は皆無である。水流の幻影を脳裏に描き、兵は足をすくませた。


「貴様等何をしている! あれが最後の関門なんだぞ!」


 ボエモンが兵を叱責し、ようやく兵が足を前に運び出す。が、それ以上前進は続かなかった。


「水が――!」


「水だ! 水が来た!」


 山道の上から水が流れ落ちてきたのだ。水流の量はごくわずかで、兵の足下をわずかに濡らし、山道を泥の道にしてそれで終わりである。だがエレブ兵にはそれで終わりだとは到底考えられない。


「堰だ! 奴等が堰を切ろうとしている!」


「完全に切れる前に逃げるんだ!」


「早く! 早く逃げないと!」


 最前列で発生した流言と恐慌は音速で全軍に伝播する。四万の軍団が流言で崩壊し、算を乱して逃げ出した。四万の兵が坂道を転がるように逃げていき、そのうち千を越える兵が転倒して味方に踏み潰され、原形を留めない無残な死体となった。怪我を負った者はその数倍に達する。


「逃げるな! 水など来ていない! 戦え!」


 最前列から逆に最後尾となった山道の上ではボエモンが懸命に兵を押し留めようとしているが、聞く耳を持つ者は少ない。ヌビア兵の追撃部隊が現れ、攻撃を加え出すと、その場に留まろうとしていた兵も結局逃げ出してしまった。


「……魔物どもめ!」


 ボエモンは最期にそんな言葉を残し、奴隷軍団の追撃部隊の波に呑まれ、果てていった。指揮する者がいなくなり、兵は逃げ出す一方である。山道を転がり落ちるように裾野まで逃げてきた聖槌軍に、カントールの第三騎兵隊が横撃を加える。聖槌軍は軍団としての統制も、武器も使命も誇りも何もかもを放り捨て、スキラへと逃げ出していった。

 一方トズル砦では再びの戦勝に大いに沸き上がっている。しかも今回は切り札を使わなかったのだ。


「思ったよりも上手くいったな」


「ええ。見事に騙されてくれました」


 マグド達は切り札の堰とは別に小さな貯め池を作っており、今回決壊させたのはその貯め池の方だったのだ。貯水量は小学校のプール程だが、敵を勘違いさせるくらいのことは可能だった。


「……さて。ここまでは勝つことができたが、次はどうなるかな」


 マグドは浮かれ騒ぐ奴隷軍団の将兵を見つめながら、冷徹に次の戦いに思いを巡らせていた。






 一方、スキラ。ユーグはザウガ島攻略に失敗し、枢機卿派のボエモンもトズルで敗死したことが速やかに知らされる。聖槌軍本陣でのユーグとアンリ・ボケの会談は重苦しい雰囲気の中で始まった。

 ユーグは眠っているかのように目を瞑り、口を閉ざしている。一方のアンリ・ボケも目を瞑っているかのように目が細くなっているが、これは元からである。アンリ・ボケもまた沈黙したままだ。王弟派の将軍の中にはタンクレードも加わっているが、タンクレード自身は口を挟まず、両派の将軍が諍い合うのを見つめていた。


「あのような小さな島一つ落とせないとは、『戦争の天才』の名も地に落ちたものですな」


「あんな小さな砦一つ落とせんとは、お前達は手加減でもしていたのか?」


「貴殿等が我々の代わりにそれができるというのであればやってみていただきたいものですな」


「その言葉、そっくりそのまま返すぞ」


 言い合いが望む方向に誘導されたのを見計らってユーグが口を開いた。


「双方口を慎め。お前達もだ」


 枢機卿派の将軍や聖職者は悔しげに口をつぐみ、ユーグの部下の将軍達は神妙な顔を作って見せた。ユーグはアンリ・ボケへと向き直り、


「……だが、この者達の言うことにも一理ある。次は僕がトズルに、猊下がナハル川に当たるのはどうだろうか」


 それがいい、とばかりに王弟派の者が頷き、枢機卿派にも異存はないようだった。だがアンリ・ボケだけは同意しようとしていない。


「……トズルへはどの程度の兵数をもって当たるおつもりですか?」


「そうだな、五万もあればいけるだろう。それ以上動員してもあの地形では遊兵になるだけだ」


「ならば、スキラに残す殿下の兵の指揮権をお預かりしたい」


 王弟派の将軍達が息を呑んだ。全員の口から「冗談ではない!」という叫びが出かかっている。ユーグもまた同様のようであり、二呼吸、三呼吸置いて何とかそれを告げた。


「判りました。指揮権を預けましょう」


 タンクレードは一瞬耳を疑い、ユーグの顔を凝視した。


「おお、そうですか!」


 とアンリ・ボケが大げさに喜ぶ一方、王弟派の将軍達は色めき立っている。そこにユーグが「ただし」と付け加えた。


「その場合は枢機卿猊下ご自身が我が将兵の先頭に立ってヌビア軍と戦っていただきたい。それがかなうなら我が将兵は必ずや敵軍を打ち破り、ヌビアの皇帝の首を獲ってみせることでしょう」


 今度は枢機卿派の者達が「何と無礼な!」と血相を変えている。一方の王弟派は「それが当然だ」とばかりに頷いていた。タンクレードは内心で皮肉げな笑みを浮かべている。


「殿下の兵を無謀な渡河作戦に使いたいのなら、アンリ・ボケ、お前が自ら身体を張ってみせることだ。確固とした信仰心さえあれば川を渡れるのだろう? 口先だけでそれができないのなら、自分の兵だけを馬鹿の一つ覚えで消耗させるがいい」


 アンリ・ボケはかなり長い時間沈黙を保っていたが、ようやく口を開く。


「……判りました。殿下のお言葉、心に刻んでおきましょう」


 いつもの仮面のような微笑みで返答し、それがこの会談の終わりを告げる言葉となった。

 ……王弟派の宿舎に戻ったユーグは自室にタンクレードを呼び出す。


「アンリ・ボケの言質は取った。あとは奴が余計なことをしないうちにトズルを抜いてこの戦争に勝つだけだ。あれはどうなっている?」


「荷はすでに入港しております」


 タンクレードの返答にユーグは「そうか」と満足げに頷いた。


「あのバール人はよくやってくれた。準備が整い次第すぐに出発する」


 降りしきる雨の中、ユーグの軍勢がトズルへと向けて進発したのは三日後のことである。スキラに残ったタンクレードが城門の上からその軍勢を見送っていた。






 エルルの月が下旬に入る頃、雨が降り出した。雨はほとんどやむことなく延々と降り続け、もう八日目。堰の内側には水が限界まで貯まっており、今にも決壊しそうである。堰から溢れ出した水の他、山道にはあちこちから水が流れ込んできて既に川のようになっていた。


「関門の再建が全く進んでおりません。このまま敵を迎えるようなことがあれば……」


 副官のシャガァが申し訳なさそうに報告する。


「この雨では仕方あるまい。敵も雨がやむまでは動けんだろう」


 マグドは一部の偵察兵を除き、奴隷軍団の全ての兵をトズル砦へと撤収させていた。第三騎兵隊が敵軍の接近を伝令で知らせてきたのがその日である。


「雨のせいで思うように動けんし、連絡船も使えんが、敵が来ている以上そんなことも言っていられん。敵はおそらく五万程度、雨にも構わずトズルを目指して進んでいる。雨と、おそらく食糧不足のせいでかなりの兵が脱落している」


「いつものようには互いに連絡が取れんだろうから、騎兵隊は独自の判断で行動してくれ」


 マグドはそう言って伝令を送り返した。


「……厳しい戦いになるかもしれんな」


 そんな予感を覚えたマグドはいつになく険しい顔で、砦の上から山の裾野を、まだ見ぬ敵を見つめていた。

 そしてエルルの月の二九日。その日の夕方に聖槌軍がトズルに到着し、そのまま攻略を開始した。


「正気か、奴等……! こんな暗闇の中で」


 雨が一際強く降り出し、山道は川と全く変わらない。幾万の兵に踏みにじられた山道は泥濘となり、エレブ兵の足を拘束した。それでもエレブ兵は亡者のような姿となって関門へと突撃する。関門の多くは再建途上であり、雨のために原油を使った火攻めもできず、暗闇のために弓を使っても効果が薄い。関門は長くは維持できず、次々と落とされていった。


「頭、そろそろあれを使うべきでは……」


 シャガァがそう進言し、周囲の部隊長達も期待に満ちた視線をマグドへと向ける。マグドは冷たい雨に打たれながらじっと山道を見下ろしていたが、


「……敵の数が少ないように思えるんだが、気のせいか?」


 マグドの問いに、シャガァ達は戸惑ったような表情をした。


「この雨と夜闇の中では、敵兵の数など図りようが……」


「進軍途中で脱落したのでは?」


 部下達が返した常識的な答えに、マグドはさらに問いを続けた。


「他には何か考えられないのか?」


 少し時間を置いてシャガァが、


「……敵が兵の一部を後方に隠している?」


 その回答に部隊長達が顔を見合わせた。


「何のためにそんなことを」


「それは、時間差を付けて攻撃をするために」


「そうか、堰を決壊させても兵を温存していれば攻撃をすぐに再開できる!」


「そしてこちらは切り札は残っていない」


「……だが、いくら何でもそこまでやるか? 自軍の大半を囮にするということだぞ」


 部隊長の多くは「敵が戦力を分けている」という疑いに否定的だった。だが、


「……あるいは考えすぎかもしれんが、警戒するに越したことはない。あの連中なら勝つためにどんな無茶をやろうと不思議はないからな」


 マグドの言葉に一同が黙り込んだ。一同を代表してシャガァが問う。


「……それで、頭。どうなさるおつもりで」


 マグドは全員を見回し、決然と命じた。


「堰を切って敵の主力を壊滅させる。徹底的に追撃を加えて敵兵を少しでも減らすが、追撃は山道の間だけだ。平野部に下りてしまったら伏兵から横撃を受けるかもしれん。追撃が終わったら速やかに砦まで帰投しろ、すぐに再攻撃に備えるんだ」


 そしてマグドの命令に従い堰が切られ、貯まりに貯まった水が奔流となって山道へと流れ込む。聖槌軍は暗闇の中数万トンの水に呑まれ、流された。水は汚物を洗い流すかのように聖槌軍を押し流していく。十数分後、水が流れ去った後に残っているのは、無数のエレブ兵の死体と辛うじて生き残った敗残のエレブ兵だけである。


「追撃! 聖槌軍を生かしておくな!」


 敵の追撃はシャガァに任せ、マグドは獲得した捕虜を砦へと集めて尋問を開始した。騎士階級の者は口が堅かったが、一般の兵は拍子抜けするくらいに簡単に知る限りのことをしゃべった。


「ヴェルマンドワ伯が……! 今回のトズル攻略の指揮はヴェルマンドワ伯が執っているというのか?」


「へ、へい。その通りでございます」


 マグドの問いに、その農民兵は卑屈な笑みを浮かべる。マグドは背後のハキーカに視線を送り、ハキーカは無言で頷いた。マグドは今回のトズル攻略軍の内情を詳しく訊ね、確認する。

 「エルルの月の戦い」で指揮を執ったアンリ・ボケは渡河に失敗し、兵の数を大幅に減らしただけで終わった。その一方、交代で指揮を執ったヴェルマンドワ伯はザウグ島の確保に成功している。アンリ・ボケはヴェルマンドワ伯がこれ以上の戦功を挙げるのを怖れ、トズルを攻略するよう仕向けたのだ――そんな見方を多くの兵が共有していた。

 その後、マグドはそれ等の情報を元に騎士階級の百人隊長を尋問する。


「……確かにそんな噂は流れていた。枢機卿がトズル攻略を王弟殿下に命じたが、殿下が本当にトズルを落としてしまったら枢機卿の面子が潰れる。だから嫌がらせで食糧の補給を絞ったのだ、と」


 マグドが聖槌軍の内情に詳しいことを見せつけると、その部隊長は割合簡単に口を開いた。


「元々スキラにも食糧は残り少ないが、この遠征軍はさらに少ない食糧しか持たされていない。一般の兵だけでなく我々のような指揮官も腹を減らしているような状態だ」


「食糧がなくなってしまえばスキラに撤退するしかない、その前に何としてもトズルを落とす必要があった。だからこそこんな無茶な作戦を実行したのか……自軍の半分を囮にするとは」


 マグドの言葉にその部隊長は悄然と肩を落とした。


「『この長雨のせいで堰は自然に決壊してしまっている。今が好機だ』――殿下はそう言っていて、我々はそれを信じて戦いに臨んだ。敵の切り札を使わせたのだ、確かにこれでトズルは落とせるかもしれないが……殿下は我々を一体何だと思っているのか。あの枢機卿ならともかく殿下までがこのような作戦を選ぶとは」


 信頼していたヴェルマンドワ伯に囮にされ、「尊い犠牲」扱いされたことにより、彼等の士気も抵抗心も挫けてしまったようである。兵がその捕虜を牢屋へと連れて行く。捕虜のエレブ兵も指揮官も、誰も抵抗の気配を見せなかった。

 マグドは残っている百人隊長を集めて命令を下す。


「今夜切り札を使って撃退したのは敵軍の半分、およそ二万だ。残り二万五千が明日にも攻めてくる。各自準備と警戒を怠るな」


 一方のユーグは山麓で兵の再編成をしているところである。


「残った食糧を全員に分け与えろ。明日にはトズルを落とすぞ」


 アンリ・ボケの嫌がらせで兵糧の補給が絞られている――というのは事実ではなく、実はユーグが流したデマだった。元々食糧が乏しいのは事実だが、ユーグは行軍の速度を最大限に上げるために最低限の兵量しか用意しなかったのだ。


「明日中にトズルを落として敵の兵糧を腹一杯に食うか、それともここで飢えて死ぬか! 好きな方を選べ!」


 百人隊長が兵に呼びかけつつ兵糧の配給を進めている。兵糧を絞るのには自軍の将兵を精神的な背水の陣に追い込み、全力で戦わせるという意味もあった。

 ユーグは近衛の護衛を引き連れて陣地内を見回っている。その隅の方で、兵の一団が整列もせずにただ集まっているだけの様子がユーグの目に入った。一様に疲れ切ったように地面に座り込み、項垂れた背が雨に打たれ続けている。


「あの者達は?」


「さきほどの攻撃に参加した者達です」


 そうか、とユーグは気まずい思いを何とか隠す。トズルを落とすために自軍の一部を囮に使い、犠牲を強いるのはやむを得ないと、ユーグは割り切っている。が、それでもユーグの作戦の「尊い犠牲」となった兵を目の当たりにすれば、動揺を抑えることはできなかった。


「あの者達にも再編成を命じますか? 無傷の者や疲れの少ない者を集めれば五千くらいにはなるかと思いますが」


 その補佐官の声が聞こえたわけでもないだろうが、敗残兵の多くがユーグへと視線を向ける。恨みや辛みがこもっているわけでもない、ただ死人のように虚ろな目を向けられ、ユーグは大いにたじろいだ。


「――いや、必要ない。彼等はここで休ませてやれ」


 了解しました、と補佐官が頷いた。ユーグは逃げるように敗残兵の前から去っていく。その背中を兵達の目が映し出していたが、彼等の心は何も感じてはいなかった。






 そしてエルルの月・三〇日。ユーグの手によるトズル攻略が開始される。

 奴隷軍団は総勢八千。動ける者は全員が戦いに参加している。一方のヴェルマンドワ伯の軍勢は二万五千。前夜戦った二万のうちの生き残りはふもとで待機である。

 聖槌軍側が決死の総攻撃を仕掛け、奴隷軍団は必死に防戦する。時折激しく降る雨が大地を泥沼のようにし、エレブ兵は全身を泥まみれにしていた。飛び交う矢が、銃弾が敵味方を撃ち抜いていく。あっと言う間に何百というエレブ兵の死体が地面を転がった。死んではいないが冷たい雨に体力を奪われ、空腹のために動けなくなる者も少なくない。一方の奴隷軍団は意気顕揚で、一日や二日はこのまま戦い続けられそうなくらいである。


「何とか守れそうだ」


 マグドが内心でそう安堵するが、それは轟音とともに粉々に砕かれた。


「まさか、大砲……!」


「こんな山の上まで運んできたのか……!」


 ヌビアの将兵が冷たい汗を流す一方、エレブの将兵は高揚した。


「見たか、これが僕の切り札だ!」


 アニード商会が東ヌビアで入手し、ガイル=ラベク達の海上封鎖を突破してスキラ港に届け、さらにスキラからこのトズルまで、そして兵に担がせ山道を登らせた、虎の子の大砲二門。これこそが堰の封殺に次ぐ、トズル攻略のための切り札だったのだ。ユーグは自軍の勝利を確信し、歓喜の笑みを輝かせている。

 大砲が轟火を放ち、砲弾が弧を描いて飛んで砦の門扉に突き刺さる。鉄板を貼った門扉は砕かれはしなかったものの大きく歪んだ。閂は半ばへし折れ、人一人が通れるくらいの隙間が開いている。マグドは焦燥を胴間声でごまかした。


「これ以上撃たせるな! あれを破壊しろ!」


 ヌビア兵の銃撃が、矢が大砲へと集中する。鉄の固まりの大砲にそれらが当たってもどういうことはないが、その周囲の兵はばたばたと倒れた。兵が盾を用意し、銃弾と矢を跳ね返す。その間に大砲に次弾が装填された。


「こちらからも砲撃だ!」


 砦の上部に設置された大砲が火を噴くが、砲弾は全く離れた場所の敵兵をミンチにしただけで終わってしまう。


「くそっ!」


 それを見ていた鉄牛族の戦士が砦から飛び降りた。手には大砲の丸い砲弾を抱えている。


「近付けるな! 殺せ!」


 エレブ兵が火縄銃を撃ち、矢を放つ。銃で撃たれ、矢が刺さってもその戦士は突撃を止めない。そのまま砲撃寸前の大砲の真正面まで走り込み、手にしていた砲弾を砲口へと突っ込む。火薬に引火したのはその刹那の後である。砲口を塞がれ、行き場をなくした圧力が砲身を引き裂く。周囲のエレブ兵砲手のほとんどが死ぬか怪我を負った。鉄牛族の戦士は上半身を砕かれた状態で絶命している。


「くそっ! だがもう一門残っている!」


 聖槌軍はもう一門の砲撃準備を進める。それを見た何人もの戦士が砦を飛び出して大砲へと突撃する。だがエレブ兵の槍衾に、矢と銃弾の雨に行く手を阻まれた。戦士が次々と斃れていく。

 その間にエレブ側は砲撃、発射された砲弾は再び門扉に叩き付けられ、突き破った。門扉は大きく歪み、二人くらいなら並んで通れるくらいになっている。ヌビア兵が慌てて丸太を積み上げて防護を固めようとした。一方エレブ側は再砲撃の準備を進めている。何人もの恩寵の戦士がそれを止めるべく突進するが、一人また一人と倒れ伏した。

 唯一生き残ったのは、敵兵の盾を拾い上げた金獅子族の戦士である。だが味方が全滅し、敵の攻撃が金獅子族一人に集中する。大砲を目前にし、その戦士もまた倒れた。


「ようやく死んだか、この魔物め!」


 全身に矢が刺さり、弾丸が突き抜けている。流れる血が泥と混じって黒色となった。だがその戦士の生命はまだ絶えていなかった。わずかに顔を上げ、砲撃寸前の大砲を見つめる。


「くらえ……!」


 残った生命の全てをその一撃に込める。放たれた外撃の恩寵が、不可視の衝撃波が砲身を上から打ち据え、砲口が地面に突っ込む。火薬に点火したのはそれと同時である。砲弾の代わりに大砲本体がわずかに宙に浮き、砲身は二つに裂けてもはや使い物にはならなくなった。


「くそっ、認められるかこんなこと!」


 不可解で理不尽な力に切り札を潰され、ユーグは内心で神を罵った。だがそれも一瞬だ。


「正門に兵を集中させろ! 正門を突破するんだ!」


 一方砦のマグドには、大砲を潰した安堵や勇敢な戦士を喪った感傷に浸る余裕などない。エレブ兵が門扉の隙間から砦内に侵入する。さらには隙間を拡大させ、門扉を開け放とうとしていた。


「入り込んだ奴等を生かしておくな! 門の前の敵兵を排除しろ!」


 マグド自身が槍を手にし、侵入しようとする敵を刺殺する。入り込んだ敵兵の数はまだ少なく、次々と血祭りに上げられていく。だがこの先どうなるか判らない。

 エレブ兵が剣でマグドへと斬りかかるが、マグドは鋼鉄の義手でそれを打ち払った。さらには飛び出し式のドリルで敵兵の喉をえぐる。マグドの活躍にヌビア兵の士気が高揚し、マグドは義手を下賜されてから初めて竜也に感謝した。

 砦上部に設置された大砲が着弾点を門前へと集中させる。エレブ兵は効率よく次々と身体を砕かれていった。敵兵が怯んでいる間に門扉の内側に馬防柵を集め、さらには火縄銃部隊が集められた。

 門扉の隙間にエレブ兵が殺到する。ヌビア兵は容赦なく銃弾を浴びせた。銃弾を受けてエレブ兵が倒れ伏し、その屍を乗り越えてエレブ兵が突撃、そのエレブ兵にヌビア兵がまた銃撃を加える。そんなことが数え切れないくらいにくり返された。

 ……朝から始まった戦いは日が暮れても続いた。真夜中を過ぎてもまだ続き、明け方近くになっても続いている。ユーグは二万五千の兵を五班に分け、休息と攻撃を交互にくり返した。一方のマグド達は八千の兵が一人残らずほとんど休む間もなく戦い続け、死者負傷者が続出した。特に正門は激戦区となり、死傷者の九割はここから発生した。正門の穴をヌビア兵が身を挺して塞いでいるかのような状況で、八千の兵は六千に減り、やがて五千を下回った。

 戦闘が開始されてほぼ二四時間が経過し、タシュリツの月(第七月)・一日の明け方。


「殿下、これ以上は……」


 部下の進言にユーグは悔しげに呻く。


「くそっ! あと少し、あと少しなんだ!」


 あと一時間も総攻撃を続ければトズルを落とせる、ユーグの目にはそれが見えていた。だがエレブ兵の気力も体力もとっくに限界を越えていたのだ。ユーグの周囲には座り込んでいる兵しかいない。いくら交代で休めると言っても、雨の中・泥濘となり泥の川となった山道の上で、である。その上彼等は満足な量の食事を摂ることもできない。疲労の蓄積度合いではヌビア側に勝るとも劣らなかった。


「一旦ふもとに戻って再編成をしましょう。ふもとにも兵は残しているのです。疲れの少ない兵を選抜し、その兵でトズルを抜けばいいではないですか」


 部下の必死の進言にユーグは長い時間考え込んでいたが、


「……判った、撤収だ」


 ユーグの決断に部下達は一様に安堵のため息をついた。

 そして、ようやく聖槌軍が撤収していく。何とか敵を撃退したマグド達だが、安堵する時間はありはしない。間を置かずに再襲来することは疑う余地がないのだから。


「……ひどいものだな」


 奴隷軍団の損害の大きさにマグドは言葉を失うしかなかった。死傷者は過半を大きく上回り、無傷の兵はわずか三千余り。追撃する余裕などあるはずがない。


「サフィナ=クロイに人を送って皇帝に援軍の要請をせねば」


 間に合うかどうか判らないが、とマグドは内心で続けた。


「わたしが行きます、既に連絡船を用意しています」


 そう言って手を挙げたのはライルである。マグド達は驚きに目を見開いた。


「連絡船を使うのか。湖面は荒れているぞ」


「それは危険だ」


 一同は懸念を示すが、ライルは首を振った。


「今は一刻を争います。手段を選んでいる時間はありません」


「……判った、ライル。頼んだぞ」


 マグドの言葉にライルは力強く頷く。そしてトズル砦を飛び出し、一路サフィナ=クロイへと向かった。その頃にはもう夜は明け、輝く朝日が高々と昇っている。一〇日も続いていた雨がようやく止み、太陽が久しぶりに姿を見せたのだ。


「天佑だな。神は我々の勝利を約束している」


 太陽を見上げたユーグは独り言ち、柄にもなく信心深げな言葉を吐いた。ふもとに戻ったユーグは残していた兵と合流、軍の再編成を進めた。何とか一万の兵を選抜し、昼前には再攻撃の準備が全て整える。トズルへと、勝利へと向けて出発しようとしたそのとき、


「殿下! お待ちください殿下!」


 ユーグを呼びながら本陣へと飛び込んできたのは一人の兵士だった。近衛の護衛がその兵士を拘束する。


「無礼であろう! 何者だお前は!」


「私は……伝令……この足を買われて……閣下から殿下に」


 エレブの地ならば伝令には騎乗した、それなりの身分の騎士を使うが、このヌビアの地では騎馬が全て失われている。伝令には歩行の兵を使うしかない状況だった。

 その伝令兵が差し出す剣と密書を近衛が確認する。剣がタンクレードのものであること、密書にタンクレードの署名が記されていることを確認し、密書がユーグの手へと渡る。ユーグはそれを開封し、目を通した。


「……そんな馬鹿な……!」


 驚愕が、憤怒が、戦慄がユーグの身体を震わせる。周囲の部下達が顔を見合わせた。

 一方のトズル砦、時刻は少しだけ遡り、


「……もう少し降り続いてくれればいいものを」


 ユーグのと同じように空を見上げるマグドだがその表情は対照的だった。恨めしげに空を見上げるマグドだが、やがて気持ちを切り替える。


「俺達だけではもうここは守れん。だが、皇帝の援軍さえ到着すればここは守れる。俺達の役目は援軍の到着まで時間を稼ぐことだ――たとえ奴隷軍団が全滅しようと」


 マグドは旗下の兵を総動員し、聖槌軍の再襲撃に備えた。負傷者であろうと立って歩ける者は全員槍を持って立っている。このため戦闘前から倒れる者が続出した。


「……これは、持たないかも」


 ほとんどの者が砦の陥落と、奴隷軍団の玉砕を覚悟した。太陽が高く昇り、聖槌軍がやってくるのを心を静めて待ち構える。やがて太陽は中天まで昇り、昼となった。


「……来ないな」


「……どうしたんだろう」


 マグド達の元に、敵軍がスキラへと撤収していることが知らされるのはこの直後である。


「助かったのか……?」


 多くの兵が気が抜けて倒れそうになる。気力が尽きてその場に座り込む者も多かった。マグドもまた座り込みたかったが兵の前でそんな無様はさらせず、気力を振り絞って立ち続けた。


「まだ油断するな、敵の撤退を確認するんだ!」


 やがて聖槌軍が一兵残さず撤退したことが確認され、マグドはようやく警戒を解いた。だがマグドは生き延びたことの喜びよりも不審の思いの方が強い。


「何故奴等は撤退したんだ、もう少しで勝てたのに」


 その理由をマグドが知るのは何日か後のことである。





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