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黄金の帝国  作者: 亜蒼行
戦雲篇
13/65

第一一話「エルルの月の嵐・前」




 竜也達がエレブからネゲヴへと帰還し、スキラまで戻ってきたのはダムジの月(第四月)の中旬になろうとする頃である。


『……最近のエレブではネゲヴ侵攻軍のことを『聖槌軍』の通称で呼ぶようになっている』


 スキラに戻ってすぐ、竜也は船の中で書きためた原稿を使ってエレブ情勢速報を提出した。


『これは枢機卿アンリ・ボケが説教でくり返し使っている『(ネゲヴ侵攻軍は)神が今まさに振り下ろさんとする聖なる鉄槌』という語句に因んでの命名である。また、枢機卿アンリ・ボケが鉄槌を武器として愛用していることにも因んでいる。今後、本速報においても敵・ネゲヴ侵攻軍のことを聖槌軍の通称で呼ぶこととする……』


 さらに竜也は速報の内容を使って聖槌軍の脅威を訴える冊子を発行しようとした。スキラだけでなくネゲヴ中の人に、できるだけ多数の人に聖槌軍の脅威を理解してもらうためである。だが、


「いや、それは認められないでしょう」


「どうしてですか!」


 スキラ商会連盟の出版部を利用しようとした竜也だが、その利用が認められなかったのだ。竜也の前には事務局の職員が立ち塞がっていた。


「あなたの仕事は情報の収集と分析であって、それをどう利用するかは評議会の仕事じゃないですか。『聖杖教の脅威を広く訴える』なんて、勝手な真似をされては困ります」


「だけど……!」


 竜也はその職員を説得しようとするが、とりつく島もなかった。竜也は失意のうちに事務局を後にする。


「それでわたしのところに?」


「ああ。カフラの力を借りたい」


 次に竜也が赴いたのはカフラのところである。カフラは竜也と、何故か竜也に付いてきているラズワルドを等分に見比べた。


「わたしにできるのはうちの評議員への口添えくらいですが……」


「それもお願いしたいけど、それはまた今度でいい。――はっきり言うと、今の時点で連盟に何かを期待するのはやめることにした」


 と竜也は雑な仕草で肩をすくめる。カフラは戸惑いを見せる。


「エレブが、聖杖教が脅威だと思っていた俺だって、実際にエレブまで行ってみて自分の想定がとんでもなく甘かったことを思い知らされたんだ。今のネゲヴの人達に聖杖教の脅威が理解できないのも仕方ない。連盟が事態を甘く見て動こうとしないのも仕方ないことなんだ」


「それじゃタツヤさんはどうするんですか?」


「できることをやる。やるべきことをやる」


 竜也は拳を握りしめた。


「カフラにお願いしたいのは借金だ。一レプラでも多くの金がいる」


「どのくらいですか?」


「一千タラント」


 カフラは椅子から転がり落ちそうになった。


「たた、タラントですか? ドラクマじゃなくて?」


 竜也はあくまで大真面目に頷く。なお、労働者が一日働いて得られる賃金が一ドラクマで、六千ドラクマが一タラントとなる。小型商船一隻の相場が一タラント、大型商船なら三、四タラントとされている。カフラは深呼吸を一つして気持ちを落ち着かせた。


「……タツヤさんだって、自分がどれだけ無茶を言っているか判っていますよね? お母様ならもしかしたら用立てできるかもしれませんが、わたしには到底不可能ですよ」


「もちろん判ってる」


 と竜也は頷き「順を追って説明する」と一枚の紙を取り出して机の上に広げた。カフラがそれを見つめる。


「事務局でもらってきた。レプティス=マグナでやっている先物取引の価格表だ」


 レプティス=マグナはサブラタの東にある町である。江戸時代の大阪のような、ネゲヴの小麦取引の中心地となっている町だ。


「小麦価格の推移を見てほしい。戦争が近付いているんだから暴騰しているかと思ったけど、全然上がっていない」


「そうですね。今年は作柄も良さそうですし、本当に戦争になるかどうかまだ判らないと踏んでいる人が多いんでしょう」


「戦争が近付けば絶対に暴騰する。今のうちに買っておかなきゃいけない」


 カフラは非難がましい目を竜也へと向けた。


「先物取引に手を出そうというんですか?」


「誤解しないでくれ」


 と竜也が首を振る。


「丁半博打で濡れ手に粟の泡銭を手にしよう、っていうんじゃない。とにかく穀物が、食糧が必要なんだ。考えてもみてくれ、ヘラクレス地峡を越えて何十万って聖槌軍が西ネゲヴに侵入してくるんだ。略奪や殺戮がくり広げられる、まともな作付けなんかできるわけがない。西ネゲヴの二百万、三百万って人達が飢餓に瀕することになる」


「だから今のうちに食糧を買い占めておく、と……」


 カフラの確認に竜也が頷く。


「でも、そんなの個人でやるべきことじゃないでしょう?」


「誰も動こうとしないじゃないか! どの町も、商会連盟も」


 竜也は憮然とした顔で言い捨てた。


「だから俺が、今のうちに安値で現物を確保しておいて、それを必要とする人達に渡せるようにしたいんだ。できるだけ原価に近い価格で」


 竜也は価格表を裏返し、そこに数字を書き込んでいく。


「現時点の小麦の市場価格が一アンフォラで〇・五ドラクマ。高くも安くもない、平均的な数字だと聞いている」


 一アンフォラは約二六リットル。人一人の一ヶ月分の消費量より少し多いくらいである。なお、〇・五ドラクマという数字はあくまで先物取引での市場価格であり、消費者が買う際の小売価格はその七倍くらいとなる。


「西ネゲヴの人口は二百万とも三百万とも言われているけど、とりあえず百万人分を一年分。それで一二〇〇万アンフォラ、金額は六〇〇万ドラクマ、つまりは一千タラントだ。先物取引なら証拠金があれば取引ができるだろう? 一千タラントの何十分の一かの」


 竜也の説明にカフラは唸るしかなかった。


「確かにそのくらいならわたしの裁量で……それでも一千タラントには届かないでしょうけど、二百か三百くらいなら」


 竜也は「それで充分だ」と頷く。


「だけど……もしこれがお母様に知られたら。表が出るならまだともかく、もし裏が出たなら」


 カフラは顔を青くして震え上がった。


「お母様って?」


「お母様は今のナーフィア商会の当主です。ナーフィア商会は代々女性が当主を務めているんです」


 へえ、と感心する竜也。


「じゃあカフラがその跡を?」


「いえ、わたしは末っ子ですから、いずれどこかの家に――ああでももし表が出たなら」


 今度は何故か赤面したカフラは、


「タツヤさんはスキラ有数の大金持ち、お母様だって認めてくれるはず。どこかのドラ息子に嫁ぐよりはその方がずっと」


 等と小声でぶつぶつ呟いている。そんなカフラを竜也は不思議そうな顔で、ラズワルドは白けたような目で見つめた。


「カフラ?」


「へ? あ? はい、失礼しました」


 竜也に声をかけられ、ようやくカフラは戻ってきた。熱を持った頬を掌でぺしぺしと叩いて冷まし、真面目な顔を作る。


「あ、お母様のこととですね。ナーフィア商会の代々の女性当主は名目だけの当主で、実務はそのお婿さんが担います。使用人の中で最も優秀な人間を選んで当主の婿に迎え、実務を任せる。そうやってナーフィア商会は発展してきたんです」


 女性当主は商会のオーナー、迎える婿は雇われ社長、というところか。と竜也は理解した。


「……ただ、当代当主のお母様は誰よりも優秀な方でした。父を婿に迎えても父に実権を渡さず自分で握り続けたんです。反発した父は先物取引に手を出して大失敗をします。父は閑職に回されて飼い殺しとなり、夫婦仲は完全に冷め切ったものになってしまいました」


 カフラは寂しそうな顔で小さなため息をついた。


「元々ナーフィア商会には『先物取引に手を出すべからず』っていうのが代々の家訓にあるんですが、この一件でお母様の先物取引嫌いは決定的になったんです。だからわたしがそんなものに手を出したと知られたなら……」


 カフラは怯えの表情を見せる。竜也はそんなカフラの両手を包むように強く握った。


「カフラには迷惑ばっかりかけてすまないと思っている。でも、俺にはどうしてもカフラの力が必要なんだ。西ネゲヴの人達を救うために」


 竜也の真摯な瞳が真っ直ぐにカフラの瞳を見つめた。間近から見つめられ、カフラの頬に赤みが差す。カフラはそれを誤魔化すようにその手を振り払った。


「……タツヤさんがエレブで何を見てきたのか知りません。何を根拠に戦争が起きると言っているのか判りません。タツヤさんにとっては値上がりが確実なことでもわたしにとっては博打でしかないんです」


 カフラは立ち上がり、真っ直ぐに竜也へと向き合った。


「タツヤさんはわたしが納得できるだけのものを見せられるんですか?」


「そう言うだろうと思っていた」


 竜也は退屈そうにしていたラズワルドを視線で呼ぶ。二人の元にやってきたラズワルドが両手を差し出し、竜也がその片方を握った。二人が無言のままカフラを見つめる。

 カフラは少しためらったが手を伸ばし、一方に竜也の手を、もう一方にラズワルドの手をしっかりと握った。次の瞬間、カフラの心の中に何かが流れ込んでくる。

 ――戦争を望むエレブの人々、聖都テ=デウムの光景、聖杖教の騎士団と枢機卿アンリ・ボケ、そして大地を焼き尽くす紅蓮の炎――

 一瞬意識が途切れていたようだ。気が付いたらカフラは床に座り込んでいた。竜也が心配そうにカフラの顔をのぞき込んでいる。


「大丈夫か?」


「あ、はい」


 カフラは竜也の手を借りて立ち上がった。カフラは竜也とラズワルドに交互に視線を送り、


「タツヤさん、今のは一体」


「ラズワルドに心をつなげてもらった。俺達が見てきたものをカフラにも見てほしかったんだ」


 カフラは竜也に何か言おうとして、何も言葉にならなかった。何を言うべきなのか混乱していて判らない。何を見せられたのか、雑然としていてよく判らない。ただ一つ言えるのは、戦争が間違いなく起きるという竜也の判断には明確な根拠があるということだった。竜也はアンリ・ボケの心の中という究極のインサイダー情報を元に先物取引をしようとしているのだ。

 カフラは長い長い時間黙っていた。その間竜也もまた口を閉ざしている。たっぷり五分以上の沈黙を経て、カフラは殊更に大きなため息をつく。


「……結局問題はタツヤさんが信じられるかどうかなんですよね」


 そしてカフラは澄んだ微笑みを見せた。


「わたしはタツヤさんを信じます。わたしの生命をタツヤさんに預けます」


 カフラの宣言は大仰でも何でもない。表が出るなら何も問題はないだろう。だが裏が出たならナーフィア商会が大損害を被ることになる。破産の可能性だってゼロではない。カフラがしたことは自分の一家一族の財産を竜也の博打のカタに入れたに等しい。もし裏が出たなら自分の生命をもって償うしかないとカフラは決心している。


「ありがとう。カフラの気持ちは決して無駄にはしない」


 竜也はそう礼を言うと、次にどんな手を打つべきか考え込む。カフラはそんな竜也の横顔を眩しいもののように見つめていた。








 竜也は次に聖槌軍の脅威を訴える冊子を独自に作成・配付することにした。作成や編集にはログズが、印刷・配付や資金面ではカフラがそれぞれ協力する。ログズへの報酬は安いものだし、カフラは自前の印刷工房を持っている。とは言えその費用は決して小さくないのだが、


「一千タラントから見れば端数みたいなものです」


 とはカフラの弁である。先物取引と冊子印刷、もし協力要請の順番が逆だったなら決して上手くはいかなかっただろう。竜也の作戦勝ちである。

 冊子の内容はこれまで作成したエレブ情勢速報のまとめと、エレブでの見聞録である。竜也はエレブで見てきたことをありのままに書き綴った。日本語ならまだともかく、この世界の文章で技巧を凝らせるほどの文才も知識も竜也にはない。竜也にできるのは稚拙だろうと朴訥だろうと構わずに、赤心と誠意を筆に込めて思いの丈を訴えることだけだ。


『彼等はやってくる。間違いなくやってくるのだ。想像を絶するほどの大軍がやってくる。数百年間戦争をくり返してきた、精強な軍勢がやってくる。自分達以外の信仰を一切認めない、恐るべき侵略者がやってくる。恩寵の民を悪魔と呼んで根絶やしにしようとする、恐るべき狂信者がやってくる。間違いなくやってくるのだ』


「文責クロイ・タツヤ、と」


 最後にその一文を書き添えて冊子は完成する。「スキラの夜明け」をパクって「ネゲヴの夜明け」と名付けられたその冊子は商会連盟を通じ、ネゲヴ中の自治都市の長老会議に、各都市の商会連盟に、恩寵の部族の族長宛に送付された。


「それじゃこれをジューベイさんに」


「はい。お任せください」


 牙犬族宛の分はサフィールを通して送ることにした。エレブから戻ってきてからもサフィールは竜也の元に留まったままなのだ。

 エレブからスキラへと戻ってきたその日、竜也は港でバルゼルとツァイドとは別れた。だがサフィールは竜也に付いてくる。竜也は首を傾げて、


「あれ、サフィールはこっちに何か用事があるのか?」


「いえ、そうではありません。わたしはタツヤ殿の護衛ですから」


 サフィールの返答に竜也は困惑する。


「え、でももうスキラに戻ってきたんだから護衛は必要ないし、報酬はもう払えないし」


「ご心配なさらず。報酬は不要ですし、滞在費はちゃんと用意してもらっています」


 少しばかり押し問答があったがサフィールは「バルゼル殿の命令です」で竜也を押し切ってしまう。こうしてサフィールは竜也達と同じく「マラルの珈琲店」の屋根裏部屋に住むこととなった。初日はマラルの部屋に泊めてもらい、次の日には屋根裏部屋の一つに移動している。

 下宿の隣人として落ち着いたサフィールが竜也の元を訪れて、途方に暮れたような顔で問うた。


「わたしはここで何をすればいいのでしょう?」


 竜也は「知るか」の一言で終わらせたい誘惑に駆られたが何とか我慢した。


「戦争が近付けばやってもらうことはいくらでも出てくると思うんだけど、まだそんな段階じゃないんだよな。仕事ができたらお願いするから、しばらくは英気を養ってくれ」


 はあ、と曖昧な返事をするサフィールだが一応納得はしたようである。ただ、サフィールは何もすることがない状態を苦手とするようで、


「やっぱり日本人の血が流れているんだな」


 と竜也は感心する。ラズワルドなどはひたすら惰眠を貪って満足そうにしているが、どちらかと言えばラズワルドの方がこの世界のスタンダードである。

 一日中木刀で素振りをするサフィールを見かけたヤスミンが「暇ならうちの芝居に出てみない?」と声をかけ、サフィールは「カリシロ城の花嫁」に端役で出演することとなった。役柄はカリシロ国宰相の手下、雑魚その一。剣祖シノン役のヤスミンにぶった斬られて退場する、ただそれだけの役なのだが、


「てええいっ!」


 勢い余ったサフィールが逆にヤスミンをぶった斬ってしまう。使っているのは木製の模造刀だが、木刀で思い切り腹を横殴りにされて悶絶しないはずがない。シノンは身動き一つできなくなり、そのまま舞台から退場してしまった。

 舞台の上にはシノンに勝ってしまった雑魚役のサフィールが残される。サフィールは何とかその場を取り繕うべく、


「ええと、ええと――はっ、今の太刀筋は兄上! ああ、何てことだ、兄上をこの手で殺めてしまうなんて! わたしは心を入れ替えました。兄上の意志はこのわたしが継ぎます!」


 説明くさい台詞を棒読みで述べた上でそのシノン弟は唐突にグルゴレット側に寝返ってしまった。シノン弟はグルゴレットやカシャットを置き去りにして一人で大活躍、敵のほとんどとカリシロ国宰相までもその剣で成敗してしまう。敵役の面々が舞台の上で死屍累々となり、観客は呆然としたまま幕は降りて、芝居は終了するのであった。

 この日の芝居は常連客には思いがけず好評だったそうだがヤスミン一座は数日の休業を余儀なくされ、サフィールには二度と声がかかることはなかったという……。

 そんなサフィールにようやく仕事を与えることができ、竜也はほっとしている。子供の使いに毛の生えたような仕事だがサフィールも非常に張り切っていた。


「それじゃ、これを白兎族の族長に」


 と竜也から「ネゲヴの夜明け」を渡されたラズワルドは微妙に嫌そうな顔をした。


「……白兎族は他の部族みたいな身体強化の恩寵を持ってない。むしろ普通の人よりもひ弱なくらい。戦争の役には立たない」


「そんなことはない」


 ラズワルドの言葉を竜也は強く否定した。


「白兎族の力の意味は今回のテ=デウム潜入でラズワルド自身が証明したじゃないか。俺の元いた場所には『情報を制する者は世界を制する』って言葉がある。白兎族の恩寵にはそれだけの力がある。聖槌軍と戦うにはその力が必要なんだ」


 気が進まない様子のラズワルドだが竜也の熱意にほだされ、族長宛の紹介状を執筆する。


『「情報を制する者は世界を制する」ってタツヤは言っている。白兎族の恩寵にはそれだけの力がある、ってタツヤは言っている。エレブ人と戦うのに力を貸すならあなた達がわたしにしたことを大目に見てやってもいい』


 書き上がった紹介状を見せてもらい、竜也は渇いた笑いを浮かべるしかなかった。


「こんな内容の紹介状じゃ逆効果じゃないのか?」


 と思わずにはいられないが、その一方ラズワルドの同族に対する複雑な感情を無視することもできない。結局竜也はその紹介状の一字一句も削ることなく、付け加えることなくそのまま「スキラの夜明け」に添付した。


「白兎族には旧知の者がおります。私が配達を引き受けましょう」


 とツァイドが申し出てきてくれたので竜也はツァイドに配達を委ねることにした。

 一方、スキラ内の有力者に対しては竜也自身が「スキラの夜明け」を手に配付に回っている。配布先はスキラの長老会議メンバーやスキラ商会連盟の評議会に加わっているバール人商人等である。


「百万の大軍勢? 法螺を吹くにも限度というものがあるだろう」


 長老会議の面々はまだ危機感が乏しく、そんな風に竜也を嘲笑った。冊子を受け取りもせず、門前払いにされるばかりである。

 一方のバール人商人は直接会って竜也の話に耳を傾けてくれる者が多かった。エレブと交易し、その情勢を肌で感じているからだろう。

 バール人商人以外にも戦争の気配を肌で感じている者がいる。


「最初は逃亡奴隷、次に劇の脚本を書いていたと思ったら、今度は商会連盟の使いか」


 巨漢の男は面白そうな視線を竜也へと送った。髑髏船団首領のガイル=ラベクが竜也の面会申し込みに応じてくれたのだ。


「エレブの動きについては俺達も独自に注意を払っている。確かに、これまで経験したことのない大きな戦争になるかもしれんな」


「はい。エレブ人は総力を挙げてネゲヴに攻め込んできます。それに対抗するのにネゲヴ人も総力を結集する必要があるんです」


 熱意を込めた竜也の言葉にガイル=ラベクは腕を組んで考え込んだ。


「……お前の言いたいことは判る。戦争となったら力を貸してやらんでもない。だが、今のままではどれだけ戦力を集めてもエレブ人には勝てんだろう」


「どうしてですか?」


「簡単な話だ。エレブ人は教皇が中心になって聖槌軍を指揮しているんだろう? ネゲヴにはまだ中心となる者がいない」


 ああ、と竜也は納得する。


「それじゃ、誰が中心になれば」


「難しく考える必要はない、スキラも含めてネゲヴのほとんどの自治都市はケムト王に臣従しているんだ。ケムトから国王か、国王の勅命を受けた将軍でも連れてくればいい」


 自治都市がケムト王へと臣従し、ケムト王は自治都市を防衛する――それは形式的な主従関係に過ぎないが、その形式こそがケムト王の権威に大きく寄与しているのは間違いない。ケムト王が自身の権威を守りたいなら義務を果たす必要がある――確かにガイル=ラベクの言う通りだ。

 竜也は大急ぎで商会連盟の事務局へと向かい、商会連盟を通じてある人物に面会を申し込み、翌々日にはその人物と会う段取りとなった。

そして二日後、スキラ市街の外れ。今竜也の目の前には石造りの神殿の建物がある。高い正門に刻まれているのは真円が両側に翼を広げている紋章。その神殿の名は太陽神殿と言い、それはネゲヴ最大の宗教団体の名だった。

 竜也は以前ルサディルにいたときにハーキムに聞いた話を思い出す。


「一五〇〇年くらい前ですか、当時のケムト王が『バール人の奉ずる神々や恩寵の民の部族神は、全てケムトの神々に起源を有する。それらは名前が違うだけで元は同一の存在である』と主張しだしたんです」


 それはバール人の勢力拡大に危機感を抱いた当時のケムト王の、ささやかな抵抗の試みだったのだろう。だが歴代のケムト王とその周囲の神官はこのケムト流本地垂迹説を本気で信奉し、さらには広く布教した。太陽神殿をネゲヴ各地に設立し、神官を派遣して信者を集めて布教し、自身の教説を広める。この一五〇〇年間に渡る努力の結果、今日ではバール人も含む全てのネゲヴの民がこの説を受け入れてしまっている。

 その一方、この教説がネゲヴ中に浸透するに連れてケムト王室もまた変質した。祭政一致が長く続いていたケムト王は次第に「政」を手放して「祭」だけに集中するようになる。数百年前から「政」は宰相に任せきりでケムト王は実務には一切関わらないのが常態となっている。


「初代王セルケト以来四千年間途切れることなく続くセルケト王朝の王、太陽神ラーの末裔、太陽神殿の最高神官」


 ケムト王は政治の実権を全て手放した代わりに、ネゲヴで他に並ぶ者のない権威を手に入れたのだ。多神教と一神教の違い、信者に対するスタンスの違い、他にも差異はいくらでもあるが、その存在はエレブ人における聖杖教の教皇に匹敵すると言えるだろう。


「お待たせいたしました」


 神殿内に通された竜也が応接室で待つことしばし、その部屋に神殿長が現れた。神殿長は日焼けした肌のケムト人で、七〇歳近い老人である。身にしているのは爪先までを隠す白い神官服で、その神官服にも太陽神殿の紋章が描かれていた。


「時間を作っていただきありがとうございます。今日こちらに伺ったのは他でもありません、エレブの聖槌軍のことです」


 竜也は挨拶もそこそこに本題を切り出した。エレブ情勢を、教皇庁の動きを、聖槌軍の動向を説明する。


「聖槌軍という恐るべき侵略者がネゲヴにやってきます。聖槌軍は聖杖教という宗教を心の支えにしている。ネゲヴの中でそれに対抗できるのは太陽神殿を置いて他にはないんです」


「確かにその通りです」


 その神殿長は力強く頷いた。


「私達もエレブの動きについては不安に思っていたところです。これらの情報とあなたの志は必ずメン=ネフェルに伝えましょう」


「ありがとうございます」


 竜也は深々と頭を下げた。








 ダムジの月(第四月)が終わり、アブの月(第五月)に入る頃。竜也はエレブ情勢をまとめて速報を評議会に提出しようとした。が、


「……君は大規模な侵攻があることを確信しているようだが、それに否定的な情報に目を瞑っていないかね?」


 そう言って評議員の一人が報告書を読みもしないで机の上に置く。


「どういうことですか?」


「『聖槌軍は百万を公称するがその実勢力は五万以下。実際に侵攻に参加するのは二、三万程度』――そんな情報が我々の元に入っている」


「そんな馬鹿な……」


 竜也は呆然とするしかない。


「だが落ち着いて考えてみれば、百万を号する大軍勢よりそちら方がよほど現実的だとは思わないかね? 聖槌軍総司令官のヴェルマンドワ伯ユーグは聡明な人物だと聞いている」


「確かにおっしゃるとおりです。でも、今のエレブはそんな道理が通用する場所じゃないんです」


 竜也はその評議員を説得しようとするが、彼は手振りで竜也の口を塞いだ。


「我々が知りたいのは君の信念ではなくエレブの実情だ。このままならムハンマド・ルワータと君の活動に対する支援は見直す他ないだろう」


 竜也は追い出されるようにしてその部屋から出ていく。その後、竜也は港に行って噂を集めた。


「どうやら何とかっていう枢機卿が失脚したらしいな。それで敵の規模が大分縮小されたとか」


「教皇が倒れたって聞いたぜ? 教皇はもう八〇前の年寄りだ。教皇が死んだら後継者争いが始まって、聖槌軍どころじゃないだろう」


 確かにそんな噂が広く流れている。だがそれはただの噂である。しかもエレブでは流れていない、ネゲヴでしか聞かれない、事実とは異なる噂だ。


「枢機卿アンリ・ボケは元気にエレブ中を飛び回っているし、教皇インノケンティウスも健在だ。一体誰がこんな噂を……」


 ムハンマド・ルワータから直接情報をもらっている竜也には「今のネゲヴで俺以上にエレブ情勢に詳しい奴なんていない」という自負がある。その竜也からすれば「枢機卿失脚」も「教皇不予」も根拠のない、流言飛語の類に過ぎなかった。

 だが、そんな流言飛語も馬鹿にならない力を持つことがある。


「……今日も来てないか」


 どうやら「聖槌軍の実総勢は二、三万」という噂は相当広範囲に広がっているらしい。竜也の作成・配付した「ネゲヴの夜明け」に対する反応も非常に乏しい状態だった。即座に返事をくれたのは牙犬族のアラッド・ジューベイだけだが、牙犬族はもう身内みたいなものなので勘定には入れられない。恩寵の部族では、他には赤虎族と金獅子族が返信をくれた。


『エレブ人の無法者共がネゲヴの大地を穢すなら我等赤虎の戦士が奴等を皆殺しにするだろう。安心するがいい』


『我等金獅子族はネゲヴを守護する者、エレブ人の侵略を許しはしない。より詳しい状況が知れたならまた連絡を頼む』


 恩寵の部族の中でも最強と言われる両部族の言葉は心強く感じられる。だが彼等が事態をどれほど深刻に受け止めているのかは心許なかった。

 竜也は折れそうになる心を奮い立たせ、「ネゲヴの夜明け」第二弾を作成する。


『聖杖教は自らの神を唯一絶対と称し、他の神や信仰を一切認めていない。もし聖杖教にネゲヴが征服されたなら太陽神殿は全て破壊され、神官は処刑され、聖杖教の教会が建設されてその崇拝が強制されるだろう。恩寵の民は村ごと皆殺しとなるだろう。エレブ人はまさしくそのようにしてエレブを聖杖教一色に染め上げたのだから』


『聖杖教に改宗すればあるいは殺されずにすむかもしれない。だがそれは恩寵を持たない人達だけの話である。恩寵を持っている人達は決して生き残ることを許されない。改宗した我々が彼等を迫害し、殺すことになる。聖杖教は我々の神を殺しにやってくる。我々の友を殺しにやってくる。我々の良心を、尊厳を殺しにやってくる。我々を奴隷にするためにやってくるのだ』


「……文責クロイ・タツヤ、と」


 末尾にそれを付けた冊子は再びネゲヴ中へと配付された。

 一方、レプティス=マグナに行っているカフラからの手紙が届けられた。


『小麦の買い占めは順調です。すでに三〇〇万アンフォラ分確保しています。価格は一アンフォラでわずか〇・六ドラクマ、暴騰すればタツヤさんはネゲヴ有数のお金持ちですよー』


「……上がらないのは助かるけど」


 噂のおかげで小麦相場も落ち着いており、買い占めを進める良い機会となっていた。だが「本当に暴騰するのか」とカフラも不安になっているようで、その思いが文面からにじみ出ていた。


『根拠のない噂が流れているけどエレブ情勢に大きな変化はない。小麦の買い占めはこのまま進めてほしい』


 竜也は手紙にそう書いてカフラへと送った。

 さらにその一方ヤスミン一座では、


『――このままじゃ村は全滅だ。エレブ人共にはもう我慢ならねぇ』


『村長、どうすれば?』


『――海賊雇うだ!』


 脚本ニッポンノ・エンタメの新作劇「七人の海賊」の上演が始まっていた。言うまでもなく黒澤明の「七人の侍」を翻案した劇である。舞台はネゲヴのとある寂れた漁村・ヌビア村。ヌビア村はあるエレブ人海賊に目を付けられていて、破産寸前になっている。海賊の横暴に耐えられなくなった村人が決意し、グルゴレットやシノンといった傭兵を雇って海賊に抵抗する、というストーリーである。基本的には元ネタとほぼ同じだが、一箇所だけ大きく変更したところがある。


「……確かに面白いけど、ちょっとタツヤらしくないかも」


 最初に脚本を読んだときヤスミンはそんな感想を漏らした。


「集まった七人のうち二、三人は最後の決戦で死んだらいいんじゃない?」


「俺もそう思わなくはないんだけど」


 エレブ人と戦うために集ったのは七人。カルト=ハダシュト近辺を拠点とする海賊グルゴレット、マゴル出身の剣祖シノン、東ネゲヴの傭兵カシャット、他にはバール人商人・太陽神殿の神官・西ネゲヴの傭兵・恩寵の戦士、といったメンバーだ。元ネタでは七人のうち四人が死んでいるが、「七人の海賊」では最後まで一人も死んでいない。


「エレブ人と戦うのにネゲヴ人が総力を結集させてるんだ。その中から犠牲者を出したくはない」


 ヤスミンは何か言いたげにしたものの竜也の主張を受け入れた。ヤスミンは誤魔化すように別の話題を取り上げる。


「ところで、ヌビアってどこにある村?」


「元々はケムトの南の方の地名だから、あるとしたらその辺かな」


 名もなき貧乏漁村に「ネゲヴの別名とか古語とか雅語とかの名前を付けたい」と竜也は要求、ゴーストライターのログズが提案したのは「ヌビア」という村名である。ログズが竜也に解説する。


「――ウガリット同盟よりも古い時代、エレブ人はケムト南部から大量の黄金を輸入していた。このためエレブ人はケムト南部のことを古いケムト語で『黄金』を意味する『ヌブ』にちなんでヌビアと呼ぶようになり、やがてこの言葉はネゲヴ全体を意味するようになった。だがバール人がエレブに入植してバール語が浸透するにつれ、この言葉は使われなくなったんだ」


「ヌビア……『黄金の国』か。良い名前だ」


 ネゲヴにもその単語が輸入され、ネゲヴの知識人も自分達の大陸のことをヌビアと自称していた時期があった。一五〇〇年ほど忘れられていたその地名を竜也は掘り起こしたのである。


『戦には旗印が必要だ』


 と劇中でバール人商人が用意していたのは、中央に大きめの丸印、その周囲に少し小さい七つの丸印が配置された、シンプルな旗だった。観客は劇の展開に熱中し、食い入るように舞台を見つめている。

 「七人の海賊」も例のごとくに好評を博し、順調に客足を伸ばしていた。そしてアブの月が中旬に入る頃、竜也の元を嵐が襲来する。





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