旅立ちの朝
「げっ、お、お母さん?」
「げっ、とはなにさ。朝っぱらから失礼な子だねぇ」
扉を開けた先には、なぜか母親が待ち伏せするかのように腰に手を当てて仁王立ちしていた。まだ日が差していない暗い時間帯にもかかわらず、いったいどうして?
(どうしてって、そんなの私を引き止めるために決まってるじゃない!)
ここで捕まってはいけない。私はなんとしてもクノッフェンに行くんだ。
ニーナは身構えるように低く姿勢を取ると、弾かれるように走り出した。
ただ残念なことに、ニーナは運動があまり得意ではない。自分では矢のように飛び出したつもりでも、実際の動きはのろかった。ニーナはがっしりと腕を掴まれて、簡単に動きを止められてしまう。
「はーなーせぇ! 私はなにを言われたってクノッフェンに行くんだぁ!」
駄々をこねるように体を揺さぶってみる。けれど母の太い腕には敵わない。
「もー、離してって言ってるじゃない!」
「別に旅に出ることに反対はしないけどさ。朝食ぐらい食べていきなさい」
「止めたって無駄なんだから! 私は絶対クノッフェンに……あれ、反対じゃないの?」
「止めても無駄なんだろう? それとも、本当は引き留めて欲しかったのかい?」
ニーナはぶるぶると首を横に振る。昨日とは一転してクノッフェン行きを許可してくれたことが信じられなくて、ニーナは母親をまじまじと見つめた。
いまから朝食を作るから家の中で待っときな、と言われて、ニーナは大人しく母に従った。喧嘩別れする気満々だったのに、いまはこうして椅子の上にちょこんと座っている。そんな自分が、なんだかおかしく思えた。
ニーナが昨日買ってきたパンと、カリカリに焼いたベーコンと、その隣には目玉焼き。それからヤギのミルクにハチミツのかかったヨーグルト。特別な朝に、いつもの朝食が目の前に並べられる。
そうして待っている間に他のみんなも起きてきて、昨日と同じように家族そろっての食事となる。みんないつもと変わらない様子で、ニーナだけが昨夜を思い出して気まずく感じていた。
「……いただきます」
「はいどうぞ」
小さな口でベーコンをひとかじり。変わらぬ美味しさに思わず頬が緩みそうになるけれども。
「どうして急に認めてくれたの?」
「まあ、おばあちゃんがね」
母は短くそれだけ言った。おばあちゃんの方を見ると、ニカっと笑いかけてくれた。それはいつもの、すべてを許してくれる優しい笑みだった。
母がどんとテーブルの上に包みを置く。置いた時にジャラジャラと音が鳴って、ニーナはつい期待の眼差しを母に向けてしまう。
もしかして、この中身って……
「お金だよ。そんだけあれば何か月かは持つでしょ。普通に暮らすなら、だけどね」
「いいの?」
「送りだすと決めたからね。あとそのお金はみんなからだよ。お姉ちゃんが稼いだ分も入ってるんだから、ちゃんとお礼言いなさい」
えっ、お姉ちゃんが?
ニーナは視線をロマナへと向ける。パンを頬張る姉は澄まし顔だ。
「ありがとう、お姉ちゃん」
「まあ、頑張りなよ。あと、そのうちでいいからあの”入浴剤”もちゃんと完成させてよね?」
「お姉ちゃん……」
あれだけ酷い目にあわせたのに、お姉ちゃんは私の発明品を待ってくれている……
そのことが嬉しくて、昨日あれだけ泣いたのに、また涙してしまいそうだった。
ニーナはポケットから<小言うるさいガマ口財布>を取り出した。そしてその中に硬貨を移し替えていく。
「お金を管理するときは一か所にまとめるんじゃなくて、色んな所に分けて保管しなさい。そうじゃないと、もし落としたり盗まれたりしたときに大変だからね」
「大丈夫。ガマちゃんもそんなには食べられないって」
口いっぱいに硬貨を詰め込むと、不満顔だったガマガエルもこれにはにんまりだ。
朝食を終えて、いよいよ旅立つ。見送る母とおばあちゃん。父と姉は途中まで送ってくれるという。それぞれに手を振って、頑張ってくるからね、と別れの言葉を口にして、そうしてニーナはリンド村から旅立った。真っ暗だった空は白んで、東の空から顔を見せ始めた太陽がニーナを明るく照らしていた。
◆
「──あーっ、寝坊した!!」
クノッフェンへと行く途中の道すがら、立ち寄った街の宿でニーナは一夜を明かした。昨日は慣れない旅に疲れたせいで、アラームをかけることも忘れて眠ってしまっていた。
「うわっ、もうこんな時間!? 急がないと馬車に乗り遅れちゃうっ!」
慌てて衣服に袖を通し、脱いだパジャマをリュックサックに押し込む。上着のポケットに財布があることを確認してから、ニーナは部屋から飛び出した。それから転ばないように階段を駆け下りて、一階の受付で宿代を支払う。
「ありがとうございました! それじゃあ私はこれで!」
まだ受付のお姉さんはなにか言いたそうだったけれど、耳を傾けている暇はない。のろまな脚を懸命に動かし、ニーナは馬車乗り場まで走る。ここは初めて訪れる街だけれど、昨日のうちに馬車乗り場の場所だけは確認していた。
(とはいえ、もう明らかに時間に間に合ってないよね!?)
宿を出た時間はちょうど出発時刻と重なっていた。つまり、なにかしらの理由で馬車の出発が遅れでもしていないと、絶対に間に合わないのである。
「……って、あーっ!!」
走り始めてすぐ、ニーナは<七曲がりサンダーワンド>を持っていないことに気付いた。宿の壁に立てかけておいたのを忘れていたのである。あれは置いていけない。一瞬だけ迷ったのち、ニーナは来た道をダッシュで引き返す。受付のお姉さんにごめんなさいと事情を告げて、お姉さんと一緒にもう一度部屋の中へ。そして窓際の壁に立てかけてあった杖を手に取った。
そのときニーナの目に、東の方角に向かって走る一台の馬車が映る。
(たぶんだけど、これに乗らなきゃいけなかったんだ!)
「待ってー、そこの馬車ぁー!!」
ニーナは窓を開けて叫んだ。その声が届いたのか馬車の運転手が背中越しに振り向いて、帽子を取って掲げた。気の良さそうなおじさんだ。
ところが、御者はニーナを待つ気は無いらしい。そのまま馬車はスピードを緩めることなく進んでいく。乗客の何人かはニーナに気付いているみたいだったけれど……
(そっちがその気なら……!)
ニーナは開け放った窓のレール部分に無理やり足をかけてよじ登ると、窮屈な姿勢のまま眼前の馬車を見下ろす。そして深呼吸を一つ。後ろでお姉さんが悲鳴を上げているけど気にしない。
──私はできる!
ニーナは自分にそう言い聞かせると、強くレールを蹴って、窓辺から飛び降りた!
それは夢見る錬金術師の偉大なる跳躍。
けれど進み続ける馬車とはあまりにも離れすぎていて、ニーナが馬車に辿り着けないことは誰の目にも明らかだった。乗客もそろってニーナのことを驚いた目で見ている。
「羽ばたけぇー!」
しかし、ニーナだって馬鹿じゃない。無茶をした自覚はあっても、決して無理だとは思っていない。背中の翼に魔力を送り込んで、必死に羽ばたかせるのだ。
<天使のリュックサック>は確かに大空を飛べない。けれども、数秒ぐらいなら宙に浮かぶことができる。勢いをつけて跳べば、飛距離を稼ぐことだってできる。ニーナは小さな翼を必死に羽ばたかせ、少しずつ馬車へと近づいていく。
「とーどーけぇー!」
もう少し。あと少し。杖を握る手でワンピースの裾を押さえ、もう片方の手で朱色のベレー帽を押さえる。風になびくココア色の髪。ニーナは少しずつ馬車へと距離を詰めていくのだけれど。
「あっ、待って、もうちょっとなのに……!」
誰かが御者に「馬車を止めて!」と叫んでくれている。けれどあと少しが届きそうになくて。なんとかしようと足をばたつかせてみるけれど、それは無駄な足掻きでしかなかった。
そんな必死に抗うニーナに向けて、馬車から手を伸ばしてくれる人がいた。ふわりとした藍色の髪を風になびかせる、お団子ヘアーの可愛らしい女の子。
「ほら、あと少しだ!」
力強く差し出されたその手を握ろうと、ニーナは最後の気力を振り絞る。みんなが応援してくれている。その声を力に変えて、ニーナは懸命に手を伸ばした。
手と手が触れる。力強く腕を引かれる。両足が馬車の荷台を踏みしめる。ニーナはなんとか無事に降り立つことができた。
けれどそのとき、勢い余って女の子に抱き着いてしまい……
「うわぁ!」
重なる声。
ばたん、と盛大な音を立てて、ニーナは女の子を押し倒してしまった。




