我はガレハド
ミスティの指からするりとリングが抜け落ちる。カランと音を立てて転がったリングから発せられる黒い靄が、狭い室内を満たしていく。その靄は段々と一か所に集まっていき、やがて巨大な影を作り出した。
ニーナは宙に浮かぶそれを見て思わず息をのむ。
「黒い牛……?」
顔だけ見れば、雄々しき二本の角が生えた黒い闘牛。しかしそいつは腕を組み、宙を浮きながら胡坐をかき、こちらを値踏みするように見下ろしている。ただの牛で無いことは見た目からも、全身から放たれる威圧感からも明らかだった。
「……ははっ、まさかこんな大物がお出ましになるとはね」
儀式を執り行ったスヴェンも困惑を隠しきれていない。きっと似たような経験はあっても、これほどの存在を目にするのは初めてなのだろう。
もちろん、それはニーナも同じだった。
「こいつが、悪魔」
『……如何にも』
──しゃ、しゃべった!?
そいつはニーナの呟きに応えるように口を開いた。その黒々とした瞳で射抜かれると、それだけで息が詰まった。リムステラと初めて対面したときとはまた違ったプレッシャーを感じる。魔女に殺気を向けられたときは鋭利な刃物を心臓に突きつけられたような感覚がして、生きた心地がしなかったが、この悪魔はまるで聳え立つ壁のよう。なにかされたわけでも無いのに、その存在感に押しつぶされてしまいそうになる。
視線を逸らしたい。
でもそれは許されなかった。
手も足も、口もまぶたも瞳も、全身が金縛りにあったかのように何一つ自分の意志で動かすことができない。思考もまとまらず、意味もなく涙があふれてきた。
──い、息ができない……!
このままじゃ死んじゃう。
酸欠からめまいがしそうになったそのとき、ぽん、と後ろから肩を叩かれた。
「……はっ!? ロ、ロブさん?」
「そんなに肩に力を入れると辛いだろう。もっと楽にすればいい」
声をかけてもらったからか、自然と余計な力が抜け落ちる。あれだけ強張って動かなかった体が、不思議なことに思い通りに動く。ニーナは二度、三度と大きく息を吸って、それからロブに「平気なんですか?」と訊ねた。
「ああ、なんともない。別に奴だってこちらのことを取って食おうとしているわけでは無いし、そもそも自分より弱い相手に恐れを感じる理由がない」
いつも以上に強気なロブのことが今はなにより頼もしい。
『ほう、我を前にしてもその態度を取れるとはなかなか傲慢だな。いいだろう。我はガレハド。魔女の願いによって生み出された悪魔なり』
ロブのことを認めたのか、悪魔は進んで自らの名を名乗る。
「俺はロブ。お前にいくつか訊きたいことがある。まず一つ、お前を生み出したのはリムステラという名の魔女か?」
『違う。いまよりずっと古の時代の魔女の願いにより、我は生み出された』
「では、お前はリムステラとは無関係なのか?」
『その質問には答えられぬ。が、言わずともわかろう?』
何らかの力がガレハドを縛っているのか、悪魔はリムステラの名を口にする事を避けた。ただ絶対的に服従しているわけじゃないらしい。いまの発言はリムステラと関りがあると答えているようなものだったからだ。
「指輪のなかで悪さをしていたのはお前か?」
『その認識は正しくない。力添えをしたが、それだけだ。我が運気を奪い取ったわけでは無いから、返せと叫ばれてもそれは叶わぬ』
「では誰が何のために奪った?」
『それも答えられぬ。が、言わずとも見当がつくだろう?』
ガレハドは意味ありげに口の端を吊り上げる。この反応を見る限り、リムステラが奪い取った運気を使って何かを企んでいることは間違いなさそうだ。
「最後にもう一つ質問だ。お前が運気を奪い取ったわけではないというのなら、お前は何のために指輪に封じられていた?」
『我に課せられた命令は大きく二つ。一つは、もし封印が解かれたなら、その場にいる者どもの運気を死なない程度に奪いつくせというもの。そしてもう一つは、もし封印が解かれた場にロブという名の者がいたならば殺せ、だ』
「……ほう?」
場の空気が変わった。これまで静かに佇むだけだったガレハドが、いまはハッキリとロブに殺意を向けている。それなのにロブはその殺気を平然と受け止め、不敵な笑みまでこぼしていた。
ぱちん、とガレハドが器用に指を鳴らす。すると空間が歪み、辺り一帯が闇に包まれた。不思議と目は見える。見上げれば、そこは夜明け前みたいな空。真っ黒な大理石の上に立っているような不思議な感覚。周囲には何もなく、<何も無い>がどこまでも続くような、そんな異空間にどうやら閉じ込められてしまったみたいだ。
『安心しろ。閉じ込めることが目的ではない。我が全力を出すために相応しい広さが必要だったのだ』
ガレハドが右手を大きく振り上げると、今度は頭上に巨大なピッチフォークが現れた。農夫が干し草をほぐしたり収穫物を持ち上げて運ぶときに用いられるものだ。もちろんそれはただのピッチフォークではなく、金色に光り輝く、鋭利な武器だった。その切っ先はロブに向けられており、いつでもお前を貫けるぞ、と言わんばかりに宙に浮いた状態で制止している。
『ちまちましたやり方は性に合わぬ。望むのは力と力のぶつかり合いだ。我の全身全霊を受け止めてみせよ。もしも見事に生き延びたならば、我は負けを認め、お前たちの前から消え失せよう』
「その勝負、受けた」




