ピクニック(※数日ぶり三度目)
水源地の湖はひんやりとした冷気に包まれていた。
湖から漂う静かな冷たさが、火照った体をひんやりと静めてくれる。爽秋の水面には紅葉が浮き、水底でみじろぎする何かの波紋にゆらゆらと揺られていた。
ほとりに並ぶ広葉樹の葉は見事に色づき、赤と黄色のグラデーションをたっぷりの情緒で彩ってくれる。さわりとした風が梢をなでて、空には見事ないわし雲が群れをなして泳いでいた。
「最高」
眼前に広がる絶景を、柚子白は端的にあらわした。若干の素が出ているが、それもやむを得ないほどに見事な光景だ。
「お弁当でも持ってこればよかったですね」
「いよいよピクニックになるなぁ」
「クルさん、いつもいい依頼持ってきますよね。狙ってます?」
「うひひ。実はね」
依頼掲示板を眺めていた時、ピンと来たのだ。このシーズンの湖ならさぞやいい景色が見れるだろうと。行政がどうのというのはもちろんあるが、実はこっちの方が狙いだったりする。
「釣り道具も持ってきてあるから。ユズとミーシアは遊んでていいぞ」
「用意周到ですねぇ」
「一応、水質調査って名目な。湖に何か気になるものがあったら教えてくれ」
「了解です。ユズちゃん、やりますよー」
「はーい」
ミーシア嬢と柚子白は釣りの用意をはじめた。ちょっと前までは初心者だったミーシアも、この半年間俺たちと一緒に遊び回ったかいあって、今では石の下にうようよいる川虫を臆さず掴みとるようになっていた。
「なるほど。これが君のやり方ってわけだ」
大賢者ニケは、そんな様子を見てにやにやと笑っていた。
「実にスマートじゃないか、枢木少年。ギルドで依頼掲示板を見たあの時にはもうこの絵を組み立てていたとは、いやはや恐れ入るよ」
「普通に楽しそうだなって思っただけですけど」
「そうやってうちの愛弟子をメロメロにしたってわけか」
「言い方。言い方よ」
人聞きが悪いことを言わないでほしかった。
「なあなあ、おばちゃんに言うてみ? 自分、ミーシアにホの字なんやろ? な?」
「あー。ニケ先生も一緒に釣りして遊んできたらどっすか」
「そんなこと言うなや兄ちゃん。おばちゃんな、若いエキスが大好物なんよ。長生きの秘訣やで」
「本当にろくでもない大人だなこの人……」
見た目だけなら俺たちより年下の少女なのに、ものすごい絡み方をする。ただただ迷惑な人だった。
ニケは楽しそうにニヨニヨと笑う。このノリで来られても面倒だ。仕方ない、禁止カードを使おう。
「というか、そもそもミーシアは男ですよね。ホの字も何もないですよ」
「……え?」
すまん、ミーシア。今だけはその嘘に乗ろう。卑怯な俺を許してくれ。
「いや、え? 枢木少年、それ本気で言ってる?」
「? どういう意味ですか?」
「ええ……。君たち、半年くらい仲良くやってたんだよね。なのに、本当に気づいてないの?」
「さあ。何のことだかさっぱり」
大賢者ニケは無言で魔法を詠唱した。言葉の真贋を確かめる魔法だ。それを見て、俺は即座に打ち消し呪文で無効化した。
「ふふ……。なるほどね、そういうことか」
「大人げないですよ、大賢者様」
「まあ、いいだろう。君がそう言うならそういうことにしておこう。その方が面白そうだし」
「その点については同意です」
こうして、ミーシアちゃんの秘密を頑張って守るぞえいえいおー同盟のメンバーが一人増えた。やったね。
水質の調査はあの二人にまかせて、俺は湖のほとりを軽く散策する。ニケは当然のようについてきた。
「いつもは研究室にこもって術式の計算ばかりしていたけれど、たまにはこういうのも悪くないね。つまらない依頼と言ったのは撤回するよ。仕事からの逃避先としてはこれ以上ないロケーションだ」
「それはどうも」
「待てよ。まさか君、私が仕事を忘れられるようにこの場所に……? 一体どこまで考えてるんだ……!」
「いや、それはないっすね」
「お姉さんをからかうのはやめるんだ、枢木少年。好きになっちゃうぞっ」
「マジでうぜぇ……」
大賢者様、にっこにこのご機嫌である。うざいなーと思った。
「ところでマイダーリン」
「枢木って呼んでください」
「枢木少年。ここ寒くない?」
ニケは寒そうに体をさすった。
寒いには寒いが、そこまで震えるほどではない。せいぜい肌寒いくらいだ。ここまで山道を歩いてきたこともあり、むしろ火照った体にこの冷気は心地よい。
だけど、肉体強化魔法に飽き足らず浮遊魔法まで使って、散々楽をしてきたこの人にとってはそうでもないかもしれない。
「まあ、大人だなんだと言っておきながら、浮遊魔法で快適に山道を抜けてきたニケ先生はそう感じるかもしれないですね」
「うわっ冷たっ。冷たいよ枢木少年、風邪引いちゃうよ!」
指を鳴らして魔法を編む。体を温めて体温を保つ、初歩的な回復魔法と火魔法のあわせ技だ。
これくらい自分でやれという気持ちをこめて、無言で付与してさしあげた。
「ありがとう。でもそういうことじゃなくてだね」
「まだ何か?」
「暦の上ではまだ秋口だ。紅葉のシーズンには少し早い。いかに山奥とは言え、ここまで冷え込むには早すぎるんじゃないかと思うんだよね」
立ち止まった。
そう言われるとそうだ。寒すぎるというほどではないが、想定していた気温より一段寒い。山の中は地上よりは寒いだろうという身構えがあったせいで気がつかなかった。
とは言え、些細な想定外で片付けられる程度の違和感だ。
「では枢木少年。この現象について己の見解を述べよ」
「今日は思ったより寒かった」
「よし、落第」
「冗談ですよ」
寒さを感じているのは俺たちだけではない。魚もそうだ。本来なら渓流に棲むはずのマスが、下流に姿をあらわしたのがこの依頼のはじまりだった。それは、上流の水が冷たくて逃げてきたからでは?
湖の水に指を浸す。明らかに冷たい。凍りつきそうなほどに。
「いい着眼点だ。一般に、水温は気温よりも温度変化は緩やかだとされてるね。なのに、今の水温は気温よりはるかに低い。となると?」
「原因は、水中にある」
「そういうこと」
散策を切り上げる。柚子白とミーシアが釣りをしている地点まで引き返すと、二人も寒そうに縮こまって釣り竿を握っていた。
「おかえり、くーくん。何か見つかった?」
「まあな。そっちの成果はどうだ?」
「なんも釣れないよ。お魚、みんな逃げちゃったみたい」
あ、でも、と柚子白は竿をあげる。釣り針の先に魚はいなかったが、代わりに別のものがくっついていた。
白くて、ふわふわとした不定形の物質だ。水を含んだモチのように柔らかい。針に引っ張られるままに、みょいんと楽しげに伸びていた。
「なんか、変なの釣れたよ。これなんだと思う?」
それが何なのか知っているくせに、幼女はこてんと首をかしげた。
それの名は、エクトプラズム。
一般に霊物質とも呼ばれる、幽霊の死骸だ。




